後篇

自分の命の価値が喪失してしまった瞬間をはっきりと認識したことがある人はどれだけいるだろう。僕にとってはその瞬間が、17歳の冬だった。

僕は、ドナーとして生まれてきた子供だった。

それ以外の役割をなにひとつとして期待されずに産まされた子供だった。

僕の三つ上の兄は、生まれつき全身の臓器が不治の病に侵されていて、おまけに特異な体質だったようで、適合する人間の臓器は探しても探しても見つからなかったそうだ。万能薬ともされる人魚の肉ですら兄の病を治すことは出来なかった。むしろ、両親が兄に人魚を食べさせていなければ、兄は生まれて一年と経たずに死んだだろう。それほどまでに重い病気だった。人魚の肉を定期的に食べさせ、寿命を伸ばしてもなお兄の病状は回復するどころかじわじわと進行していく。治療のためには健康な臓器が必要不可欠だ。だが適合する臓器はない。ただでさえ臓器移植は狭き門と言われている。必要な臓器が病死する前に患者に届くケースはごくわずかしかない。兄の場合は肺や胃、心臓など全身のあらゆる臓器の移植もしなければならないので、ドナーは死者限定と限られている。ただでさえ不可能なのに、それ以上の無茶を強いられているように当時の両親は感じただろう。

そこで彼らは思いついた。ごくごく簡単なことだ。

ドナーがいないのなら、作ってしまえばいい。

血縁者ならば適合率はぐっと高くなる。兄弟ならばなおさらだ。しかも自分の子供なら、いつでも監視下における。いつか兄のために死ぬのだといいきかせ、然るべきときに自殺でもさせれば彼らは理想のドナーが手に入るのだ。ふたりの愛する息子が助かる。彼らにとって、これ以上に素晴らしいことはなかっただろう。

だから僕が五歳のときの身体検査後、ほぼ全身の臓器が兄のものと適合すると分かって、両親は狂ったように歓喜した。まるで今が浄土の到来と言うような狂喜ぶりだった。僕は黙って、今までで一番嬉しそうに笑う両親をまっすぐに見つめていた。父が僕の視線に気づいて、よくやったと頭を撫でてくれたことを覚えている。そのときはどうして両親がこんなにも喜んでいて、何故褒められたのかが分からなかった。それでも、少しだけ照れくさかった。褒めてもらえたことが嬉しかったんだと思う。・・・もう、よく覚えていない。

名前は産んですぐに決めたらしい。近くにあった花からとったとか。誕生日もクリスマスも僕にはなかった。クリスマスは両親が兄の病室に大きなプレゼントを抱えながら訪れる。僕は家にひとりだ。ご馳走もケーキもクリスマスの飾りもプレゼントもない。誕生日も同様だった。おめでとうとすら言われたことはない。入学式も卒業式も祝われたことはなかったし、運動会も授業参観も来てもらったことはなかった。僕はそのことを悲しいとは思っていなかった。疑問にすら感じなかった。だって、ずっと言われていたのだ。あなたはおにいちゃんのために生まれたのよ、と。おにいちゃんから与えられた命なのだからおにいちゃんに捧げなければならないのだと。僕は物心つくまえからそう言われ続けていて、漠然とそうなんだと思っていた。そうなんだ、僕はおにいちゃんのために死ぬんだと。だから僕の誕生日にもクリスマスにも入学式も卒業式にも、お祝いは必要ないのだと。

両親にとって僕は愛し慈しむべき息子ではなく、貴重な臓器提供者に他ならなかった。だが愛されてはいなかったといっても、虐待をされたことはなかった。どころか、一度も平手でさえ受けたことはない。彼らは僕の身体には常に神経を研ぎ澄まし、不用意に傷つくことがないようにした。健康な身体を保つように毎日決まった時間に決まった運動をさせられた。抗体ができるように態と予防接種を受けさせずウイルスに感染するように仕向けられたこともある。栄養バランスが取れた食事を用意し、菓子は一度も与えられていない。両親が許可していない食品を口にすることは我が家では許されなかった。お小遣いは当然もらえない。一度だけ、友人が遠足の時にくれたチョコを食べたことがあった。舌にのせた途端、今まで感じたことがないような甘味を感じ、同時に途方も無い罪悪感に押しつぶされそうになって思わず吐き出してしまった。あのときぽろぽろと溢れた涙の意味を、未だ分からずにいる。

とにもかくにも、そういう人生を送っていた。幼い時分は家こそが世界であったので我が家の異常さには気づいていなかったが、学校へ通い他人と交流していく内にだんだんと自分の家はひょっとして異常なのでは、と考え始めた。だが己の家庭環境が他に類を見ないほど異様で歪なのだと気づいたときはすでに遅く。僕には既存の価値観が作り上げられていて、両親に抗うほどの気力もなかった。どうせしたいこともなりたいものもない。このままで本当にいいんだろうかと曖昧に思いながら、拒否感が湧かず、ずるずると惰性で日々を過ごしていた。兄のために死ぬ、それは何よりも最初に教えられたことだ。僕という命の意味で価値だ。生まれたことへの明確な理由だ。骨身に染みているそれを覆せるほど僕は自分自身に執着していなかったし、それが嫌だと言えるほどの、生きていきたいと思えるほどの熱情を抱かせてくれる何かとも出会えなかった。

