鬼が辻

尾手メシ

鬼が辻

 夜の風は湿気を含んでいた。薄っすらと雲がかかってきているのか、夜空に瞬く星の数は多くない。満月をいくらか過ぎて頭の欠けてきている月が、浮雲の向こうにけぶって見える。

 天気予報は何と言っていただろうか。米倉義信よしのぶは酔いの回った頭で記憶を探った。雨の振り始めは明日の明け方近くだと言っていたような気がするが、今夜の夜半すぎと言っていたような気もする。どちらが正しいのかは判然としないが、いずれにせよ、明日の空は雨模様であるとは言っていたはずだ。

 夜風が再び義信を撫でる。けして強くはない。さわさわと、いっそ控えめに、遠慮するように撫でていく。緩めたシャツの襟元から忍び込んでくる湿り気が、梅雨の近さを感じさせた。

 三度みたび、風が撫でていく。今度の風はいささか強く吹いた。日中は汗ばむほどだったが、日が暮れるとことんと気温は下がった。日の高いうちは煩わしかったスーツの上着が、今は丁度良く感じる。

 義信の脇を、男が足早に追い抜いていく。リュックを背負った若い男は大学生だろうか。半袖から伸びる腕を小さく折りたたんでリュックの肩紐を掴み、背を丸めるようにして歩き去っていく。頭から掛けた大きいヘッドホンで外界を遮断して、それで寒さから身を守ろうとしているようだった。

 半袖の男には寒すぎるのだろうが、上着を着て酔いで火照っている義信には、今の気温は良い塩梅だった。このままゆっくり歩いて帰っていれば、家に着く頃には酔いも醒めているだろう。家に帰りつけば、あとは風呂に入って眠るだけだ。明日も仕事があるが、さりとて急いで帰らなければならない時間でもない。

 夜の九時を回った住宅街は、ひっそりと静まっている。さすがに寝静まっている家というのは少ないようで、道の両脇に並ぶ家の窓、そのカーテン越しに光が漏れている。街灯が道行きを照らしていて、闇夜の陰気さを払っていた。僅かにわだかまる闇には、月がしみじみと光を落としている。

 また一人、義信の脇を追い抜いていく。今度は若い女で、スーツを着ているところをみると、義信と同じように仕事帰りなのだろう。スーツを着ている、というより、スーツに着られている、という様が、いかにも初々しい。ちらりと横目で見た女の耳にイヤホンがささっている。暗い夜道をイヤホンをして歩くのは、いかにも不用心に義信には思えるが、きっといらぬ世話だろう。

 女はすぐ先の十字路を左へと曲がっていった。角を曲がる際、女はちらりと義信に視線をやった。たまたまだったのか、女なりの警戒心からだったのか。それは判然としないが、義信は自分の中の老婆心を見透かされたような気がして、小さく苦笑した。


 ――それにしても

と、義信は思う。それにしても、最近の若者は四六時中イヤホンをしている。会社の若い連中にしたって何かといえば耳にさしている。

 気になって、社食での昼食の雑談混じりに若手に訊いてみたことがある。

「いつも何を聴いているんだ?」

「ああ、これですか?音楽じゃないですよ、ゲームなんです」

返ってきた答えに、いささか面食らった。

 会社でゲームをする、という発想そのものが義信にはなかった。若手はべつに業務時間中にゲームで遊んでいたわけではない。休憩時間を利用して、分別を持って遊んでいる。業務に支障をきたしているわけでもないのだから、義信がどうこう言う話ではないのだが、それにしたって会社でゲームなんて。

 唖然としたが、それを義信は面には出さなかった、つもりだ。実際はどうだったのかは義信にはわからないが、少なくとも若手が眉をひそめることはなかったので、胸をなでおろした。若手の言葉が先に続いたからだ。

