3

 そこは岬だった。

 自分が住んでいる場所の近くに海があった記憶などないのだけれど、気づいたら彼女は、彼女と僕は、岬まで来ていた。

 そして、丘が水上まで突き出している岬の先端部で、彼女は動きを止めた。

 当然、僕も止まる。

 そこで僕は、今更だけれど、自分が何をしているか、やっと気づいた。

 知らない女性の跡を岬まで付け回していることに気付いて、どう思考を巡らせても弁解の余地がないことに、遅ればせながら気づいて、そして、咄嗟に口を開けた。

数寄者すきものだね」

でも、聞こえた音は、僕の声ではなかった。

 凛とした、はっきりとした音が、インクを水面に垂らした時のようにゆっくりと、有機的に広がっていった。

僕よりわずかに先に、どうやら彼女が喋ったようだった。

「………………はい?」

 恐らく、僕の返しは零点だったと思う。

 自分で考えることを、長らくやっていなかったからだろうか。

「君、と呼んで欲しいな」

 彼女はそして、ゆっくりとこちらを向いた。

 なんせずっと彼女の後姿ばかり見ていたものだから、顔が見えた瞬間に、少し違和感があった。彼女にも前面があるということに、違和感を覚えた。

 しかし、その顔をはっきりと認識した瞬間、僕は何故かとても安心したのを感じた。安心や、安堵感を、そして、僕が彼女を追いかけた意味を、少し掴んだ感じがした。それはとても落ち着く感情だったのだが、同時に、これまでの人生ではたった一度ほどしか出会ったことのない感情だった気がした。

「……どうして?」

 僕は先ほどのように、彼女に聞き返すことをした。

 しかしそれは消去法の選択肢ではなくて、純粋に気になったから取った行動だ。

 やっと僕はそこで、冷静になれたのかもしれない。

「あの漢字が好きなんだ。君、という漢字の」

 彼女の声は相変わらず、とてもハッキリと僕の下へと届く。

「じゃあ、名前は?」

「玉来宇佐。でも、君って呼んで欲しいけど」

「宇佐ちゃんは?」

「絶対やだ」

 なんとなく、冗談を言ってみて、そして二人で微笑んだ。

 そこから僕たちは、他愛もない世間話を、ずっと続けた。いつの間にか、陽は暮れて、でもそれでも、止めないほど。

 そして二人が気づくころには、街灯さえ一本もない岬の端は、何も見えない程真っ暗になっていた。

「どうして私に付いて来たの?」

 それは唐突に聞かれた質問だった。

「んー……、なんだろう。自分では満足していたと思っていたんだけど、実はそうじゃなかったとか、なのかな」

 僕は心のままを言う。

 その実、それは自分の本心だった気がするのだけれど、そしてそれを自覚するのも人に言うのも初めてだったのだけれども、不思議と、まるでずっとそれを言ってきたかのように、すらりと口から出た。

「満足しない、ねぇ……。私は今まで、そんなこと一度も無かったけれど」

 彼女は自信満々に、自分にとって何も特別でないことかのように、それを言ってのける。でも、ほんの昨日までは、正確に言えば彼女と出会う前までは、自分もそう言ってきた人間なのだった。

 というか、今でもきっと、それを言える人間なのだった。

 彼女は続けて、口を開く。

「じゃあ、人生に満足してないというのであれば。

――面白いことをしよう」

 そう言って彼女は、僕の腕を掴んだ。

「え?」

 聞き返したのは三度目だが、そんなことはどこ吹く風で。

 もう見えなくなってしまったから周りの様子は全く分からないのだけれど、僕の記憶が正しければ、というか記憶が正しいとか正しくないとか全く関係なく先ほどまで見ていた景色で僕と彼女の立ち位置も変わっていないから間違いなく、岬の先、つまり断崖の方へ、彼女は僕を連れて走り出した。

「ちょっ……えっ!?」

 何も見えない。どこが境目かも分からない。ただ、確実に波の音は聞こえて、そちらに近づいている。そんな状況で。

「私と一緒に、面白いことしよう!」

 それでも彼女の声だけは、よく自分の耳に届く。

 駆け出していく足は止まらず、暗闇の中を二人で走った。

 走って、走って、そして遂には。

 僕の足は、陸を飛び出して。

 空を踏んづけた。

「知っていてもきっと、やってみなきゃ分かんないでしょ?」

 彼女はそのまま、僕の腕を引きながら走っている。

 暗闇の中、僕たちは波の音を踏んづけながら、がむしゃらに前に進む。

「このことは、分かってた?」

 僕は聞いた。

「さぁ、どうだと思う?」

 彼女は答えた。

 顔は見えないけれど、恐らく、前を向きながら。

「ねぇ、ねぇ!」

 波の音と、風の音と、空を踏む足音に掻き消されないか心配で、つい僕は大声で呼びかけた。

「何?」

 その様子が幼く感じたのか、少し笑いながら返される。

「俺……なんとなく生きてきたんだ!」

 きっと、楽しかったんだと思う。

 高揚感に任せて、僕はついそんなことを言った。

「うん! それで?」

 きっと彼女は、大声を出さずとも僕に聞こえることを知っていた。

 でも、大きな声で聞き返してきた。

「それはきっと悪くないことで、人生でそういうことをしなきゃいけない時もきっとあるんだと思う。でも! 今の俺は、何故か無性に、がむしゃらに何かを成し遂げたい気持ちなんだ!」

 恥ずかしいくらいにその時僕は、自己を開示していた。

 まるで、使っていなかったホースから泥が大量に出てくるように、僕は自分のことを彼女に話した。

「うん……、うん!」

 それをずっと、彼女は聞いてくれていた。

 僕の腕を引きながら、前に走りながら、ずっと。

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