両親は僕の身体の事以外ではルーズだった。門限は絶対だしGPSはいつも付けられていたがどこに行こうと誰と会おうとどんな付き合いをしていようと自由。親子あるあるらしい、「勉強をしなさい」という言葉も言われたことがなかった。それは、いずれは兄のために死ぬであろう息子への僅かばかりの慈悲だったのか。少なくともその時が来るまではせめて自由でいさせてやろうという配慮だったのか。・・・いいや、たぶん違う。彼らは単純に興味がなかったのだ。僕の生活や人間関係なんて。ドナーの身体が健康で無事でさえあればその他のことはどうでもよかったのだろう。

教師から、将来のことについて尋ねられるのが一番困ることだった。だって、僕の将来はもう確定されている。進路のことについて考える時、僕が一番初めに思い浮かべるのは僕の身体から取り出される臓器群だ。兄のために肉塊になる、それが両親に唯一認められた道で、望まれた将来だった。

勉強なんて意味がないことは分かりきっていたけれど、補習はめんどくさいのでまあそれなりにやって、進路は適当に誤魔化しとけという両親の言いつけ通りそれらしい進路先を進路希望書に書く。すべてが惰性だった。嘘っぱちでしかなかった。大人になったら何になりたい?という趣旨の問はいつだって苦く苦く聞こえた。

自分の誕生日はよく覚えていなかったけれど、兄の誕生日ははっきりと記憶していた。毎年、その日に両親が人魚の肉を夕飯に出すからだ。兄の病室に持っていく料理に使った人魚肉の余りだ。両親は兄の誕生日をひとしきり兄の病室で祝った後、夜遅くまで家で待っている僕に人魚肉を使った料理を振る舞う。毎年毎年この日だけは、三人で食卓を囲んだ。まるで上っ面だけは普通の家族のようで、どんな顔をすればいいのか分からなかった。

人魚の肉を使ったおかずをどんどんと僕のお皿に盛り付けながら言われた、健康におなりなさいよという言葉は、表面だけ見れば親から子供へ注がれる慈愛溢れる言葉のようで、言われるたびに心がすり減っていく気がしていた。

人魚の肉を毎年食べたおかげで僕はより健康になり、どんな病気にもかからなくなったし、より頑丈になった。両親は喜んだ。その喜びの様子を純粋な目で見続けることは、今度は出来なかった。


17歳のある日。

僕は兄の元へ訪ねてもよいかと両親に頼んだ。兄の調子も最近はだいぶいいらしく、そろそろ手術しても良い頃合いかと言われていたころで、きっと自分はもうすぐ死ぬんだろうなと思っていた。死ぬ前に一度だけでも兄と話したい、と言ったら存外簡単に許可を貰えた。

もう息が白く染まる季節で、病院は余計に寒々しく見えた。僕が訪れたのは特別棟の個室で、全身消毒をさせられ、手術着のようなものを着せられてから中に入った。透明なビニールカーテンを隔て、果たして僕は生まれてはじめて兄と邂逅した。真っ白な病室。温度が感じられない部屋。窓の外へと向けていた視線を、ゆるりと此方の方へと移してきたこの部屋の主は、びっくりするぐらい痩せ細っていて、小柄で、とても年上だとは思えなかった。褪せた金髪と柔らかな光を放つ蒼眼。健康体なら、まず間違いなく女性に引っ張りだこに違いないくらいの造形。思わず息を止めてみつめていると、「やあ」と声をかけてきた。想像よりずっと穏やかなアルトの声音。けれど何も言い返すことは出来なかった。足が震えていた。何に怯えていたんだろうか。

「キミがボクの弟かい?父さんたちから聞いてるよ。ボクは、レノだよ」

朗らかに言葉を放ってくる兄に、一瞬、何をどこまで聞いているんだとぶちまけたくなった。僕がこれからどうなるのか懇切丁寧に教えてやろうかと思った。きっと知らないんだろう。もしすべてを知っていてあの挨拶ならサイコパスだと詰ってやる。そう思った。頭が瞬間的に茹だっていた。あれほどまでに俯瞰して見ていた自分の将来が、途端に揺らいで見えていた。だがこみあげた衝動は刹那に冷水と化し、自身の心臓を苛んだ。儚く笑みを浮かべる自らの兄に対して、ほぼ反射的に、あぁ僕はこのひとのために死ぬんだと思った自分に気づいたからだ。そして今まで当たり前のように命を捧げようとしていた、自分の兄の名前も顔も知らなかったという事実に、今更気づいてしまったからだ。遅すぎるだろう。自らの愚かさを嗤おうにも、表情がうまく形作れない。