「今、部長と対戦しているんです」

思わず振り向いて見た部長、悔しそうにしていたのできっと負けたのだろう。

 自分はどうだっただろうかと思い出すが、義信が若いときに上役との間で両者の仲立ちをしていたのは、常に酒だったように思う。

 ――最初の男も、次の女も、一体何を聴いていたのだろうか

 若手に流行りの曲を訊けば、いくつかの曲名を挙げてきた。

「それ、CD持ってるの?」

 義信の言葉に、若手は一瞬きょとんとした顔をした。ややあって、「ああ」と一人納得したように小さく頷く。

「今どきCDなんて、ファン以外は買いませんよ。サブスクです」

 サブスク。サブスクリプション。いわゆる定額制サービスのことだ、ということは義信も知っている。知ってはいるが、自分には縁遠いものだと感じて、詳しくはわからない。

 ――あんなものは、若者の

そこで思考は止まる。止めた、といったほうが適切かもしれない。その先にあるのは冷たい残酷さであって、あえてそこに踏み込んでいく意義も勇気も義信にはない。

 若手が義信に向ける笑顔の中に、中年男に対する憐れみが混じっている。そんなことを考える自分が滑稽で、義信の口が笑みの形に歪んだ。

 世間が義信を置き去りにして先へ先へと進んでいく。世界から自分一人が取り残されていっているようで、そこはかとなく寂しさを感じるが、そのことに対して焦燥感を持つかといえば、そうでもない。仕方ないのだという諦念は、四十後半という義信の年齢からくるものだろうか、それとも義信個人の資質によるものだろうか。


 益体もないことを考えながら歩いていれば、やがて、ある十字路に差し掛かった。

 そこを越えようとしたとき、ふいに上着の袖が引かれた。

「おい」

 どこからか声がする。袖の引かれた右側を見てみるが、そこには何もない。

 また、くいっと袖が引かれた。

「おい」

やはり声がして、義信は声のする方へ視線を下げた。

 鬼がいた。

 鬼、なのだろうと、義信は空回りする頭で考えた。

 背丈はそんなに高くはない。頭が義信の腰の位置にある。ぽっこりと腹の膨らんだ体からひょろりとした手足が伸びていて、頭には親指ほどの長さの角が二本飛び出している。義信を見上げてくる目は黄色く濁り、瞳孔が縦に割れていた。大きく裂けた口の隙間から、乱杭歯が覗いている。

「おい、何してんだ。さっさと控えろ」

「えっ?」

 なんとも間の抜けた声が、義信の口から漏れた。それが気に障った、とうわけではないだろうが、鬼の声が少しきつくなる。子どものような高い、しわがれた声だった。

「みんな、もう控えてんだから、お前も早く控えろ。お叱りを受けるぞ」

 鬼の言葉に促されてまわりを見て、そこで初めて義信は気がついた。今、まさに自分が渡ろうとしていたその道の両側に、ずらりと鬼が並んで膝を付いている。

 「さあ早く」と、再度鬼に促されて、訳も分からぬままに義信は膝を付いた。義信の隣に鬼も膝を付いてかしこまる。


 どーん、どーん


 道の向こうから、太鼓を叩く音がする。


 がらがら、がしゃん


 金属を打ち鳴らす音がそれに続く。


 どーん、がらがしゃん


 賑やかな鳴り物に気を取られていると、やがて鬼の姿が見えてきた。義信の隣や、まわりに控えている鬼とは明らかに違う、身の丈二メートルを越えるような立派な体躯をした鬼だ。あれも鬼なのだとしたら、義信の隣で控えている鬼は、さしずめ小鬼なのだろう。それが、列をなして歩いてきていた。

 先頭の鬼が太鼓を叩く。その後ろの鬼が、金属の輪を連ねたようなものを打ち鳴らす。その後に、大きな金棒を担いだ鬼が二列になって続いていく。さらに後方、豪華な輿が闇の向こうに透けて見えた。

「これは一体…‥」

「何だお前、まさか知らずに参列してたのか?」

 呆然とつぶやいた義信に、隣の小鬼が呆れたように返した。

「これは姫様の花嫁行列だよ」

子鬼の声に、どこか誇らしさが混じっている。

 二人が話している間にも、行列は近づいてくる。

「したーにー、したにー」

 低く野太い、しわがれた声が響く。

「したーにー、したにー」

 腹の底まで震えるような、銅鑼を打つような声だった。

 声に合わせて、道の両側に控える小鬼たちが頭を垂れていく。いっそう近づいてくる行列、はっきりと見えてきた輿に乗っているだろう姫というものが見えないだろうかと、義信は首を伸ばしかけたが、隣の子鬼に強く袖を引かれて諦めた。小鬼たちに合わせて、義信も顔を伏せる。


 どーん、どーん

 がらがら、がしゃん


 音が近づいてきて、ついで、鬼たちが大地を踏みしめる足音が近づいてくる。まるで地鳴りのように、びりびりと世界が震えている。

 鬼の花嫁行列が、ゆっくりと義信の前を通り過ぎていく。顔を伏せる義信の狭い視界の中、鋭く尖った爪を持つ、太い、大きな足が垣間見える。幅の広い、ともすれば、義信の顔よりも広いのではないかと思えるような足である。そこから伸びる足首も相当なものだ。義信の足首とは比べるべくもなく、その足で踏みしめて、よくアスファルトが砕けないものだと感心してしまう。硬く力強いその足は、義信の人間の足とは根本から違うのかもしれない。

