第2話

 記憶がなくなる。消えていく。そういう話をされたけど、あまり、心に響かなかった。


 どこかがおかしいとか、わずらっているとかではない。脳と身体の不具合。それだけ。ただの不具合なので、回避のしようもないし、どうしようもない。わたしの記憶は消える。


 恋人の、出張も近かった。何やら大きめの仕事らしく、そろそろわたしは別れるべきかなと思っている。

 彼とわたしは、釣り合わなかった。そういう、よくある別れる理由。


 彼は、料理がうまい。わたしは、料理をおいしそうに食べる。それが付き合っている最大の要因だった。彼の隣にいれば、常にごはんは世界最強の彼氏の味。それだけでいい。そして彼も、なぜかわたしがごはんをおいしそうに食べるのが、世界でいちばん嬉しいらしい。ちょっときもい。でも趣味はひとそれぞれなので、あまり気にしていない。


 彼は、街を守る仕事をしているらしい。というか、している。出逢ったのも、そのときだった。


 街が雨に包まれていたとき。絵の題材を探して街を彷徨さまよっていて、何か得体の知れないものに襲われた。死ぬとはちょっと違うんだけど、あぁ、わたしここで終わりなんだって。そんなこと思ってたら、彼が助けてくれた。


 そのまま行きずりで彼の部屋に連れていかれて、彼のごはんを食べさせられて。


 おいしかった。


 世界でいちばんおいしいと思った。


 それを見て、彼はわたしに惚れたらしい。やっぱり、ちょっときもい。部屋に連れ込んだのは、ただごはんたべさせるだけで。で、食べてるのを見て発情するとか。ちょっときもい。でも、わたしを襲った得体の知れないものに比べたら、ぜんぜんきもくない。


 彼は、そういうなんか、よく分かんない得体の知れないものを相手にしているらしい。この街はそういうよく分かんないものに狙われ続けていて、常に誰かが街を見回りして、常に危機的状況を誰かが命を睹して守っているとか。


 彼も。

 いつかは、そうやってしぬらしい。


 ただの死にたがりだった。


 そして、今度、出張する。死ににいくみたいだった。


 正直、死んでほしくはない。彼がいなくなれば、世界一おいしい彼氏のごはんが、この世から消滅してしまう。


 でも。


 わたしの記憶がきえるほうが、たぶん、はやい。だから、実質的に、わたしのほうが先にしぬ。だから、もういいかなって。思わないでもない。


 だから。


 記憶が消える前に。


 別れる。


 簡単な話。記憶が消える前に。


 特に、残したい記憶もなかった。彼と一緒に食べた、おいしいごはんの記憶程度。それ以外は本当に何も、というかそもそもそんなに意味のある記憶がない。


 生まれる。

 物心つくときにはわたしの顔のせいで環境はぐちゃぐちゃ。人がたくさん集まる場所にはとてもこわくて近寄れない。ひとりで、歩いて。彷徨って。道端で見つけた白い石で、絵を描いて。そこから、紙とノートブックを買って。それで絵を描いて。

 今に至る。

 それだけの記憶。


「わたしって、綺麗?」


 いちど、訊いたことがある。彼は、わたしの顔ではなく、ごはんを食べる姿に惚れたらしい。だから、顔ではないのかって。思って。


 彼は、相貌認識に不具合があるらしいことを、喋った。世界のすべての人間が、ほとんど同じ顔にしか見えない。同じ顔なので、良いとか悪いとか以前に、比較対象がない。でも表情の変化は分かるらしくて、同じ顔同じ表情でも、わたしがいちばん嬉しそうな顔だったからとか、そんなことを言っていた。


 ようするに、誰でもよかった。たぶんそんな感じ。


 この顔を持っていて、彼氏が相貌認識できないというのも、なんか、おもしろかった。良い顔なだけ無駄。


 別れ話は、頓挫した。なぜ頓挫するのか分からないけど、頓挫した。


 ので、彼の部屋を出て。記憶がなくなるその瞬間まで、街を彷徨うことにした。


 もうすぐ、わたしの記憶は消える。

 わたしは、わたしではなくなる。


 曇り空。

 雨でも降るのだろうか。


 そうだ。

 絵。


 絵を描こう。


 彼とのこと。忘れたくないこと。彼のごはん。彼との、時間。


 時計の、絵になった。

 道端。

 たてかける。

 時計の絵。

 数字も、針もない。円い時計。

 おいしいごはんの、時間。永遠に続けばいいのにって。そういう、思いの、絵。


 ちょっと、つかれた。


 雨が降るまでには、わたしの記憶は、もたない。最後、目に映るのは。街の景色と、曇った空。


 彼のことを、考えた。最後の記憶は。彼でいたい。

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