枯れかけた声を振り絞り、なんとか当たり障りのない会話をして病室を出た。エプロンとマスクを剥ぎ取って病院に返してから足早に家路を急いだ。自分の部屋に辿り着いてずるずると座り込み、膝を抱えた。とてもたちの悪い悪夢を見たような気分だった。

なんの意味もない行為だった。ただ“これから”を再確認するためだけの邂逅。

あー、と喉から唸り声がする。手を額にやって天上を見上げる。しんどいなぁと思った。酷く疲れていた。

自分はやはり、あの人のために、両親のために、肉塊にならなくてはいけないのだと思った。









兄と両親が死んだのは、その日から一週間後のことだった。








兄のお見舞いの翌日、僕は自分から“決行日”を今年中にしようと両親に相談した。次の兄の誕生日に、平静でいられる自信がなかったからだ。もうあの人魚は食べたくなかった。きっと次は吐いてしまう。

両親はなんて良い子だと褒めてくれた。もうなんの感慨も抱かなかったけれど、どうでもよかった。早く終わらせて欲しかった。

死因がなんであれ、僕は自殺しなければいけない。それも臓器を傷つけない方法で。もし両親が僕を殺したりなんかしたら臓器移植そのものさえできるかどうか怪しくなる。長男のドナーをつくるために次男を殺した事件なんて曰く付きの移植手術、誰が引き受けてくれるだろう。そもそも、殺人と判明されたら問答無用で司法解剖行きだ。事故は臓器が著しく破壊される可能性がある。僕は臓器に影響が及ばない程度の死因で死なければならない。適当に理由をつくって死んで、このままではあまりに忍びない、せめて長男に臓器を移植して次男の分は生きて欲しい、それをきっと天国にいるあの子も望んでいるとでもなんでも両親が医師に泣き落とせばうまくいくだろう。

両親は、あまり身体が傷つかない方法を調べておくよ、と微笑みながら言っていた。その微笑がなぜかぐにゃぐにゃとしているように見えたことは覚えている。

痛くないといいなあなんて思っていた。





自分が死ぬことばかり夢想していたのに、一番早く死んだのは僕でも兄でもなく両親だった。交通事故だったらしい。その知らせを病院で受け取った兄は容態が急変。そのまま調子を戻すことなく他界した。

恐らく両親の死という衝撃的な出来事で気力が落ちてしまったせいだと思われます、という医者の言葉は、酷く遠くてよく聞こえなかった。気づいたら、皆死んでいた。もう両親も兄もいない。信じられないほどあっけなく、あれほどまでに強固な筈だった未来予想は根底から崩れ去った。ぼーっと天井をただただ眺めていると、いつの間にか医者の説明は終わっていた。今はまだショックで受け止められないだろうから、今日はもう帰りなさい、また明日此処に来てくださいと医者は言って、背中を優しく撫でてくれた。か細く息が漏れる。握りしめ続けていた両手は真っ赤になっていた。

ふらふらと帰路につきながら思ったことは、あぁ僕もう死なないんだなということだった。そうだ、兄も両親も死んでしまったのだから、僕が死ぬ必要はもうない。僕はこれから先自由だ。そこまで考えて、はて自分は自由を求めていたのかと疑問に思った。本当に兄のドナーになるのが嫌なら逃げれば良かった。不可能なことではない。児童相談所にでも病院にでも学校にでも相談できた。力になってくれた大人もいるだろう。けれどそうしなかったのは、あまりにもそれが当たり前のことのように刷り込まれていたからだ。兄のためのドナーになることは前提条件で、そこから外れるのは罪深いことに思われた。

兄のために生まれてきたことは間違いなく真実で、だから兄のために死ねという言葉はこれ以上なく正当性があるように感じられたのだ。当然なことだと漠然としながら思っていた。では心から受け入れていたのかというと、どうだろう、これも微妙な感じがした。でなければ、何故兄と対面したときにあれほど動揺したのかが分からない。年々心が摩耗していった理由も。

嬉しいのか、悲しいのかさえも分からなかった。そのときはただ、途方も無い現実に押しつぶされそうになりながらなんとか堪えていた。感情の結び目はぐちゃぐちゃに絡まりあって、わけがわからなくなっていた。ただ分かるのは、自分の存在意義が永遠に失われてしまったということだけだった。別にドナーにだってなりたくてなったわけではないが、他になりたいものもしたいこともなかった。どうせ死ぬのだからと何も考えずに生きてきた。突然真っ暗闇の中に放り出された気分だった。自分の命に明確に記載されていたはずの意義と意味と価値を一遍に失うことは、途方も無い喪失感を与えてくれる。残ったのは、人魚の肉のおかげで無駄に健康になった自分の身体だけだ。すべて無駄になってしまった。今までやってきたこと、すべて。この先ずっと、どこにも行けず何者にもなれない気がした。

ふと気がつけば、家への道ではなく他の道を歩いていた。まごうことなく現実逃避だ。それとも、無意識に自殺でもしようとしていたのかもしれない。海の方へと足が向いていたから。