 そのときになって、どこか夢の中にいるような、ふわふわとした心地でいた義信の心に、ようやく恐怖が追いついてきた。

 人間である自分が、はたしてここにまぎれこんでいて許されるのだろうか。人間であることを見咎められはしないだろうか。あの大きな鬼の足なら、義信の頭など簡単に踏み砕いてしまえるだろう。ともすれば、次の瞬間には踏み砕かれてはいやしないだろうか。

 義信の背中をぞわりとしたものが駆け上がった。義信の体がカタカタと小刻みに震えているのは、鬼たちが大地を踏みしめるためでもあるし、その根源的な恐怖によるためでもあった。

 ゆっくりと進んでいた花嫁行列が、ふいに止まった。異例のことなのだろうか、まわりの小鬼たちに、ざわざわと戸惑いと緊張が広がっていく。義信の脇を、冷たい汗が流れていく。

「そちは人間か?」

 義信の伏せている頭のはるか上から声が落ちてきた。しわがれた声だが、高い。子鬼の子どものような高さとは明らかに違う、女の高い声だ。声は不思議なまろみを帯びて、しとやかに広がっていく。

 間違いようもなく、義信に向けた言葉だった。しかし、これに対してどうすればいいのかが義信にはわからない。答えたほうがいいのか、もしくは、答えないほうがいいのか。答えないのは非礼に当たる気がするが、へたに答えれば無礼であると叱責されそうでもある。

 身を固くする義信に、鬼の低い声が降ってくる。

「直答を許す」

隣の子鬼も義信の腕を突っついて、「早く答えろ」とせっついてくる。

 覚悟を決めた義信は、大きく息を吸い込んだ。

「わ、私は、人間、で、ございます」

なんとか絞り出した声は、自分でも情けなくなるほど震えていた。

「ほう、人間の参列者とは珍しいもの」

姫の声はどこか楽しげで、義信を不快には思っていない様子だった。どうやらすぐさまの無礼討ちはなさそうだ、と義信の頭の中の僅かに冷えている部分が安堵する。無礼ではないなら、次は祝いの言葉を述べるべきだろうか。結婚式に参加して、花嫁に祝いの言葉を掛ける。何らおかしいところはない行為だが、それが鬼の婚礼に対しても適用できるのかどうかはわからない。義信は再び息を吸い込んだ。

「本日は、めでたい場に末席に加えていただきまして、大変に恐縮でございます。私のような卑賤の身では僭越でございますが、お祝いを申し上げます」

どうにか言い切って、義信は深く頭を下げる。

「ほっ。人間の身で鬼の婚礼を寿ことほぐとは、なかなかにあっぱれである。褒美に、そちにも祝い酒を取らす」

 姫の笑い声を残して、行列はゆっくりと進んでいく。


 どーん、がらがしゃん


音が離れていく。


 姫の乗った輿が遠くに離れていってから、ようやく義信の体から力が抜けた。行列はまだ続いているようだったが、まわりの小鬼たちが身を起こしているのが気配でわかる。隣の子鬼が動き出したのに合わせて、義信も伏せていた顔を上げた。

 行列は、金棒を担いだ勇壮な鬼たちから、かめを背負った鬼へと変わっている。大人一人がゆうに入りそうな大きさの甕は、中身が何かはわからないが、大層重そうにみえる。それを、鬼はなんでもないように軽々と背負って歩いている。

 義信がいるところよりも少し先まで進んで立ち止まった鬼は、背負っていた甕を地面に置いた。ずしん、と振動が義信にまで伝わってくる。

「姫からの祝い酒である。ありがたく頂戴するように」

 鬼の声に、小鬼たちがわっと湧いた。いそいそと甕のまわりに群がっていく。

「ほら、早くいくぞ」

 隣の子鬼に声を掛けられて、義信も立ち上がろうと足に力を込める。ぐっと体を持ち上げたつもりだったが、実際には情けなくも尻餅をついてへたりこんだだけだった。

 そんな義信の姿を見て、子鬼は一つ溜息をつく。

「しょうがねぇな、まったく」

それだけを言って、子鬼も甕のほうに歩いていってしまう。

 一人残された義信は、へたりこんだままぼうっと騒ぐ鬼たちを眺めていた。隣に子鬼がいなくなっただけで、見えている世界がひどく遠くに感じた。

 自分と鬼たちとの間にひどい断絶があるようで、いや、確かに人間と鬼という断絶があるのだが、それとはまた違った隔たりが横たわっているように思える。それは、日常のふとした瞬間に感じるあの諦念のような、世界からの疎外感によく似た横顔をしているようだった。

