9
適当にお参りをして、帰ろうかと本殿に背中を向けた時に、妙な気配を感じた。
「…………」
悪寒のような何かが、背中に奔る。
神社という場所は、日本人に何かを思わせる場所だと思う。例えば、人気のいない道を歩いていて、不意に鳥居が見えたら、少し怖いと思う。参拝している時に、ふとした拍子で賽銭箱に足をぶつけてしまったら、「やべ」と心の中で思う。自分の子供が本殿の中に入ってしまったら、危ないと思うかもしれない。
ただの、木で出来た建物では無いのだろう。神社というのは、日本人にとって。
そういったことに似た、悪寒を感じた。
僕は、ゆっくりと振り返る。
そこには、先ほどの寂れた神社があった。本殿はかなり大きいが、工事されていたり、頻繁に人が通っている様子はない。
しばらく、その周りをうろうろしてみる。本殿の中を覗いてみたり、後ろに回ってみたり、神社側から鳥居を覗いてみたり。
他に何かやることがあるだろうかと思って、ふと、神社の軒下を覗いてみた。
正解だった。
神社の軒下の先には、白い靄のかかった砂浜のような場所が広がっていたのだ。
試しにもう一度、本殿の後ろに回ってみる。当然、そんな景色は広がっていない。後ろ側から軒下を覗いても、先ほど僕が覗き込んでいた場所が見えるだけだ。
戻って、本殿の前面から軒下を覗く。
やはり、おかしな光景が広がっていた。
「…………行くしか、ないだろ」
もちろん、行くしかない。
僕は、地面に這いつくばり、神社の軒下へと、頭をぶつけないようにゆっくりと潜り込んだ。
かび臭い土の上を、這って進む。
何が起こるかなんてもちろん、分からない。でも、行くしかない。
彼女と会う必要が、僕にはある。
どうして、彼女と会って僕は楽しかったのか、それを聞きに行きたい。どうしたら人生が楽しくなるのか、僕は知りたい。
ひんやりとした地面と、木の香りを感じながら、僕はその靄の中に入っていく。
靄の上は、知っている感覚だった。
僕は、空の上を這った。
あの時ぶりの感覚に、期待感が高まった。まぁ、あの時は二人で走っていて、今は一人で這っているのは随分な違いに思えるけれど。
その靄の中を匍匐前進で進み、見える砂浜を目指す。
砂浜まで近づくと、周りにかかっていた靄がマシになった。
僕は立ち上がる。どうやら、断崖の中の洞窟から出てきたらしい。人一人が這って通れるほどの丸い穴から、僕は出てきた。
そしてその穴がある壁――いや、断崖には、予想が付いた。
ここは、あの岬だ。
あの岬の、下に僕は今いるのだ。
この崖の上から、僕たちはあの時、空に飛び出したのだろう。そして、この、今目の前に広がっている靄がかかっている海の先を、ずっと……。
――いや、違う。よく見たら、海でも砂浜でもないじゃないか。
礫浜だ。礫浜とそして、湖――。
信じられない程大きな湖が、僕の眼前には広がっていた。
「えぇ……? これ、全部湖なのか……?」
後ろは岬だが、目の前には、見える限り横一面に、ほぼ真っすぐに見える礫浜が広がっている。
これがもし湖なのだとしたら、とんでもない直径だぞ……。
しばらく浜に沿って進むと、なにやら浜から一直線に湖の中心の方に伸びているものを見つけた。
近づくと、それは桟橋だった。
一つの桟橋が、深い靄の中、水平線上の果てまで伸びていた。
「……これを、渡るってことなんだろうな」
それに一歩踏み入れる。
その瞬間に、やはりここは人の立ち入るべき場所でないことを悟った。
立ち入るべきでないどころか、通常は立ち入ることさえできないのかもしれない。
それなら、自分が何故今立ち入れているのか。そして、どうして立ち入れたのか。僕は確かめたい。
どうしても、知りたいんだ。
その、途方もなく長い桟橋を十歩ほど踏み入れた時。
突然、桟橋の浜にかかっていた部分が、崩れた。
ベタに、切り分けられたメロンみたいに、崩れ、そして浅瀬である筈の湖の中に、見えなくなるほどまで沈んでいった。
「………………」
もちろんそれだけでは終わらなかった。
すぐ次のブロックがすぐ桟橋から切り離され、落ちていく。
その時点で僕は後ろを見るのを止めて。
がむしゃらに走った。
「う、うああああああああああああああああ――」
後ろからは、桟橋が崩れ水の中に落ちていく音が絶え間なく聞こえてくる。間隔はドミノ倒しくらいで、気を抜けばすぐに追いつかれることは後ろを見なくても分かった。
全速力で、細い桟橋の上を走る。前は靄に包まれているのであまり見えないが、それでも、この桟橋がまだまだ続くことは分かった。
いくら体力をつけたとはいえ、人間が全力疾走できる時間というものには限りがある。
何分も何十分も全力疾走出来る人間なんていまい。それは、人間が呼吸を長時間止められないのと同じ原理で、もっと極端に言えば空を飛べないのと同じ理屈で、要するに、人間にはそんなことを出来る機能がそなわっていないのだ。