冬の朝5時。凍てつくような空気の中、波打ち際で朝焼けに照らされた彼女を見つけたのはその日だった。




+++




気づけばすべてをぶちまけていた。自分の生い立ち、過去、感情、そのすべてを思いつくままに。恥も外聞もなかった。やけのように喋っていた。彼女はずっと静かに聞いていた。だから余計に止まらない。最悪なことを話しているのに。

「おまえは・・・おまえは、美しくて、血まみれなのに美しくて、・・・なのに、人魚なんだ」

その事実に途方もなく嫉妬した。

この世のものとも思えない程に綺麗なくせに、そうでなくなってもこの生き物にはまだ価値があるのだ。寿命を延ばし、健康を促進し、美容に良く、病に効き、しかも美味しい。なんて万能な存在だろう。そこにあるだけで佳処を示す。つい先程己の命の意味も意義も価値も役割も喪失した自分とは大違いだと思った。そんな生き物は存在するべきではないと本気で思った。兄の命を延ばし続けた人魚と、そのために生まれてきたくせに、結局兄の命を救えなかった僕。喉に焼きつくような劣等感を覚え、何かを吐き出しそうになった。

「・・・っ、だから、だからっ、それ以外の価値なんて、与えないようにしてやろうと思ったんだ。美しい存在以外の、綺麗な生き物以外の、何者にもなれないまま終わらせてやろうと思ったんだ」

いつか僕がなるはずだったものに、彼女がなることだけは耐えられなかった。人魚なんて好きじゃない。好きじゃなかったから、絶対に絶対に肉塊にしてやるまいと思ったのだ。それは、僕の人生の終着点になる筈だったものだ。

なんて、なんて、間抜けな人魚だ。

あんなところにいたから、僕のような人間にみつかってしまった。

「誰にも食べられることのないままで死んでほしかった。誰の役にも立たないままで終わってほしかった。__________おまえがそうあってくれるなら、ずっとずっと美しいだけの生き物でいてくれるなら、何を捧げても捨ててもよかったんだ」

あぁ本当に酷い話だ。吐き出して、最高に歪んでいることを自認する。

あの時に抱いた想いが、愛や恋ならよかったのに。この行為の始まりが一目惚れなんて綺麗で甘いものなら、ハッピーエンドでもバッドエンドでも、きっと今より格段にマシだった。

けれど現実は物語よりよほど残酷だ。僕のこの行為は醜い嫉心から生まれたもので、そこにあったのは憧憬と劣等感を混ぜ込ませた気持ちの悪い感情だ。僕は最初から、自分のためだけに行動していた。どこまでも自分本位な救助活動だった。彼女に命を捧げてもらう価値なんて、僕にはない。

彼女はしばらく黙って僕の顔をみつめていた。それから驚いたことに、ふっと顔を緩めて僕の頭を撫でた。滑らかな感触の指先から水がつたい、少しだけ冷たい。

「あなたは、かわいそうね」

「・・・は?」

何を言っているのか。僕が今何を話していたのか聞いていなかったのだろうか。僕は、いかに自分が最低かということを語って聞かせたつもりだった。それなのに最初に出てくる感想がそれだなんて、おかしいとしか思えない。どうして頭を撫でる。しかもそんな優しげに。狂っているんじゃないだろうか。

「な、にを・・・だいたい、可哀想なのは、おまえのほうだろう」

僕の人生の不幸なんて、彼女たち人魚に降り掛かったものに比べればなんてこともないものの筈だ。彼女の方がよっぽど悲劇的で、絶望的だ。僕は事実解放されたのだから、もう死ぬ必要はない。普通なら喜ぶべきことにこんなふうにショックを受けているのは、僕の頭がおかしいからだ。憐れまれるべきは彼女であって、僕ではない。僕にはそんな値打ちもない。どちらの人生の方が不幸かどうかなんて、一目瞭然だろう。愛されず愛してもいなかった家族が皆死んだ僕より、愛し愛されていた家族達を貪り尽くされた彼女の方が、よほど可哀想だ。極めつけの悲劇は、きっと、僕のような人間に出会ってしまったことだろう。僕みたいな人間のために一瞬でも、死んでもいいと思ってしまったことだ。

それなのに、続く彼女の言葉は唄うようで、少しの淀みもなかった。

「いいえ、かわいそうよ。__________あなた、今自分が地獄の底にいることに気づいてないのね」

「_______、」

その甘やかな微笑みが、何故かいつか病室で見た兄の笑みに似ている気がした。

「かわいそうなものは、かわいいわ。ふふっ。ねえやっぱりあなたは変わっているわよ。人魚が羨ましいなんて、誰も思わないもの。・・・あなたは食べられたかったの?」

人に食べられることを疎み、食べるために人魚を殺し続けた人間を憎む彼女にとって、僕の言葉は最悪の侮辱に等しかったはずなのに、なんだか彼女は楽しんでいるようにすら見えた。それとも、ものすごく怒っているのだろうか。綺麗な顔で憎悪を綴っていたというから、それほどありえないことではないように思えた。人魚という生物は、よく分からない。

