第1-2話綺麗な人に天使と言ってはいけない

「えぇと。では本当に、あなたは天使なんですか?」


 夕方の喫茶店は人もまばらで、奥の席に座ると他の客は気にならない。

 

 大人ぶって頼んだアイスコーヒーにガムシロップをたっぷり入れてかき回しながら、ハルトは目の前に座っている少女を見た。先程まで海のように真っ青だった瞳を、今度はウサギのように真っ赤にしてしきりにこすっている。道端でいきなり泣かれた時はどうしようかと思ったが、場所を変えて正解だった。


「はい。私はリリィと申します。今日初めて人間界に降りてきたのですが、まさか人間に正体がバレてしまうなんて……もうおしまいです。部下に合わせる顔がありません」


 何を言っているのかわからないが、そういう設定なのだろうか。こいつはやばい奴だなと思いながらグラスを持ち上げ、一口飲む。甘くしたはずなのにやはり苦い。オレンジジュースにすれば良かった。


「それでは僕はこれで」

「待ってください!!!」


 例えどんなに美人でも、ヤバい奴とは距離をおくべきだ。借りを作らないようにここは会計も持った方がいいだろうと判断し、伝票をつかんで腰を浮かすと、先ほどまでうつろな目でぶつぶつ言っていた自称天使は勢いよく立ち上がってハルトの行く手をはばんだ。ニゲラレナイ。


「……それで、天使がなぜ人間界に降りてきたんですか?」


 ハルトは仕方なくこの設定に乗ることにした。この愛らしい天使のような少女が公共の場で危害を加えるとはとても思えないし、せっかく頼んだ飲み物が空になるまでくらいなら話を聞いても良いのでは、と思い直す。


「それは、その……」


 彼女は思いつめたような表情で下を向いた。何から話せばいいか迷っているようだった。よく見ると手が震えている。


「大丈夫です。ゆっくり話して」


 お腹を空かせたライオンを前にしたウサギの如き天使に、ハルトはできるだけ優しく声をかけた。おどされた経験はあるが、おびえられたのは初めてだ。


 ハルトの言葉に安心したように息をはき、アイスティーを一口飲んだリリィを見ながら、これは長期戦になるなと彼はぼんやりと思った。こうなったらとことん付き合ってやろうかとアイスコーヒーを持ち上げた時、反対側の手が淡く光った気がしてハルトは思わず手を止めた。


「えっ?」


 ハルトの目に飛び込んできたのは、左手の甲に現れた奇妙な数字だった。

 

 8610と書かれたそれは、マジックでもペンでもなく、手の皮膚にそのまま吸い付いたような自然さでそこにあった。ハルトには手にメモをとる習慣などはないし、先程までは確かにこんなものは無かったはずだ。


「まっ、まさか……!!!」


 ハルトが突然現れた数字に夢中になっていると、ガタッとイスが鳴る音が響く。ハルトが驚いて手から視線を離して正面を見ると、リリィは今度はハッキリと全身を震わせていた。顔は幽霊でも見たように青白く、色を失った小さな唇が震えている。


「リリィ、さん?」

「あなた……カウンターが見えるんですか?」

「カウンター?」


 ハルトは再び左手を見た。やはり数字はそこにある。


「カウンターって、この数字のことですか?」


 ハルトは左の手の甲を上に向けて、リリィにも見えるように前方に差し出した。彼女はコクコクと頷く。不審者なのに可愛い。


「この数字は何なんですか?」

「これはカウンターといって、人の行いによる罪の重さを数値化したものなんです」


 リリィはそっとハルトの左手をとった。遠慮がちに数字をなぞるなめらかな白い指先の感触に、ハルトは顔に熱が集まるのを感じてうつむく。美少女には免疫がない。しかしゆでダコのように真っ赤になったハルトの様子には気が付かず、リリィは数字をじっと見たまま不思議そうに首を傾げた。


「人間には、一人ひとりに必ずこの数字が刻まれています。でも、普通は見えないはずなのですが……」

「あの。罪の重さって?」


 ハルトはこれ以上自称天使を疑いの目で見るのはやめることにして説明を促した。とにかくこの数字を何とかしたい。罪の重さが手に刻まれているなんて冗談でも嫌だった。


「今、人間界には多くの天使と悪魔が降りてきていて、人間がいい事をした時には天使が+のエネルギーを、悪い事をした時には悪魔が-のエネルギーを与えることになっています。そして、その人間が生を終えた時にこの数字が+だと、天使がその魂を天国へ導くことが出来るのです」


 リリィが一気に説明して、両手でグラスを持ちアイスティーを飲んだ。ハルトは再びじっと数字を見る。8610ということは、今死んだら天国に行くという事だろうか。


「ちなみに、マイナスで死んだら?」

「悪魔が地獄へ連れていきます」


 ピシッとハルトは固まった。リリィがあわてて胸の前で両手を振る。


「いえいえ、大丈夫ですよ。ハルトさんはちゃんと天国へ行けますからねっ」


 陽だまりのような優しい微笑みに、しかしハルトは引きった笑いで返すしかなかった。こんな事、たとえ事実でも知りたくはない。


「それで、あの……お願いがあるのですが……」


 少しの間の後、リリィは言いづらそうに上目遣いでハルトを見た。何だろうかと首を傾げるハルトの手を再び優しく取り、何かを握らせる。


 それは軽くて柔らかい一枚の羽根のような……いや羽根だった。カラスのそれよりも一回り大きい、真っ白な羽根。こんな鳥がいただろうか。


「これは? なんの羽根ですか?」

「私の羽根です」

「え!?」


 きっぱりと断言してみせるリリィの表情は真剣で、ハルトは混乱した。頭の中に鶴の恩返し、という絵本の各場面が思い浮かんでは消えていく。そんな馬鹿なと突き返すことをしなかったのは、彼がすぐに目の前の少女が天使と名乗っていたことを思い出したからだ。


 天使ってやっぱり翼があるんだ、と思いながら目の前の羽根をしげしげとながめるハルトに、リリィは言った。


「私は『運命の天使』。この羽根には、私の力が宿っています。きっとお役に立つでしょう」


 リリィはずいと身を乗り出し、ハルトの両手をしっかりと握り直した。


「お願いです、この事は黙っていてください。人間に私たちの存在がわかってしまうわけにはいかないのです」


 成程、交換条件のようだ。これ以上不審な天使と関わってどうするという思いと、ゲームで重要なアイテムを貰った時のような高揚感こうようかんがせめぎあう。


「わかりました。これはもらっておきます」


 高揚感が勝った。ハルトが受け入れた途端、ぱあっと手の中の羽根が光り、手のひらに収まるサイズに変わる。柔らかかった羽は硝子細工のように硬く、しかし重さは感じないほど軽い。


「その方が、持ち運びしやすいでしょ」


 えへへ、と悪戯っ子のように笑う天使に、ハルトは引きった笑いを返す。手品だ、とはもう言えなかった。ハルトは羽根をそっと机に置き、ズズッとアイスコーヒーの残りを吸った。苦い。


「わかりました。誰にも言わないので安心してください」

「よかった! ありがとうございますっ! どうかよろしくお願いします」


 ひたいが机につくほど勢いよく頭を下げられ、同時にアイスティーの残りが倒れた。美しい金糸の髪が紅茶色に染まっていくのを見ながら、ハルトは今日一番の深い溜息をついたのだった。

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