第3話

 さて、上尾さんによる優香へのお絵描き指導と、その後学校から家まで優香と一緒に帰るという新しい日常が始まって、金曜日になった。

 最初は痛いほど視線を感じたが、噂が広まり珍しくなくなったのか、一緒に帰る僕と優香は徐々に注目されなくなっていった。

 一緒に帰る……付き合っている男女としてはごく一般的な行為だ。それを実現できているだけで、優香との距離は縮められたのだろうか。

 一方で、優香と話すことはあまり変わらなかった。つまり勉強のことや、夕食に何を作るか、ということなどで、以前とあまり変わらない雰囲気が続いた。

 このままでいいのかな、と考えていた金曜の夜のこと。

 大雨と、雷が降り始めた。

 もう六月で、そういうシーズンなのは知っていた。僕は停電でパソコンが壊れないよう、電源を切り、さっさと寝ることにした。が、


「ひうっ」


 壁の向こうから、優香の叫び声が聞こえてきた。

 僕は雷なんか怖くないけど、優香は一人で、心細いかもしれない。心配になってLINEを送った。


『大丈夫?』

『だめです』


 数秒で返事が来た。やっぱり怖いみたいだ。


『うち来る?』

『行きます』


 一人より、誰か近くにいるほうが心強いだろう。

 メッセージを送ってから数十秒後、玄関のチャイムが鳴った。

 僕がドアを開けると、


「うう~」


 優香が家の中にダイブしてきた。


「んん……?」


 僕は、優香の姿を見て驚いた。

 パジャマ姿だったのだ。

 あまりに怖くて、着替える余裕もなく走ってきたらしい。

 薄黄色の、花柄がついたいかにも女の子っぽいパジャマ。長袖長ズボンだから、露出度は少ない。

 しかし、何だろう、普段は制服かきれいにまとまった私服姿しか見ていないので、抜き身のままというか、生々しい可愛さがあった。可愛くしようと心がけなくても自然に可愛いのは知っていたが、これはやばい。理性が飛びそうだ。

 おまけに髪が少し濡れている。マンションの廊下は屋根がついているので、お風呂から出た直後なのだろう。シャンプーの柑橘系っぽい香りがすんすん、と香ってくる。

 あと、なぜか熊のぬいぐるみを抱いていた。これも可愛かった。


「怖いです~」

「あ、あはは、とりあえず入りなよ」


 そう言っている間にも、ドカン! と雷が鳴る。


「きゃっ!」


 優香が僕の胸に飛び込んでくる。熊のぬいぐるみをぎゅっ、と強力に抱きしめながら。強すぎてぬいぐるみの胴体が歪んでいた。


「そんなに抱きしめたら熊さん死んじゃうよ」

「マニューちゃんは頑丈なので大丈夫です」


 名前あるのか。マニューちゃん。何語なんだろう。

とにかく落ち着かないと、と思って、リビングのソファに座らせた。

 雷はどんどん近づいてきていて、一瞬の閃光が走った後、轟音が鳴り響く。


「はうう」


 優香は雷が鳴るたびに、隣に座る僕へ肩をぎゅっと寄せてきた。


「はいはい、建物の中にいれば大丈夫だからね」


 雷は怖くない。それより僕にとっての問題は、隣にいるお風呂上がりの優香だ。

 密着している以上、石鹸やシャンプーがふわふわと浮いているし。

 あと、落ち着いてから気づいたのだが、優香のあの大きな胸が、いつも見るよりさらに大きくなっている気がする。パジャマのボタンが胸の部分だけぐいと張っていて、今にもはち切れそうだ。薄着だから大きく見えるのだろうか。あるいは、もしかして、下着をつけていないとか――

 そんなことばかり考えて、僕は(主に下半身が)大丈夫じゃなかった。早く嵐が過ぎてしまうことを祈っていた。

 その時、何度目かわからない雷鳴と共に、部屋の電気が消えた。


「あ」


 落雷による停電だ。何度か経験したことがある。

 家電が全部止まったため、雨音以外は何も聞こえない、静かな暗闇に包まれた。

 優香は、何も言わない。右肩が触れているので、隣にいるはずなのだが。


「ゆ、優香ちゃん?」


 反応がない。

 まずい。今のショックで完全にフリーズというか、失神してしまったのか。暗くて何も見えないから、優香の顔色がわからない。

 まず明かりをつけないと。僕はソファに放っていた自分のスマホを探そうと、手を伸ばした。


 ふに。


「ひゃあうっ!?」


 何か雲のようにやわらかいものに触れて、優香がびくん、と震えた。


「あっ……!?」


 今、とんでもないことをしてしまった気がするぞ。どこを触ったのか全くわからないけど。どこだろうが無許可で不用意に触れるなんてありえない。ぬいぐるみを触ったんだ、と開き直るしかないな、これ。

 落ち着いてスマホを手に取り、ライトをつける。


「優香ちゃん、大丈夫?」

「もう無理です……おへそとられちゃいました……」

「まだあると思うよ!?」


 朦朧とした目で、パジャマをめくって確認しようとする優香。いやちょっと待て。今そこでお腹なんか見せられたら。ああ。あああ。

 僕も優香も色々と限界に達しそうだった、その時。

 玄関のドアが、大きなバタン、という音をたてて開いた。


「えっ」

「ひゃう」


 これは僕にとっても全く予想外だった。優香が入った時、たしかに鍵を閉めたはず。停電に乗じて、ピッキングができる泥棒が来たのか。だとしたらマジでやばい。

 すたすた、と早足で誰かがリビングへ近づいてくる。


「ひい」


 怯える優香。僕も怖かったが、優香の前に手をかざして、守る姿勢を取るしかなかった。

 足音が、リビングまで達した時。

 電気がつき、部屋が明るさを取り戻した。


「ちょっ……どういう……こと……!?」


 ずぶ濡れの、見覚えのある女の子が立っていた。


「瑠璃……ちゃん……?」


 その子の名前は、奥野瑠璃。

 僕の妹、だった。

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