第45話 突然の


「……あ、れ?俺、今なんて……」


 有声は無意識に出た言葉に、自分でも信じられず口を押さえた。何を言ったのか理解して、顔が青ざめる。


「ち、ちがっ」


 とにかく逃げなくては。それだけしか頭になく、踵を返して走った。逃げきれないと分かっていたが、無駄なあがきをした。

 好き、という言葉に含まれた意味が、自身が一番分かっていた。言葉に対する返事を聞きたくなくて、有声は逃亡を選んだ。

 有声が閉めた扉は、大きな音を立てた。その音を聞いて、ルビははっと意識を取り戻す。気を失っていたわけではなかったが、呆然としていた。有声の言葉は、それぐらい衝撃を与えた。


『トト!』

『トト! ねえ!』

『あ、ああ。なんだ』


 覚醒したが動かないルビに、オルとロスが声をかける。その強い口調に、ルビが驚いて体を震わせた。戸惑う様子は、いつもの風格が全く無かった。


『カカおいかけて!』

『はやく!』

『え』

『え、じゃない!』

『いかないときらいだよ!』

『わ、わかった』


 しりを叩かれる情けない形となって、ルビはすごすごと部屋から出ていく。すぐに動かなかったことに、オルとロスは顔を見合わせてため息を吐いた。


『トト、だいじょうぶかな』

『だいじょうぶかな』

『きっと、だいじょうぶだよね』

『うん。カカといっしょにくるよ』

『そしたら、いっぱいぎゅってしてもらおう』

『うん。なでなでしてもらおう』

『すきって、いう?』

『いおう! だーいすきって!』

『うふふ。たのしみ』

『たのしみだね』


 最初は心配していたが、話しているうちにくすくすと笑い出す。有声とルビのことを、まったく心配していなかった。多少のいざこざはあれど、最後にはいい結果に終わると確信していた。

 ここで待っていれば大丈夫。そう考えると、どのぐらいかかるか未定なので、遊んで待っていることにした。


 有声は、とにかく走っていた。ルビから出来るだけ遠くに行きたい。脳内を占めるのは、それだけだった。

 家の外まで追われることなく出られたのは、喜ぶべきはずなのに、胸がチクチクと針で刺されるような痛みを有声は感じていた。

 その痛みを誤魔化すように、服の上から爪を立てた。別の痛みでうやむやにしたのだ。

 息が切れても、足がもつれそうになっても、走ることを止めなかった。止まれば考えなければならない。それができなかった。

 どこまでも走り続け、有声は湖に辿り着く。家からそう遠くない距離にあり、普段からよく来ているので、自然と足がこちらに向かった。

 真っ赤に染まる水面を視界に入れると、無意識のうちに走るスピードが遅くなった。そして水辺に来た頃には、完全に止まった。

 呼吸を整えながら、有声は腰を下ろす。水面に手を入れ、意味もなくかき混ぜる動作をした。


「あーあ。何してるんだろう」


 言葉の意味を理解してから、ここに逃げてくるまでずっとそう考えていた。どうして、あんなことを口にしてしまったのか。何故、あのタイミングで。そんな疑問が次々と湧くが、答えをあげるとするならばルビの顔を見たから、だった。


「……好き、なんだ」


 突然現れた感情ではない。ずっと心の中で育っていたが、見て見ぬふりをして気づかなかった。その感情を認めたくなかったのだ。


「だって、無理だろ」


 ルビが好きだと自覚したが、その先のビジョンが見えなかった。

 恋人、番、そうなった自分の姿が想像できなかったのだ。三郎とミドリのような、言わなくても特別な関係だと分かる雰囲気を、自身とルビは醸し出せないと諦めていた。


「優しくされたから好きだってなるのは、一番迷惑な事だよな……相手はそういうつもりがなかったのに、勝手に勘違いする。うう、俺もそんな迷惑な人ってことだよな」


 ルビに嫌がられたらと考えたら、悲しくて有声は膝を抱えていた。


「ルビは優しいから、俺に気を遣って気持ち悪いとか拒絶しないかもしれないけど、好意を押し付けるのは嫌だな。でも、家を出てくのも……そうなったらオルとロスのことは、どうすればいいんだろう。離れ離れとか? ……そんなの絶対嫌だ」


 考えれば考えるほどネガティブな方向に、思考を進めていく有声は、すぐ後ろまで近づいてきた存在に全く気がついていなかった。

 相手も逃げられないように、出来る限り音を立てずに近づいたので、気づかなくても仕方がなかったのかもしれない。


『……ユーセイ』


 逃げられてもすぐに捕まえられる距離まで来たところで、ルビは有声の名前を呼んだ。

 そこでようやくルビの存在に気づいたが、すぐ近くにいるから逃げられないと悟る。逃がしてくれる隙がないことも。

 最後通牒でも言いに来たのかと、有声はネガティブな思考を引きずったまま、顔をあげられずにいた。

 オルとロスに発破をかけられ、とりあえず気配を追いかけたルビだったが、未だに混乱していた。何を言われたのかは理解している。

 しかしルビは、あのタイミングで言われると思っていなかったので、驚きから抜け出せずにいたのだ。

 名前を呼んだはいいが、そこから何を続ければいいか分からず、有声が自分の方を見ようともしないので戸惑っていた。

 変な沈黙が流れたところで、ルビの耳が微かな嗚咽の声を聞きとった。有声が泣いている。

 その事実に気づいたルビは、後先考えずに行動していた。

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