第一幕

プロローグ

「はっ、はっ……はっ!」


 彼女は、入り組んだ迷宮・・の中を1人で走っていた。

 荒い呼吸をしながら、何度も背後を振り返る。


 何かから逃げている彼女の後ろには誰の姿も見えなかった。


「はぁ……! はぁ!」


 しかし彼女は無人の迷宮の光景を見ても安心する事はなく、手に持った端末を掲げる。

 バックライトで明るくなった端末の画面に迷宮が映し出されていた。


 彼女はそのまま、ぐるぐると身体を回転させて全方位を端末に映し出す。

 そして画面に何も映らない事を確認すると、ようやく息を吐き、その場にへたり込んだ。



(まだ臭いがするようだわ……)


 人の死・・・を伴う悪臭が、鼻梁にこびり付いたような錯覚を彼女は感じた。

 この迷宮、ラビュリントスで怪物に食い殺されてしまった友人達の遺した臭い。

 最初は8人も居た筈なのに今ではもう彼女1人だけになってしまった。



(……最後の1人になったのに、終わらない……)


 誰がそう予測したのだったか。これは殺し合いなのだと。


 ラビュリントスに閉じ込められた8人の若い男女の生贄。

 生贄の中には、英雄【テセウス】が混じっている。



『自分こそが英雄テセウスなのだ』

『だからアリアドネ。私と赤い糸を結んでおくれ』

『私をラビュリントスの外へと導いておくれ』



 ……それは【彼女アリアドネ】へ愛を乞うように。


 結ばれていると信じた赤い糸は……その実、誰の指にも結ばれていなかった。


 英雄になろうとした彼等は選択を間違えたのかもしれない。

 だってそうだろう?


 英雄テセウスはモンスターを退治しにラビュリントスへとやって来た筈だ。

 なのに自分達がした事は、生贄同士の殺し合い・・・・


 テセウスが生贄を殺す筈がないのに。


 だって彼の目的はその生贄達を救う事だったのだ。


 だから彼は自らの意思でラビュリントスへとやって来た。

 生き残った1人が【テセウス】になって、赤い糸で脱出できるだなんて、まったくの見当違いだった。



(でも、だって。そうしたら)


 ……また、誰かが言った。


 モンスターを倒せばアリアドネが助けてくれる筈、と。

 神話に語られるテセウスの物語と言えばそうなのだ、と。


 ラビュリントスからの脱出は、アリアドネなしでは英雄テセウスとて叶わない。


 最後の1人テセウスになる事は、きっと重要ではないんだと。


 怪物を倒した時、初めてアリアドネと運命の赤い糸で結ばれる筈。

 これは、そんなロマンチックな話なのだと。だから。


 自分達がすべきことは本当は協力だった。

 協力してあのモンスターに立ち向かうべきだったのだ。

 仲違いなどしている場合ではなかったのに。



「はぁ……はぁ……」


 だけど、こうして生き残ったのは彼女1人だった。

 数人居た屈強な男性達も、自分より運動神経のいい女性も、みんな居なくなった。

 だからラビュリントスから解放される為には、モンスターを彼女1人で倒さなければならない。


「うっ……うぅ……」


 彼女の頬をボロボロと涙が伝う。

 だって彼女には分からない。怪物の倒し方が分からない。ならば自分は、このまま。



「はぁ……はぁ!」


 嫌な予感を感じて、彼女はまた端末を掲げた。


 画面が映し出すのは相変わらず無人のラビュリントスの姿だけだ。

 モンスターはまだ来ていない。



(ああ、でもアリアドネは……たしか)


 赤い糸で結ばれた恋人、アリアドネ。

 日本人でさえ誰もが知っているような、そんな赤い糸の伝説。


 赤い糸は、運命の相手と繋がっているから、ロマンチックなのだと。だけど。


(アリアドネとテセウスは……結ばれなかったのよね)


 ラビュリントスを脱出したテセウスは、たしかにアリアドネと恋人になった。

 だけれど様々な伝説において、その後のどこかでテセウスはアリアドネとは別れてしまう。


 時には、どこかの島にアリアドネを置き去りにして国に帰り。

 時には、神に彼女がさらわれた。


 とにかく2人は恋人としては全くハッピーエンドを迎えなかった。


(それなのに、運命の赤い糸……)


 恋人同士を繋ぐ象徴のように語られる伝説。


 でも今はそれでもいい。このラビュリントスから外へ出してくれるのならば。

 永遠の愛をアリアドネに捧げても構わない。



「はぁ……はぁ、あっ」


 ──カシャン。


 彼女は再び怪物の姿を確認しようと端末を掲げようとした。

 けれど汗で手を滑らせ、端末を落としてしまう。


「はぁ! はぁ!」


(大丈夫、大丈夫……)


 さっきまで怪物は彼女の近くには居なかったのだから。


「はぁ……!」


 慌てて拾った端末を前に掲げ、画面に映し出されるラビュリントスの姿を見る。


(……大丈夫、大丈夫)


「え」


 しかし。



『………………』


 画面に映し出されたのは、筋肉質な男の身体。

 そして、その男性の、人間の身体の頭部は……牛の頭。


「ひっ……あっ……、い」



 ──その怪物の名は、ミノタウロス。



『ォオオオオオオオオオオオオッ!!!』


「いやぁああああああああああああッ!!」


 咆哮する怪物を前にし、悲鳴を上げる女。

 その悲鳴を最期にして……彼女は、とうとう怪物に喰い殺されてしまった。

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