 風が一陣、吹き抜けていく。

 横顔が僅かに義信に向いたような気がして、それに正面から向き合ってしまえば、もう逃れる術はないのだという予感がして、義信は堪らず顔を伏せた。

 伏せられて狭まった視界の中、鬼の足がふいに現れる。

 今度の鬼の足は小さく細い。

「ほら、お前の分」

 降ってきた声は、しわがれた、子どものような高い声だった。

 顔を上げた義信の眼前に、木の枡が突き出されている。のろのろと視線を上げていくと、子鬼と目が合った。

「どうした、はやく受け取れよ」

 子鬼に促されるままに、義信は枡を受け取った。

 一合ほどの大きさの枡に、透明な液体がなみなみと注がれている。顔を近づけると、アルコールと米の甘い香りが鼻先をくすぐっていく。

 ――これは、飲んでも大丈夫なのだろうか?

確かな懸念が、義信の頭の一部で声を上げている。鬼が用意した鬼の酒を、人間である義信が口にして無事に済むかどうかはわからない。鬼に悪気はなくとも、それが義信に毒として作用しないと誰が言えるだろうか。

「飲まんのか?」

 じっと枡を見つめている義信に子鬼から声が掛かった。もう一度、義信は子鬼の顔を見る。義信に鬼の表情はよくわからないが、そこには酒を飲まないことに対する純粋な疑問と、義信に向ける気安い親愛があった。

 もし義信がこの酒を飲まなければ、この子鬼はどう思うだろうか。不快に顔を歪めるかもしれないし、案外とあっさり引き下がるかもしれない。ただ、いずれにしても、今感じているような、背中が少しむずむずするような親愛は、霧散して義信の手の届かないところへと去ってしまうだろう。義信の取れる行動など、もとから一つしかない。

 おもむろに枡に口をつけ、僅かに枡を傾けた。口中に流れ込んできた酒を、一息に飲み込む。酒が食道から胃へと、すうーっと流れ落ちていくのを感じた。

「美味い」

 思わず言葉を零していたことに、義信は気がつかなかった。美味い。ただただ美味い。説明のしようもなく、ひたすらに美味い。

 次はもっと味わって飲もう、そう思っていた義信だったが、いざ枡に口をつけると、そんな考えも吹き飛んでしまう。

 ぐうっと枡を傾けて、喉を鳴らして飲んでいく。一度、二度、三度、四度。五度目は、もう飲むべきものが枡の中には残っていなかった。

 義信はすっかりと空になった枡を愕然とした心地で眺めた。枡から顔を上げられない義信に、またぞろ鬼の手が差し出される。大きい手だった。

「飲み終わったんなら、枡を返しな」

 いつの間にか、甕を背負っていた鬼が義信の目の前に立っていた。鬼に促されるままに枡を返したが、名残惜しくて、ついつい枡を目で追ってしまう。その義信の様子がよほど面白かったのか、鬼が声を震わせる。

「どうだ、美味かったろう、鬼の酒は」

 鬼の口端が吊り上がって、その面相がいびつに歪む。いっそ凶悪な相貌だったが、鬼が笑っているということは一目瞭然だった。

「美味かった……いや、美味かった」

 絞り出すような義信の声に、鬼はまた声を上げて笑った、まわりの小鬼たちも、ゲラゲラと楽しげにしている。

 ひとしきり笑うと、鬼は再び甕を背負う。義信の枡が最後だったのだろう。中身が減ったとはいってもなお重そうな甕を背負って、その重量を感じさせない軽い軽快さで、足早に行列を追っていく。

 その背を見送りながら、未だに余韻に浸っている義信に、横合いから声が掛かった。

「それじゃ、帰るとするか」

 子鬼が、義信のそばの仄暗い影の中へと身を沈める。見る間に闇と溶け合って、その姿は見えなくなった。義信が一言、言葉を交わす暇もなかった。まわりの小鬼たちも、三々五々、近くの影の中へと帰っていく。あとには、義信一人だけが残された。


