第35話 しばらく穏やかな時間


「ふぅ、極楽極楽」

『ふぅ』

『ごくらくごくらく』

「はは、俺の真似をしなくていいんだよ」

『まねっこ!』

『ふふ、カカのまねっこ!』


 オルもロスも水は平気で、溺れることもないぐらいに泳ぎは達者だ。しかし有声に甘えるために、まだ怖がっているふりをして膝の上に乗せてもらっていた。

 有声もなんとなく大丈夫なのは分かっていたけど、甘えるのが可愛いから好きにさせている。むしろ彼にとってもご褒美なので、喜んで毛並みを整える。


『そんなに長い時間入って、よく平気だな。のぼせないのか? 見ていてふやけてしまいそうだ』


 少し前に湯船から出ているルビが、げんなりとした表情を見せる。温泉に入る習慣がなかったので、一緒に入っていたのだが途中で耐えられなくなり出た。長風呂をしている有声が信じられず、念のために傍で見張っている。


「このぐらいなら、まだ普通だよ。ルビはカラスの行水だな。全然入ってなかったじゃん。オルとロスは平気?」

『へいき!』

『きもちいい!』

「お、将来有望だね。でも、のぼせたら危ないから、そろそろ出ようか」

『『はーい!』』


 有声はまだ入れたが、一緒に出ないとオルとロスがぐずると考えて、湯船から出た。初めてなので、無理する前に。


「あー、ここに冷たいコーヒー牛乳でもあれば最高なんだけどなあ」


 濡れた体をタオルで拭きながら、ボソリと呟く。それはただの願望で、叶わないと分かっていて言った。しかし、ルビが敏感に反応する。


『こーひーぎゅにゅう? それはなんだ?』

「えーっと、俺の国にあった飲み物で、動物のミルクに、焙煎した豆を細かく刻んでお湯で抽出したコーヒーっていうのを混ぜて、飲みやすいように甘くしたもの……この説明で分かる?」


 知らない相手に、説明するのは中々難しい。どこまでがこの世界にあるか分からないので、難易度が高かった。自分の説明が上手く出来たか心配で、もっときちんと理解しておくべきだったと反省する。


『ふむ、少し待て。……これか?』


 考え込んでいたルビがそう言った途端、有声の手には冷えた瓶があった。


「う、そ……」


 見覚えのあるフォルムに、見覚えのある薄茶色の液体。震えそうになる手で、あの剥がしづらくて有名な紙の蓋をあけた。そして一口飲む。


「これ! これだよ! え、なんで? 凄い! どういうこと?」


 口の広がる慣れ親しんだ味に、有声は目を見開いて驚いた。それは、完全にコーヒー牛乳だった。全てが再現されていて、懐かしさに思わず涙が滲んできたぐらいだ。


『オルものみたい!』

『ロスものみたい!』


 興奮している有声を見て、オルとロスも騒ぎ始める。最初は興味がなかったけど、有声がここまで興奮しているのならば美味しいはずだと、そう確信した。


「これって、飲ませても平気かな? 成分とか、そういうの。駄目なもの入ってない?」


 飲ませてあげたいが、体に悪影響はないかと有声はルビに聞いた。


『平気だ。我もオルもロスも、やわな体を持っていない。毒にも耐性があるから、このぐらいでどうにかなるわけがない。安心しろ』

「なんか求めていたのとは、微妙に違う答えだな。つまり、大丈夫ってことでいいのね。えーっと、器」

『これでいいか』

「ん。ありがとう」


 さすがに瓶から飲ませるのは難しいので、器を探せばルビが用意してくれた。


「はい、どうぞ」

『! おいしい!』

『! あまい!』

「そっか。気に入ってくれたのなら良かった。これを風呂上がりに飲むのが、また最高なんだよ……」


 温泉に、コーヒー牛乳。前の世界を感じさせる組み合わせに、有声は久しぶりにもう帰れない場所に郷愁の想いを抱いた。


『そんなに美味いのか?』


 有声の落ち込みを敏感に察して、ルビは顔をずいっと近づけた。瓶に興味があるふりをして、実は横目で表情を窺っていた。


「美味しいよ。子供の頃から飲んできたから、思い出補正が入っているかもしれないけど。甘いの平気なら飲んでみる?って、俺が用意したわけじゃないけどね」


 近い距離にいるので、鼻息が首に当たる。それがくすぐったくて、有声は思わず笑う。

 悲しい気持ちも、どこかへ消えた。


『一口飲ませろ』

「ルビの一口って、全部じゃ……ま、いいか。どう?」

『甘い』

「それは言っただろ」

『……だが、これはこれで美味いな。ユーセイの故郷の味。そう思うと特に』

「恥ずかしいこと言うなって。でも口にあったなら良かった」


 自分が好きだったものを、美味しいと言われて有声は嬉しさにはにかむ。半分以上、ほとんど空になった瓶を握りしめて、ルビに顔を向けた。


「ありがとう。凄く嬉しい」

『う、む』


 笑顔でお礼を短期間で再び見ることになったルビは、こんな小さい行為で喜んでくれる有声が愛しかった。それと同時に、未だに元の世界に未練があるのかと、胸がちくりと痛む。


「1つ聞いていい? これをどうやって用意したの?」


 コーヒー牛乳の名前を知らなかったルビが、こんなにも完璧なものを用意出来たのは何故か。自分の説明が上手かったおかげとは思えなかった。

 どこから取り寄せたのか。繋がるすべがあるとしたら。

 そう期待しているルビに対し、ルビは悲しげに首を振る。


『残念ながら、お主が考えている理由ではない』

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