第2-2話変な毛玉についていってはいけない

 映画やお芝居で場面が変わるように、一瞬の暗闇のあと、ハルトはあのトイレにいた。


 鏡に真顔の自分が見える。しかし先程までの浮遊感ふゆうかんを引きずったままのハルトは急に固い床を踏んでいる現実に感覚が追いつかず、そのまま真顔でトイレの床に倒れ込んだ。


「 ………え?」


 なにが、いつ、だれが、どうなって、こうなった? 疑問符でいっぱいになりながらもどうにか半身を起こす。こんな時にもとりあえずスマホ、とポケットを探るのは現代人のさがだろう。


(あれ?)


 ハルトは制服のポケットに手を突っ込んだまま首をかしげる。結論から言うとスマホはあった。しかし、代わりに無くなってるものがある。


(羽根はどこいった?)


 今朝まではしっかり持っていたはずの白い羽根が消えている。どこかに落としただろうか。今朝からの行動を思い起こしてみると、ふとあの天使と名乗った少女の言葉が頭をぎった。


『この羽根には、私の力が宿っています。きっとお役に立つでしょう』


「ああぁぁぁ!」


 ハルトはさけんだ。屋上から落ちたにも関わらず生きているのは、きっとこの羽根のおかげなのだ。あの穏やかな優しい声と陽だまりのような笑顔を思い出し、ハルトは心から感謝した。すぐにでも感謝を伝えたいところだが、天使という事は次に会えるのは死んだときなのだろう。まだ死にたくないので、ハルトは再会を諦めた。


(さて、どうしよう)


 ハルトはゆっくりと立ちあがった。いくら誰も使っている形跡けいせきがないとはいえ、トイレの床にいつまでも座っているわけにはいかない。初日から授業をサボったことになってしまったのは痛いが、死ぬよりはマシだ。とりあえず手を洗おうと洗面台に両手を広げる。


「え……?」


 その瞬間、ハルトは先程屋上から落ちた時以上の衝撃しょうげきを味わうこととなった。心臓は胸から飛び出しそうなほど早鐘を打ち、気を失ったのではないかと錯覚さっかくするほど目の前が暗くなる。やはり本当に驚いた時は叫び声など出ないのだ。


-991391


 左手には、黒くよどんだ文字がはっきりと、罪人がいれる刺青いれずみのようにその存在を主張していた。



——コツ、コツ、コツ


 何かの間違いだろうとじっと左手を見ていると、ドアの向こうから靴音が近づいてくるのが聞こえた。誰かくるのかもしれない。とりあえずここから出ようとあわてて扉に手をかけようとすると、キィという小さな音とともに向こう側から空いた。


 驚いて後退あとずさりしたハルトの目に映ったのは、扉の向こうから現れた大きな半身だった。黒い服にグレーのロングコートを身にまとった、二メートルくらいあるのではと思うくらいの長身の男だ。


決して筋骨隆々きんこつりゅうりゅうという程では無いが、男らしくしっかりとした体幹たいかんから伸びる長い手足は長身だというのに妙にバランスが良い。


「今さけんだのはお前か?」


 薄く整った唇から、低く落ち着いた声が放たれる。


 黒い短髪にかすかに寄せられたまゆの下、薄墨色うすずみいろの瞳がハルトを映す。しかし驚くほど整っているであろうその顔は、うんと首を伸ばしてほとんど真上を見なければ視界に入らないほど男は大きかった。


 ただ立っているだけなのにその存在感と威圧感いあつかん並外なみはずれて高く、それはハルトのあこがれている『男らしさ』そのものだった。おそらくこの男なら、あの日迷った虎柄とらがらのジャケットもなんなく着こなせるのだろう。


「……いつまで見ている」

「あ、あの。すみません」


 いくら圧倒されたからと言って、初対面の人を正面から見つめていたら不快に思うのは当たり前だ。もしかしたら何発かなぐられるかもしれない。


 顔は勘弁かんべんしてください、と心の中で祈りながらしばらく頭を下げていると、頭上から小さく息をく気配がした。空気が若干柔らかくなったのを感じ、そろそろと頭を上げる。


「顔色が悪いな。具合が悪いか?どうした」


  強面こわもてと呼べる見た目とは裏腹に、男からかけられたのは気遣いの言葉だった。顔色が想像以上に悪かったのかもしれない。


 何から話したらいいのか、いや何を話したらいけないのか。上手い言い訳も思いつかず酸欠の金魚のように口をぱくぱくしているハルトを、男はじっと見た。そしてわずかに驚くように目を見開いたあと、ぐっと眉間みけんしわを寄せたのだ。


 不良も泣いて逃げ出すような厳しい視線になぐられる、と思って目を閉じたハルトだったが、代わりにかけられた声はやはりとても落ち着いていた。


「 おまえは何者だ」

「 あの…高校生?……ですけど」

「 人を殺したことは」

「 い、いえ…どうしてそんな事……」

「無いんだな? 」


 男が身をかがめてせまってくる。この人の前ではどんな凶悪犯でも立ちどころに罪を認めそうだ。産まれたての子鹿のように震えたままこくこくとうなずくことしか出来ないハルトをしばらく見つめていた男は、軽いため息とともにくるりと背中を向けた。


 その大きさに似つかわしくないほどなめらかな動きに見惚みとれるのもつか、彼の「 着いて来い」という短い一言にあわてて入口に足先を向ける。

しかし悲しいかな、産まれたての子鹿はすぐには動けなかった。


「うわっ」


 短く悲鳴をあげて倒れ込んだハルトの身体には、しかし覚悟した衝撃しょうげきは何もなかった。肩をつかんだ大きなてのひらは意外にも、抱きとめられた感覚すら無いほど優しい。


「何をしている。行くぞ」


 子鹿もといハルトを床に立たせながら短く息をくように言って、男は再び背を向ける。追わなければ、と思うが足は重りがついたように動かず、代わりに目の前がかすみ暗闇が広がった。もう色々限界だ。


「あ、おいっ!!」


男の焦ったような声を最後に、ハルトの意識はぷつりと切れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る