 *


 あの晩を境に、米倉義信の世界がガラリと変わった、ということはない。日常は相も変わらず続いている。義信の知らないところで何かが流行り、何かが廃れている。部長はどうやらリベンジを果たしたようで、今度は若手が悔しそうにしていた。やはり、その関係性や距離感は、義信にはよく理解できない。

 しいて変化を挙げるとすれば、あれから体調が良いことだろうか。次の朝の目覚めは爽快で、いくら寝てもしつこくこびりつくように残っていた疲れが、すっかりと嘘のように取れていた。しかし、それに感動したのもその朝だけのことで、二日、三日と経つうちに、普通という言葉の中に内包されていった。

 体調の改善は良い変化だが、困った変化もある。あれ以来、どんな酒を飲んでも満足出来なくなってしまった。美味いとは思うのだが、鬼の酒のほうがもっと美味かった、とついつい考えてしまう。近場で手に入る酒では満足できなくて、遠方まで足を伸ばしての酒蔵めぐりが、義信の趣味のごとくなった。

 今日も他県の酒蔵まで出向いては、「美味いが、鬼の酒には及ばない」とつぶやいている。

 あの鬼たちが何だったのかはわからない。花嫁行列の向かった先、あの道をまっすぐ進むと左右に二股に分かれていて、Y字路になっている。突き当りに立っているのは、何の変哲もないマンションだ。まさか、あのマンションの住人に嫁いだ、とうことはないだろう。鬼の進む道が、現実の道に則しているとも限らない。

 図書館で軽く調べてみはしたが、謎が解けることはなかった。ただ、古い民話を集めた民話集の中に、鬼の行列に遭遇した男の話が載っていた。しかし、これも、たんに男が鬼に出会ったというだけの話で、鬼についての詳しい記述はなかった。

 ――気にならないといえば嘘になるが、わからなければわからないで構わない

 達観、とはまた違った感情が義信の中にある。諦念ではない。もっとさらりと、あっさりとしたものが義信の中にあって、それでいいのだと言っている。

 鬼の謎も、やがては普通の中に紛れ込んで影を薄くしていくだろう。

 鬼の酒は、かすかに舌に残っている。

 小鬼のあの目は、はっきりと記憶に残っている。


 *


 さて、これはまったくの余談であるが、酒造関係者の間で、義信はちょっとした有名人である。ただ、そのことに、義信本人は気がついていない。きっかけは些細なことだった。

 新酒の蔵開きの時期を除けば、酒蔵まで足を運ぶものはそう多くない。その日はたまたま社長が店頭に出ていて、そこに一人の男がやって来た。四十代か五十代とおぼしき男だ。少しくたびれた感じのする、どこにでもいる中年男だった。すぐに接客して、いくつか試飲をさせる。男は試飲をしては「おいしい」と言うが、味に満足していないのは見て取れた。ほんの僅かであるが、眉間が不満を示すように寄っていた。

 なるほど、こいつか。一つ、思い当たるものがある。関係者の間での噂話で、そういう男の話がされていた。熱心に方々の酒蔵をめぐっているらしいその男は、試飲をしてはどこか不満気にしているのだという。そして、申し訳程度に酒を買って去っていくということだった。

 やはり来店した男は、申し訳程度に酒を買った。支払いを済ませた後にその男に話しかけたのは、たんなる好奇心からである。

「本日はありがとうございました」

 簡単な雑談から入って、やがてすっかりと話し込んでしまった。

 聞けば、やはり男はかなりの酒蔵をまわっているようだった。

「本当に酒が好きなんですね」

 酒蔵を営むものとして、酒を愛してくれるのが嬉しくないわけがない。社長の顔が思わずほころぶ。だが、男は曖昧に笑って返すだけだった。照れているのではない、何かに戸惑っている、という風だった。

「実は……探している酒があるんです」

やや逡巡する間をみせてから、男は言った。

「鬼の酒を探しているんです」

「鬼の酒ですか?」

 にわかには信じがたいが、男は以前に鬼の酒を飲んだことがあるのだと言った。その味が忘れられずに探しているのだという。

 奇妙だが、面白い話でもある。そういうことなら、と社長は別の酒蔵を紹介した。「普段は小売はやっていないが、自分の紹介なら大丈夫だろう」というのである。

 かくして、酒造関係者の間で、米倉義信という名前は広く知られることになった。鬼の酒の話も一緒に広まる。義信のことを、密かに「鬼の米倉」と呼び交わしていることは、これは、義信にはまったく預かり知らぬことである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鬼が辻 尾手メシ @otame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