構造上の問題。
そして、この桟橋はどう考えても、数分や数十分で渡り切れるものではあるまい。
詰まるところこれは、僕の人間としての生命の、終わりを意味しているのかもしれない。
ただそれは、僕が走るのを辞めることには決して繋がらない。
僕はここに来たのだ。ここに来た。自分の足で来た。
目標があって、知りたいことがあって、遂げたいことがあって、僕はここに来た。
叫びながら、僕は走ることを止めない。どうして叫び続けているのかは分からないが、そうすることによって僕は、いつまでも走り続けることが出来る気がした。
例えるならまるで、自分自身を燃料にして走り続けている様な、僕の叫びを石炭として、足という車輪が回転している感覚だ。
「――あああああああああああああああああ!!」
僕が、ここに来た理由。
彼女について、僕はずっと考えていたことがあった。
疑問や、疑念と言えばいいのだろうか。
ずっと、考えてはいた。それは、頭の片隅にずっとあった気持ちで。
彼女と会ったあの日から、抱いていたハテナであって、でも、そうであって欲しくないという僕の勝手な願望から、ずっとどこかで考えるのを辞めていたこと。
まさか彼女がそんな存在な訳ないとどこか勝手に神聖化して、馬鹿馬鹿しいと置いておいた可能性。
――人生に満足していたのは僕で、満足していなかったのが彼女だ、なんて、そんな、捻くれた関係。
僕は人生に満足できなくなって、彼女は人生に見切りが付いた。そんな、勝手な結果と結末。
もしかしたらそうなんじゃないかって、ずっと思っていたけれど、それを認めてしまえば僕は頑張れなくなる気がして、ずっと放っておいたこと。
彼女は、世界を愛していた。きっと、どうしようもないくらい世界を愛していた。
世界の全てを知りたくて、世界の全てを経験したくて、誰よりも世界に寄り添って、そして世界と添い遂げたかった人なはずなんだ。
でも、そんな彼女は世界に愛されていなくて、もしかしたら何か抱えていたものがあったんじゃないか。
誰でもいいからその何かを吐き出したくて、たまたまそれに選ばれたのが僕なんじゃないか。
彼女が見ていた――それは普通の人間には刺激が強すぎる程綺麗な――景色を、誰にでもいいから見せることよって、彼女は世界に見切りをつける。そして見せられたものはその刺激が忘れられず、以前の生き方を忘れてしまう。
そんな、人体実験もかくやというような経験の被害者に、僕はなってしまったのではないかという疑問。
もしも本当にそうであるならば、今こうやって彼女に会おうとしている僕はどれほど滑稽なのだろう。
「――ああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
彼女に人生を狂わされ、時間を棒に振り、友達や家族に心配をかけ、今もなお走っている僕は、どれほどに滑稽なのだろう?
「――ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
滑稽か。
滑稽かな。
きっとそうだろう。
でも。
滑稽で、上等だ。
滑稽で上等なんだ。
追い求めたくて、死に物狂いで追い求めて、その結果滑稽と呼ばれるなら、僕の人生は上等だ。
この足が使い物にならなくなって、這い蹲って、腕も使えなくなって、這い蹲って、体が達磨みたいになったとしても。
僕の人生はそのためにあったと、残っている胸を張って、きっと言える。
「――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
走りながら叫ぶ声が、いつまでも木霊を続けている。どうやらこの空間では、音量は距離の二乗に比例して減衰しないらしい。
僕の声が、僕の周りを奔る。叫び声が、この空間を満たしていく。
とっくに体力も肺も空で、いますぐにでも何かを吐き出してしまいそうだ。
それでも僕は走る。走る速度は一向に緩めない。
足で地面を蹴る。
一定の感覚で、地面を蹴り続ける。
それがリズムとなって、叫び声がメロディとなって。
反響している、反響し続けている声がハーモニーとなって。
僕の耳には、いつしかそれが音楽のように聞こえていた。
僕の声が、僕の足音が、僕の身振り手振り全てが僕の体を動かす原動力になって、まだ見えないこの道の涯へと、連れて行ってくれているようだった。
もしも彼女が。
もしも君が。
世界に疲れて、誰でもいいからって選んだ人間が僕だったのだとしたら。
僕はそれを、とても幸せなことだと思うんだ。
自分にとってとても幸せな事だと思うんだ。
そして、もしも。
もしも君が。
僕を選んだことを、特別なことだと思ってくれたのなら。
僕は。
僕は。
僕はそれを。
奇跡と。
そう呼びたいんだ。
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