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 そこから一週間は、ベッドの上から起きる気にもならなかった。

 ずっと寝て、起きての繰り返しで、ろくに何も食わず飲まず過ごした。そんなことをしている間に、夢と現実との区別がつかなくなったが、これでもう一度彼女に会えるんじゃないかと思って、もっと容態が悪化することを望んだが、母親から来た電話を取ると、急に現実に引き戻された。

 あれは多分夢だったのだろうと、突然自分の中で区切りがついて、そこから何事も無かったかのように、本当に急速に、僕の生活は日常へと戻っていった。

 そこから一か月間、僕は前のようになんとなく過ごした。

 なんとなく起きて、なんとなく過ごして、なんとなく寝た。

 なんとなく歯を磨いて、なんとなく友達と話して、なんとなく家に帰った。

 なんとなく顔を洗って、なんとなく髪を洗って、なんとなく体を乾かした。

 なんとなく、なんとなくそれとなく、生活して、段々と思考も以前のように戻って行って、いつしか、一週間も連絡が取れなかったことが友達内で笑い話になってきたくらいの時。

 僕は、町中華の角に置いてあるテレビの中に、岬が映っているのを見た。

「で、教授がまじで人使い荒くてさぁ」

 その岬は、彼女と出会ったところとは似ても似つかない場所だった。

「でもお前、その教授目当てで入ったじゃん。研究室」

 でも、具体的にどこが違うかは分からなくて。

 それは、僕があの岬の風景を忘れていることを示唆していた。

「そうなんだよなぁ! 自業自得とはこのことかぁ……! そういや、希美は研究室どうよ。上手くいって――。

……希美? 大丈夫か?」

 僕はその瞬間、無性に、悲壮感と焦燥感に襲われた。

 気が付くと僕は、千円札を机に叩きつけていた。

「悪い。俺、やらなきゃいけないことあるわ」

 そのまま走って僕は、自分の部屋に戻った。

 急いでパソコンであの岬を調べた。しかし、出てこない。急がないと、あの岬のイメージが他のそれに侵食されてしまう。

そして、自分の記憶の断片を手繰り合わせて、なんとかあの岬の絵を描こうとした。

 しかし、風景画の描き方を知らない僕が描いた岬は、記憶の中のそれとは似ても似つかないもので、その上、形になったそれを見てしまったので更に記憶は曖昧になった。

 これ以上下手な岬の絵を描けば、僕の中の記憶はぐちゃぐちゃになってしまうだろう。

 しかし、あの岬を描かなければ、どちらにしてもいずれ忘れてしまう。

 その日から三か月間。

 僕は風景画の練習をし続けた。

 シルエットの取り方、自然物の描き方、パース、陰影、色彩。

 寝て、起きて、飯を食べる以外の全ての時間を、それに費やした。岬の絵は描かず、頭の中にずっと岬のイメージを固定しながら。

 大学は休学した。友達にも家族にも一言入れた。

 誰にも邪魔されることなく、僕は、自分の頭の中のそれを現実に映すためだけに、風景画を練習し続けた。

 体重が減り、顔の隈が目立ち始めた頃、僕はやっとあの岬を描くことを決め、そしてそれを描き上げた。

 それを現実のものとして、やはり、僕は確信した。

 あれは、夢ではなく現実の出来事なのだと。

 この岬は、間違いなく現実にある。あの夜のことも、確実にこの世のことだ。

 しかし、ではこれどこにあるのだろう。間違いなく自分の足で行ったのに、全く思い出せない。

 三か月分のゴミを出すついでに、三カ月ぶりの夜空を見上げてみた。

 星はあまり見えない。そりゃそうだ。

 ここは学園都市で、あんな山や岬など近くに絶対にない。

 理屈で考えれば考える程、あれはやはり夢か幻覚だと思う。

 しかし自分で描いた岬を見ると、絶対にそうではないと本能が訴えかける。

 生まれた時から自分の中にある、人間の中にあるそれが、僕に強烈に訴えかけてくるのだ。

 彼女にもう一度会いたいと。

 だから僕は、それに従うことにする。

 全力で、死に物狂いで。

 僕は本屋に行き、まず地理の参考書を買った。

 僕が描いた、あの場所に行く。そのためにまずは、地理を知ることにした。

 地形がどのように出来るのか。この一枚の絵から出来るだけ情報を探り、大まかな位置を特定するためだ。

 そこから一か月間は、ひたすらに環境地理学などの本を読み漁って知識を深め考察したが、結果としてそれはあまり効果を成さなかった。

 知れば知るほど、この絵の中の岬は理論と矛盾しているように感じたからだ。

 しかし、それでも僕はこの岬の存在を疑わなかった。

 それどころか逆に、僕は環境地理学を疑い始めた。よく考えれば、どうしてそうなるのかは書いているが、本当にそれがそうなるのかを書いていない。

 要所要所で数式が書いているが、それが本当のものか分からないので、それを学び始めることにした。

 僕は、物理学と数学を学び始めた。

 しかし、一人暮らしをしていて、一応親から仕送りは届くが、本をたくさん買っているとお金が足りなくなるので、バイトを始めた。

 朝と昼は物理学と数学を学び、夜はバイトをする日々が続いた。

 半年間、経って。やっとそれらしい数理モデルを作れるようになってきた。しかし、それでも、現実と食い違う。物理現象と食い違う。モデルを作って、パソコンに計算させて、矛盾の無いものが出来ても、それは僕が描いた絵を捉えていない。

 エラーが出る度、絵と違う岬が生成される度、僕は絵を破りそうになった。でも、それだけはしなかった。多分僕はもう、この絵と同じようなものを描くことが出来ない。今描けば絶対に、知識が邪魔をする。整合性のある、僕が求めている矛盾の無い岬を描いてしまう。たとえこれの写真を見ながら描いても、別の物になる。

 これだけは絶対に破れない。クシャクシャになった岬の絵を見ながら、僕は怒りを別のものにぶつけた。

 ぐしゃぐしゃに散らかった部屋で、何台目か分からなくなったパソコンを動かす日々が続く。現実との繋がりはバイトだけで、どうしてもバイト先のそれが自分の生きている場所だとは思えなかった。

 どこか、あちら側ではないこちら側に、落ちていく。

 現実から手が離れ、知らないこちら側へと、落ちていく。

そんな自分の感覚が陋ったらしくて、僕は別のバイトをすることにした。

しばらく、チャートとにらめっこをする生活が続いたが、色々な予測がついてくると、ある程度の金額は短時間で稼げるようになった。

 起きてる間の三分の二は勉強をして、三分の一は画面と睨めっこをする日が続き、半年が過ぎた。

「……あぁ。……そぅか」

 話し方を忘れていた。

「……矛盾があるのは、こっちの方か」

 僕は、更に数学と物理学を学ぶことにした。

 どうやら秋が来たらしく、埃だらけの床のビロードの手袋が、嫌に目に入った。

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