第6話

 土曜の午後、瑠璃は中学時代の友達と遊ぶということで、一人青柳モールへ出かけていった。

 僕と優香は、いつもどおり家で勉強会。

 ひととおり教え終わり、もう片付けて優香が帰る……という時、急に優香がもじもじとして、僕を上目遣いで見上げてきた。

 身長差があるからどう頑張っても上目遣いにはなるのだが、大体この時は何か、お願いがあるのだ。ここまでの付き合いで悟った。そして優香にお願いをされて断れる男などこの世にいないので、ある程度の覚悟を持って話を聞かなければならない。


「あの……先輩、一つ聞いてもいいですか」

「うん、なに?」

「瑠璃ちゃんは、先輩のことを『航くん』って呼ぶんですよね……お兄ちゃん、とかじゃないんですか」

「あー、それ? うちの場合、両親が僕らのことを航くん、瑠璃ちゃんって呼んでたから、それがそのままうつったらしいよ」

「そう、なんですか……優香は、きょうだいがいないので、よくわからないです」

「けっこう人それぞれだと思うよ? 高校生でもお兄ちゃんって呼ぶやつもいるし」


 じっ。

 優香ちゃんが、おそるおそる僕を見ている。ここからが本番だ。


「優香も、航くん、って呼んでもいいですか」

「え」


 僕としては全く予想外のお願いだった。

 出会ってからずっと、先輩もしくは奥野先輩と呼ばれていて、何も違和感はなかった。僕は運動部のような上下関係のある部活をやっていないので、先輩と呼ばれる機会はあまりなく、特別な感じがして、普通に気に入っていたのだ。


「いつもの先輩、じゃだめなの?」

「だめじゃないですけど……先輩、っていうのは、真里ちゃんとかほかの子もそう呼ぶので、もっと親しい呼び方がいいです」


 僕の場合、奥野という名字は他の人とあまりかぶらないし、大地みたいにスター性があってあえて皆から下の名前で呼ばれるという機会がない。だから、航と呼ぶのは家族と、優香だけになる。

 今は、優香と付き合っているのだ。それくらい求められてもおかしくはないか。


「うん、いいよ別に」

「本当ですか!? じゃあ、呼んでみますね」

「どうぞ」

「わたる、くん」

「……っつう~!」


 軽く考えていたのだが、恥ずかしさと嬉しさの混じり合った感情に押され、変な声が出てしまった。

 何だろう、呼び方を変えただけだというのに。

 『先輩』と『航くん』では、学校で出席を取るときに先生から呼ばれる声と、突然かわいい女子に話しかけられるくらいの落差があった。

 言った優香も、恥ずかしくなったようで、顔が真っ赤だ。非常にいたたまれない空気に包まれる。


「や、やっぱりだめですか?」

「だめじゃない! だめじゃないけど! うーんなんかね、なんか恥ずかしいんだよね……そうだ、昔小学生のときに、瑠璃ちゃんが僕のこと航くんって呼んで、そのあとクラスメイトから航くん、航くんってからかわれたんだよ。普段は奥野くんだったからさ。そのときの気持ちに近い」

「じゃあ……やっぱりだめですか」

「だめじゃないんだけどなあ……何だろう、どうすればいいかな」

「『くん』だから恥ずかしいのですか? 先輩なので、『航さん』にしましょうか」

「なるほど。ちょっと試してみて」

「わたる、さん」

「コポオ」


 今度は正真正銘のときめきだった。

 航さん、などと呼ばれたことは一度もないから、優香が僕のことを特別に思ってるし、僕にとって優香は特別であると、その言葉の響きだけで体中にリフレインする。


「そっちがいいな。航さん、とか呼ぶのはこの世界で優香ちゃんだけだからね」

「……瑠璃ちゃんよりも、特別ですか?」


 ちょっと悲しそうな顔で、優香が聞いてきた。

 もしかして、瑠璃に嫉妬していたのか。あんなのに恋愛感情は一切ないし、親に色々チクるという意味では敵対した存在なのに。


「うん。瑠璃ちゃんに名前呼ばれただけでは何も嬉しくないからね」

「そ、そうですか……」

「そういえばさ、僕はなんて呼べばいい?」


 僕はいつも優香ちゃん、と呼んでいるのだが。優香の場合、学校全体のアイドルであり皆から下の名前プラスちゃん付けで呼ばれているから、優香ちゃん、と呼んだところで特別感がない。かといって秋山さんと呼ぶのは、女慣れしておらずどうしても女の子を下の名前で呼べない哀れな童貞男子だけなので、それもおかしい。


「優香は、特に気にしないですよ。優香ちゃん、でいいです」

「でもみんなと同じ呼び方だよね。僕も特別な呼び方にしたほうがいいかなと思って」

「いいんですか……?」

「うん。希望があったら言ってみて」

「じゃあ、優香、でお願いします」


 なるほど、ちゃん、をつけずに呼び捨てにするわけか。

 ちゃん、が付くのは優香の可愛らしさを示しているので、少し大人っぽい表現になる。


「うん、わかった。優香ちゃ――」


 僕は希望通りに言おうとしたが、ちゃん、をつけるのが常態化していたので、つい勢いあまってちゃん、まで言いそうになる。


「あう……」

「ごめんごめん、いつもの癖が出ちゃった! 言い直すよ、優香! 優香!!」

「ふ、ふぇ……」


 僕はちゃん、まで言ってしまわないよう、気合をいれて優香、と力強く叫んだ。


 こんどは優香が恥ずかしさに襲われる番で、手で顔を隠して、あっちを向いてしまった。


「だめかな?」

「そんなことないです、いつもそうやって呼んでください」

「はは。これで付き合ってるっぽくなったね?」

「は、はい……航さん」

「フォカヌポウ」


 こうして僕たちはしばらくの間、『航さん』『優香』と呼び合い、顔を真っ赤にしながら、最後は二人で大笑いした。

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