「・・・いや・・・どうだろう・・・たぶん、そうではないと思う・・・。ただ、自分の生きる理由が、奪われてしまったように、感じたんだ」

それは、八つ当たりにも似ていた。現実逃避とも言えるだろう。どっちにしろ、彼女にとってはただのとばっちりだ。

彼女はコロコロと笑った。どこかラムネ瓶のなかのビー玉を思わせる笑声だった。

「それで羨まれるなんて、理不尽もいいところね」

まったくそのとおりだと思う。

「だから・・・おまえは僕のために死のうとなんてしなくていい。そんな価値もない男なんだ」

だから早く逃げよう。その言葉を放つ前に、彼女がとびきり麗しく微笑んだ。ふたたび寒気が奔り、頭の中ががんがんと痛んだ。

「いいえ。私、やっぱり死ぬわ。決めたもの」

「っ、どうして!」

どうして。

その言葉が、心の底から理解できなくて、目の前の天使のような眩い微笑が化け物のそれにも見えた。

「聞いていただろう!僕に、おまえの命を捧げる価値なんて・・・、」

「ちがうわ」

少しも惑わない否定。

「捧げるんじゃない、縛り付けるのよ」

そこで、彼女は僕の頭からその白魚のような手を離し、薄闇を仄かに照らしていた豆電球に翳す。仄かな暖色の光が透けるほど、彼女の肌は透明だった。

「私はね、本当はあなたよりも、ずっとずっと長く生きているの。でもこの世界はあんまりにも救いがなくて、もう疲れてしまっていたのよ。あなたと出会ったあの海で、ぼんやりと死ぬのを待っていたわ。人間に見つかって、今度こそ殺されてしまうのだとしても構わなかった。本当に、疲れていたから。息をするのも、苦しかった。ぜんぶ終わらせてしまいたかったの。__________でも、」

見覚えがある感情だ。かつて、僕もそう思っていた。いつか終わるのだから、この息をしている瞬間に意味はないのだから、さっさと終わってしまいたいと思っていた。

「でも、あなたが、みつけてしまったから。・・・あなたが、私を殺さないで、美しいと呟くから。私と逃げる、それ以外を容易く放り捨ててみせるから」

だから、死ねなくなってしまったの、と彼女は言った。

僕はそれを聞いて、泣いているのかと思った。そういう声だったから。

「・・・でも、よかったわ。あなたの“ほんとう”を聞けて。もしもあなたが私を好きだったら、私、ずっとあなたに付き合わなければならないと思っていたもの。でもあなたは私の同族を食べる酷い人で、人魚のことなんて全然好きじゃなかった。本当によかったわ、私も好きに出来るもの」

けれどその感覚は急に幻のようにふっと消えた。彼女の頬に涙があるわけはなく、いつものようにただただ美しい笑みを見せていた。人外そのものの表情だ。

「好きに、」

死ぬのか。死ぬこと、それ自体が彼女の望みだったのだろうか。________それを、僕が引き止めていたのだろうか。無理矢理に。

「ずぅっとね、ずーっと、たったひとりきりで、取り残されている気がするの。息を吸うのが、時々、酷く難しい。でもね、どうしてかしら、あなたがいるときは歌えるのよ。それでもし、あなたまで私のせいで殺されたりなんかしてしまったら、きっと今度こそ私、壊れてしまうわ。あなたが死んで、いなくなって、真実ひとりぼっちになったなら、今でも十分狂っているようなものだけれど、もう耐えられなくなってしまうでしょうね。________だから、そうなる前に、死んでしまいたいの」

「おまえは、僕が嫌いなんだろう?」

「ええ、きらいよ。でも嫌いなことと、その死に傷つかないことは関係がないわ。あなたは、その兄と両親が好きだったわけではないでしょう?同じことよ。わたしたち、変な所で似ているのね」

似ている?

荒唐無稽な言葉に思えた。どこに似ている要素があるんだろう。僕は彼女ほどの残酷なまでの壮麗さを持ち合わせてはいないし、彼女のように最高に優しく憎しみを囁くことも出来ない。ただの凡人だ。

「私はあなたがきらいで、にくくて、だからあなたが傷つくことを平気で出来るわ。私が死んだら、きっとあなたはこの先一生苦しむでしょうね。嬉しいわ。ずっとずっと苦しんでいてね。私はそれを、天国の家族と一緒に見ているから」

「・・・は、っはは。本当に酷いな」

「ええ。でも、あなたは可哀想で、可愛いから、殺されてしまうのは嫌なの。それを見てしまうのは、その先で私が生きているのはもっと嫌。そんな目にあったら、心が砕けてしまう。こんなに哀れで不幸な生き物は、苦しみながら生きていくべきだわって、あなたの話を聞いてて思ったの。意味は変わっても、私、あなたのためになら死んでもいいと思っているのよ」

「・・・それは、復讐か?」

どんなにむごいことを言われても、受け入れるつもりではあった。先に最低最悪な真実を口にしたのは此方の方だ。ただ、あんまりにも穏やかに、いっそ愛おしげに言葉を紡ぐものだから、そこに含まれている意味が覚知出来なくて、だから質問をした。そうであると答えられたなら、至極最もな動機だと納得しただろう。ひょっとしたら、そうであってほしかったのかもしれない。ただでさえ心が潰されそうな心地がしているのに、これ以上地獄が積み重なってほしくはなかった。

