第34話 復讐の日
1
ノートを元の場所に戻すと、名田は再びベッドの上に戻った。
そろそろ六時になろうかという頃合いだ。
夕焼けも完全に沈み切ったようで、部屋は完全な闇の世界へと変貌した。
「さて」
そう呟いてみても、返ってくる声はない。
楓を知人に預け、一通りの身辺整理も終えた。
だから、残る最後の大仕事、それに取りかかるための「さて」なのである。もとより誰かに声をかけたわけではないけれど、それでもなんだか寂しげな名田であった。
二郎の事件がもみ消されてから、名田の家族はバラバラになってしまった。名田、というのは母方の旧姓であり、名田は元々
だから、名田が藤宮高校に赴任しても、奴らは名田のことに気づかなかった。二郎の事件があったのは二十年以上も昔のことで、当時チビだった名田は長身へ成長したし、苗字も変わっていたため、奴らは実際に顔を合わせても名田の正体に気づくことはなかった。
奴らに対する怒りと憎しみは、全く消えていなかった。自分があれほど苦しい思いをしたのに、奴らはそのことを忘れ、平和な日常を家族と共に過ごしていた。
そんなことが許されていいのか、悪事を働いた人間には、報いがあってしかるべきなのだ。
名田は復讐を決意した。
奴らを殺すのではない。同じ苦しみを味わってもらってこそ、復讐は意味を持つ。
さらに、警察に捕まるわけにはいかない、というのが名田にとっては最も重要なことだった。
警察に捕まるというのはそのまま自らの敗北を意味するからだ。
自分が警察に捕まり有罪判決を受け、死刑になれば、それはおそらく奴らにとっての復讐が達成されてしまうことになりかねない。
自分が法によって裁かれるということがあってはならない。あくまでも、自分は自ら死ななくては。
だから、実際犯行に及んだ時は相当に苦労した。指紋も体液も、髪の毛すらも、自身の特定に繫がる物的証拠は一切合切残してはいけない。
それでいて、奴らにのみ意味が伝わる置き紙を残さなくてはならないのだから。
仮に、万が一何かしらの証拠が残っていても、捕まる前に自殺をすればいいのだけれど、下手をするとそれが罪を暴かれたゆえの無念の死、とそんな具合に奴らに伝わりかねない。
それでは駄目だ。そんな危ない橋は渡れない。
だから結局、名田は細心の注意を払いながら犯行に及んだ。
天馬満。月ヶ瀬道夫。星崎龍一。
この三人をまとめて一日で殺害する必要はなかった。
ただ、結果的にそうなってしまっただけで、元々は一人ずつ、確実に殺していくのが当初の計画だった。
たまたまあの日、八月四日にあの三人が藤宮高校に登校し、かつ単独で行動するという状況が生まれた。やれることはやれる時にやる、というのが名田の信条だった。
事件が起きた後、警察が校内に捜査のため常駐し、部活動や補講も無期限の休止となったのを見れば、三人を一日でまとめて殺害したのはむしろ正解だったと言えるか。
一番最初に殺したのは天馬満だった。
天馬満が後輩の自主練を手伝っているというのは本人から聞いて知っていた。
私は事前に西棟三階の男子トイレの中で彼を待ち伏せすることにした。トイレの中に他の人間がいないことを確認するためと、誰にも見られずに素早く彼の遺体をトイレの中に連れ込むためには、そこで待っているのが一番効率がいいのだ。
部活の自主練を終え、補講に出るために廊下を歩いていた彼が男子トイレの前を通りかかった。
その時、本当に彼らを殺すのか、という名田の良心が寸前のところで込み上げてきた。
――彼らに罪はない。
――殺すのか?
――理不尽に命を奪って、それでは奴らと何一つ変わらない。
そんなことは分かっていた。分かり切っていた。
身を焦がす復讐の火に背中を炙られ、名田は動いた。背後から天馬満の首を絞め殺害し、トイレの個室に遺体を隠した。そこで前もって用意しておいた筆洗い用のバケツに水と水性絵の具を入れて混ぜ合わせ、彼の遺体にかけた。そして天馬満の親に向けた書き置きをその場に遺した。
その後、周囲を見回り、誰にも見られていないことを確認すると、名田は補講を行うべく、教室へ急いだ。
補講が終わった後、今度は月ヶ瀬道夫を殺害するべく、南棟へ向かった。
大きな油絵を描いていた月ヶ瀬道夫を葬ったのは、午前十時四十分頃だったか。天井にあるフックへ縄をかけ、机と椅子を足場にして月ヶ瀬道夫の遺体をそこへ吊るした。正直、これが一番の重労働だった。夏場のことだから汗もかくが、それを現場に落としてしまえば警察はそれを辿ってやがて自分に辿り着くだろう。
汗を落とさないよう、細心の注意を払ってことを成し、月ヶ瀬道夫の親に向けた置き紙を遺した。
月ヶ瀬道夫は絵を描いていたからか、彼の指が縄に触れて絵の具が付いてしまっていた。絞殺用の縄はスーツの内ポケットの隠していたので、これをそのまましまい入れれば内ポケットにも絵の具が付いて汚れてしまうだろうが、そんな細かいことは気にしていられなかった。
最後の大仕事に取りかかるため、名田は大急ぎでその場を去った。
そして午前十一時十五分。
彼は北棟二階、推理小説研究会の部室に忍び入った。
机に向かい、せっせと執筆をする星崎龍一。
彼の首に縄をかけ、思いきり絞める。
息絶えた彼を床に転がし、名田はのこぎりを構えた。二十年以上も昔、星崎が愛犬の二郎の首を切り落としたのこぎりで、星崎の息子の首を落とす。
なんという因果だろうか。
名田の心は、復讐の達成感など感じてはいなかった。
ただただ、犠牲になってしまった生徒たちへの想いでいっぱいだった。
理由も分からぬまま殺された哀れな少年達。
繰り返すが彼らに罪はない。
どうして自分はこんなことをしてしまったのか。
誰が悪い?
自分をいじめた奴らか?
それに立ち向かえなかった自分の弱さか?
奴らではなく、奴らの息子たちを殺害した。それこそが復讐だと信じていた。自分が受けた苦しみを、奴らにも味わってもらうために、奴らの大事な息子たちを手にかけた。
名田は考えるのをやめた。
かつて二郎の首を落としたのこぎりを握りしめ、星崎龍一の首にあてる。
名田はゆっくりと手を引いた。
血だまりの中に浮かぶ首。その傍らに星崎龍一に親に宛てた置き紙を遺し、名田はその場を後にした。
2
静まり返った藤宮の夜を眺める。
天国に行けるとは思えない。
二郎にもきっと会えないだろう。
「さて、二郎。終わったよ」
夜空に輝く星たちは、いつもより綺麗に見えた。
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