第18話
海水浴に行った翌日。
珍しく、というか初めて、優香が寝坊をした。
夏休み中は朝九時ごろに優香が僕の家に来て、勉強をはじめ、お昼前になったら料理に取り掛かるという日常を送っていた。ところがこの日、優香は十時になっても来なかった。僕自身十時まで寝ていたから何も問題ないのだが。
『今日は来ないの?』
とメッセージを送ったところ、三十分後くらいにチャイムが鳴った。
「ごめんなさい……寝坊しちゃいました……」
まだ寝癖が取れていないのか、少しぺたっとした髪のままで優香は現れた。
「あはは。昨日疲れたからでしょ。僕も今まで寝てたからいいよ」
「はい……」
料理をして勉強を教わるというスタンスを崩さない優香は、どこまでもきちっと生きているイメージだったが、たまには寝坊もするのだ。僕としてはいつもよりも好感が持てたというか、親近感が湧いた。
優香はすぐ昼食の準備に取り掛かった。スーパーで安売りをしていた麺を使い、焼きそばをささっと作った。さすがにこんな日は、手の込んだ料理はできないか。それでも十分美味しいし、野菜たっぷりだから栄養面でもありがたいのだけど。
「筋肉痛で腕が振れなくて、ちょっと焦げちゃいました~」
「あはは。全力で泳いでたもんね、優香ちゃん」
焦げたといってもほんの少しだが、料理の上手い優香としては気に食わないらしく、しょげた顔で焼きそばをすすっていた。
「ねえ優香ちゃん、夏休み中に行きたいところ、海以外にある?」
「えっ? 優香は特に……海水浴だけで十分です」
「そうなの? 八月の後半に花火大会とかあるけど、行きたくない?」
「花火……ですか? 優香、花火見たことないです」
「ええ……?」
デートとして行くかどうかはともかく、子供の頃に親と花火大会……というのは、どこの家庭にも普通にあると思うのだが。ただ一人暮らしをしているあたり、親との関係が微妙な可能性もあるので、ここは慎重に聞かなければ。
「優香ちゃん、中学生の時とか、夏休みはいつも何してたの?」
「えっと……ピアノの練習です。毎年、九月にコンクールがあったし、合唱部の伴奏もしていたので」
「そんな、一日中するものじゃないでしょ」
「一日中です」
「何時から何時まで」
「えっと……朝八時から夜九時までです」
「一日中だったわ……」
僕も夏休みはゲームばっかりしているが、それに匹敵する時間だ。今はピアノから離れているらしいけど、楽しければそれくらいはできるということだろうか。
「それくらい練習しないと、コンクールでいい賞取れないですし、合唱部の皆さんにも迷惑がかかるので……」
「そっか。でも今は、ピアノやってないんでしょ」
「はい。だからその分お勉強します」
「そこまでしなくていいって。もう赤点取るような成績じゃないんだからさ。花火大会、一緒に行こうよ」
「むむ……」
優香はきちっとしているように見えて、世間知らずなところがあるのは何となく察していた。花火大会へ行こう、はデートの誘いに違いないのだが、楽しみたいというより、優香に社会経験を積ませてあげたいという気持ちが強かったように思う。そうじゃないと、デートに誘うとか、付き合ってまだ数ヶ月の僕には恥ずかしい行為なのだ。
「りんご飴食べたくない?」
「むむ……食べたいです……食べたいんですけど……」
「何か問題があるの?」
「人混みの中を歩くと、優香、いつも迷子になるので……」
「ああ、たしかに優香ちゃんちっちゃいから、見失いそう」
「うう……」
いけない。優香が完全にしょげてしまった。ここは「僕がついてるから大丈夫だよ」とでも言うべきだった。
「じゃあ、ここから見ようか。実は花火見るだけなら、ベランダからばっちり見えるんだよ。花火大会の会場は混んでて、なかなかいい場所取れないもんね」
「それなら、優香も一緒に見たいですっ」
「うん、そうしよう」
* * *
花火大会の日。
夜になって、優香は一度自宅に戻り、着替えてからまた僕の家にやってきた。
「どう、ですか?」
優香は、浅葱色のしっとりした浴衣で身を包んでいた。
「おお……」
背が小さいこともあってか、その浴衣姿はよく似合っていた。海水浴の時と同じ、上げてまとめた髪も、いつもと違う雰囲気で。場所は同じだけど、特別な日であることを意識するのは十分だった。
「似合ってない、ですか」
「いやいや。なんかね、今まで見た優香ちゃんの中で、一番大人っぽいよ」
「……うっ」
率直な感想を述べると、優香はうつむいて、嬉しさを隠せずにやにやと、口元を動かしていた。
「これまでの人生で、いま言われたことが一番嬉しいです」
「えっ、そう?」
「優香、大人っぽいですか?」
「うん、すごく大人っぽいよ」
「ふふふ」
なるほど、いつも小さくて子供扱いされるから、大人っぽいと言われたら嬉しいんだな。
もう花火が始まる時間だったので、ベランダに移動した。近くにある川辺の公園は、すでにオレンジ色のくすんだ照明と人々の活気にあふれる声に満ちている。
「それ、一人で着付けしたの?」
「はいっ。気合い入れて帯締めしました」
優香はまだうれしいのか、くるっくるっと一回転して、帯のあたりも見せてくれた。
「すごいね。今時できる人珍しいんでしょ。昔妹が夏祭りで浴衣着てた時、わざわざおばあちゃんの家まで行って着付けしてもらってたよ」
「……」
おばあちゃん、のところで、なぜか優香は、ふと悲しくなるような表情を見せた。
「この浴衣……おばあちゃんからもらったんです」
「なるほど。だからそんなに渋い色なんだね」
「はい……」
「おばあちゃんは……」
何気なくそう聞いた時。
優香の頬に、一筋の涙が伝わっていくのを、僕は見逃さなかった。
一発目の打ち上げ花火が空に上がり、その模様が涙に映りこんで、それは虹色の雫になった。
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