だが、彼女は僕の望みすべてを嘲笑うように星々の瞬きのような微笑を浮かべた。

「そうかもしれないわ。きっとそれもある。______________でも、」

甘さを含む、涼やかな声だ。人魚の魅力すべてを詰め込んだような、聞き心地のよいその声音で、拷問にも等しい言葉を伝えようとする。

「_____________あなたが、私のために、今よりもずっとずっと深い地獄の底で、息をしていかなければならなくなってしまえばいいと、思ってしまったのよ。可哀想で、可愛くて、憐れで、不幸で、変わっていて、人魚を羨ましがってしまうほど壊れていて、私にすがらなければ満足に生きていけなかったあなたが、私のためにもっと傷ついてくれたら嬉しいと思ったの。それは、憎んでいるからかもしれないし、あなたが好きだからかもしれない、ひょっとしたらただの気まぐれかも。死ぬための理由付けだけかもしれない。・・・どっちにしろ、私はもう生きたくはないわ」

思わず息を止めていた。彼女の瞳が、きらきらと光っている。右目の翡翠、左目の碧。澄んだ海の水面に陽の光が反射している。もうこの世界にはない海だ。きっと彼女が還る所だ。人魚にとってのユートピア、そういう色をしていた。

こくりと首を傾げて、上半身を水槽から乗り出し顔を近づけてくる。

逃れられない。目を反らしたいのに、身体が言うことを聞かないのだ。蜘蛛に捕らえられた蝶のようだと思いかけて、いや蝶の甘美な造形は僕より彼女の方が似合うだろうと訂正する。

我ながらたいがいどうかしていると思った。

「だから、ね。私のために、私を殺して。出来るでしょう?あなたは人魚が好きじゃなくても、人魚が食べられるひとだもの」

心臓が甘く刻まれた心地がした。息が苦しい。ぐらぐらと目眩がする。

「・・・それが、おまえの望みなのか」

「ええ」

「叶えなければ、おまえの心は死んでしまうのか」

「ええ」

「もう一緒に、逃げてはくれないのか」

「いつまで私は逃げ続ければいい?人は人魚よりあっけなく死ぬわ。逃げて逃げて逃げ続けて、あなたが死んだ、その後は?」

答えることは出来なかった。もとより、この逃亡生活に行き先などなかったのだ。いきあたりばったりで、無理に無茶を重ねているような現状だ。容易く終わってしまうような砂糖菓子で出来た城よりも脆い日常だ。僕は彼女に、なんの希望も差し出せない。

「殺せば、おまえが食べられることはなくなる」

「ええ」

「でも殺してしまったら、もうおまえの微笑みを見ることも、唄を聞くこともできなくなる」

「ええ」

「それなのに殺せって?僕におまえを殺せって迫るのか」

僕にとっては耐え難いほどの苦痛なのに、それを彼女は知っている筈なのに、それでもそれを成せという。他でもない彼女自身のために。

「私はあのとき死んでもよかった。死ぬつもりだった。あなたの我儘に付き合って、今まで生きてきたの。この窮屈な水槽の中で。だったら一度くらい、私の我儘を聞いてくれたっていいでしょう?_____________あなただから、お願いしているの。私、あなたの絶望が好きよ。あなたの苦痛を愛しく想う。だから殺して。あなたがいいわ」

そういって彼女が浮かべた表情はあまりにも甘美で、きっと傾国の微笑というものはこういうものだと思った。何かに耐えるように目を瞑り、息を細くゆっくりと吐き出す。小刻みに震えていた手の指先を抑えた。僕は今、最高にやさしい悪夢を見ているのだと思った。

「__________________________________分かった」

長い長い沈黙の後、吐き出してしまったのは心から受け入れがたい同意の一言だった。言った瞬間、喉に焼き付くほどの後悔を覚える。だがもう引き返すことは出来なかった。彼女の笑みは魔性そのものだ。そして彼女の言葉は、心の柔らかい部分を容赦なく抉ってくる。自分本位な理由で彼女を生かしたのは事実で、彼女がもうこの生活に耐えられないというのなら、僕は無理矢理拾った責任として彼女の望みを叶えなければいけない__________そう思わされてしまうのだ。拒めなかった。ふと、世界一甘い毒の海に、自ら浸かっていっているような気持ちになった。息ができなくなると分かっているのに、足が止められない。

彼女は良い子を褒めるようにまた僕の頭を撫でた。

僕は覚束ない足取りでキッチンへと歩いていく。包丁を取りに行くためだ。なんだかすべてが夢幻のようにあやふやに感じられていた。今朝の穏やかな会話が、酷く遠い。自分は何をしているんだろう。

けれど彼女が望んでいる。僕にはもう、彼女の死と僕自身の地獄しか捧げられるものがない。

彼女が僕に綴った気持ちは、曖昧模糊としすぎていて理解はできなかった。なんせ本人にすら説明出来ないようなのだ。恋と呼べるのかは、僕が恋を知らないから分からない。愛というには歪みすぎている。憎悪では明らかに言い足りない。ただ、僕が彼女によって致命的に狂ったように、彼女もまた、僕によって壊れてしまったのだろうということだけは分かった。

ならばやはり、僕はその責任を取らなければいけない。

それがどんなに恐ろしいことで、今すぐ此処から逃げ出してしまいたいほど拒みたい行為でも。

包丁を掴んだ手を小刻みに震わせながら水槽の側へと歩いていく。銀色に鈍く輝くこの刃物なら、人魚の柔らかい肉なんて紙のように貫いてしまうだろう。

彼女はただ待っていた。これからうたた寝でもするように、全身から力を抜いて。軽く瞼を伏せたその表情は、微睡んでいるようですらあった。あるいは、ようやく楽になれるという心境の現れであったのかもしれない。

上半身を水槽の縁より上にあげ、可能な限り此方に近づいてくる。

何かの糸に操られるように、顫動する刃物をゆっくりと彼女の心臓に沈み込ませると同時に、頭を引き寄せられた。

ばしゃんっ、と大きく水音が跳ねる。

目を見開く。2センチ先に、あの御伽噺の海の色をした瞳があった。彼女の尾鰭を覆う鱗と同じ色彩の目玉。触れた唇は今まで触ったどんなものより柔らかくて、頭を包み込む腕から水滴が皮膚に伝わってきた。僕の両腕は当然包丁を掴んだままで、その包丁は彼女の左胸に突き刺さっていて、僕を引き寄せれば当然刃が身体により深く沈み込んだだろうに、彼女はうめき声ひとつあげなかった。どころか微笑んでいるようですらあった。やがて彼女の口から血が吹き出し、それでも離さないものだから僕の口内へと注がれる。生臭さが辺りを包んだ。粘っこいような、そうでもないような熱い液体が舌を押しやり喉に伝う。抵抗は出来ず、ただされるがままだった。この行為に何の意味があるのかも分からない。そして息ができなくなる寸前、彼女は頭から腕を放し水槽の中へとゆっくり沈んでいった。湖の中に弧を描きながら沈む葉のように、やけにゆったりとしていた。最期に見えた表情はやはり花のような笑みだった。人間にはきっと浮かべることなど出来ないだろう。そういう人外染みた、魔性の。天使にも似た。

1立方メートルはある水槽を満たす水が彼女の血液で染まっていく。緋く広がりゆく様は煙が漂うようで、不思議と美しかった。人魚の血も赤いのだな、とそんな場違いなことを思った。完全に瞼を下ろした彼女の顔が半透明な赤で塗りつぶされていく。僕は黙ってそれをじっと見ていた。やがて水槽すべてが赤く染まると、僕はおもむろに彼女の身体を水槽の外から出す。生暖かい血が未だドクドクと流れていて、水槽の水と一緒にコートを濡らした。びしゃびしゃになりながら床に人魚の死体を下ろし、その薄茶色の髪をそっと撫でる。彼女はまるで眠っているかのような表情で死んでいた。今、ちょうどいい夢を見ているような死に顔だ。

僕はその、この世のどんなものより綺麗な造形を目に焼き付けてから、包丁を肌に突き立てた。

嫌だった。本当に嫌だった。身の毛もよだつ感触が直にてのひらに伝わってきて、吐き気が止まらなかった。でもこうしなければいけない。でないと人魚である彼女はどこへやっても貪り尽くされてしまう。死体になってでさえ価値があるのが人魚という生き物だ。僕は彼女の死体を人魚と一目には分からないようなナニカにしなければならない。でなければ彼女はまた利用されてしまうし、かつて、死んでさえも人の役に立つ人魚という存在の在り方を心から疎んだ僕の心臓も潰れてしまう。だからぐちゃぐちゃにしなければならない。役に立つ肉塊ではなく、役に立たない肉塊へと変えるのだ。皮膚を刻み肌を裂き目玉を潰し臓器を細切れにし骨に付いている肉片を削ぎぬちゃぬちゃと血溜まりの中を這いながら作業を続けた。信じられないほどの血液が彼女の死体から飛び出し、生臭い匂いが部屋の中に広がった。どこか刺身を思わせる薄桃色の臓器は、挽肉よりも細かく切り刻んで潰した。人間のよりは幾分か細かく脆いであろう骨を鈍器で叩き砕き欠片へと変えながら、ようやく自分の頬に水滴が伝っていることに気づいた。嗚咽を噛み締め、涙を血溜まりの中へと落としながら僕は彼女だったものを壊し続けた。此処が地獄の底かと思った。僕は自分が、両親が死んだときよりも兄が死んだときよりも酷悪で最低な世界へと堕ちたことを悟った。同時に、彼女の望みが叶ったことも。


_____________あなたが、私のために、今よりもずっとずっと深い地獄の底で、息をしていかなければならなくなってしまえばいいと、思ってしまったのよ。


嗚呼、嗚呼、嗚呼。

そのとき初めて、心に腹立たしさが芽生えた。今まではただ陶然と眺めていた彼女の微笑が憎らしくてしょうがなくなった。喉の奥で焔が燃えている。憎しみにも恨みにも憤怒にも似た何かだ。激情が身体の隅から隅まで迸っている。

(殺してなんかやるじゃなかった)

こんなに酷い気持ちになると分かっていたなら、殺してやろうとなんてしなかったのに。

自分は彼女を殺したくはなかったのだ。殺したくなかったのに。

嗚呼、本当にたちの悪い、たちの悪い女に呪われてしまった。

歔欷に身を震わせながら、骨を力いっぱいに殴りつけながら、そんなことを思った。




+++




ざばぁっと波が打ち寄せる沿岸を、ひとりきりで歩いていた。やはり冬の海は寒い。けれど僕にとって海とは、夏よりも冬のものとして印象に残っている。彼女と出会ったのも、彼女と別れたのも、冬の海だったからかもしれない。

あの天国とも地獄とも判別し難い五年間を共に過ごした美しい人魚を殺してから、六年が経っていた。今歩いているのは、あの港町にある海岸だ。

あのあと、彼女の死体を解体したものを箱に詰めて中身を海に持っていった。還してやろうと思ったのだ。彼女の故郷は海だから。葬式替わりにもならないが、細切れとなった彼女の身体がいつか、彼女がかつて住んでいた場所に流れ着くかも知れない。そんなほぼありえないであろうことを思わず夢想してしまったしまったものだから。

解体作業が終わったのは日を超えた時間帯で、誰かに見られる可能性も低くて都合が良かった。初めて彼女に出会った日のようにじゃぶじゃぶと波打際を歩き、細かく刻まれた彼女の骨や肉をひとつかみずつ海へと放った。血と水を吸ってずっしりと重たくなったコートとマフラーは家に置いてきていたので凍え死にそうなほど寒かったが、その冷たさが心地よかった。痛いほどの潮風を浴びて、心臓がこのまま凍ってしまえば、痛みを感じることはなくなるだろうかと漠然と感じていた。残念なことに己の臓器の温度が失われたりはしなかった。

それから家に帰ったあとは、ひたすらに掃除をした。バレないようにしなければ、完璧に隠さなければ、この先のことなんてどうでもよかったのに、そんな理由付けでただただ一心不乱に証拠隠滅を謀った。水槽も処分し、血塗れのコートやマフラー、その下に来ていた衣服を細かく切り裂いて海へと流し、血に濡れた家具は念入りに洗ったあとで少しずつ粗大ごみに出した。厄介だったのは部屋に染み付いた血の臭いで、これが一番しつこかった。生臭い部屋を誤魔化すため、態と大勢の客たちの前で大きい鮪を競り落としたこともあった。何故部屋が生臭いのかという質問に正当に答えられる理由付けに必要だっただけで食べたくはなかったので、捌いてミンチにしてゴミ箱へ捨てた。これも、魚にしてみればまったく理不尽なことだと思い当たって苦笑いした。彼ないし彼女はゴミ箱へと捨てられるために人間に殺されたのだ。やっぱり自分に人魚を殺す人間たちを責める資格はなかったなと思った。同じ穴の狢だ。自分が最低なことを、ことあるごとに再確認する。

あらかた後始末を終えて、その一ヶ月後に港町を去った。それからは各地を行く宛もなく放浪して淡々と日々を遣り過していた。何度も何度もあの世にも恐ろしい魔性の笑みを夢に見て、あのときの肉を突き刺した感触が思い浮かんで、死ぬほど惨めな心地になった。あの作業の間はどんなに吐き気がしても一切吐かなかったのに、町を出ると思い出すごとに吐いていた。気味が悪くて、ずっと悪夢の中を過ごしているようで、人生で最も頭がおかしくなっていた。そのたびに死のうと思ったが、また彼女の微笑みが脳に映し出され、思考が停止してしまった。


ずっとずっと苦しんでいてねと言っていた。

苦しみながら生きていくべきだと言っていた。

地獄の底で僕が息をすることが嬉しいのだと笑っていた。


それが彼女の望みであったなら、それを叶えなければいけない。それ以外のこの生命を使う道筋が、僕には見つけられなかった。元来僕は彼女には敵わない。生きていようと死んでいようと、彼女の美しさは圧倒的なまでに僕を威圧し縛り付ける。

人魚というのは皆ああいう化け物なのだろうか。彼女以外の人魚を知らないし、このさきも知ることはないだろう僕には、この問の答えを確かめる術はない。

あれから六年。

僕はこの港町に戻ってきた。たぶんもうこの町から動くことはないと思う。

もう六年も経っていた。人というものはどんな悲劇にも苦痛にも時間さえ経てば慣れる生き物で、発作的に死のうとすることも、無意識に叫んでガラスの破片で身体中をずたずたに切り裂くことも、気づかない内に海や川の中へと入っているということも、だんだんと失くなっていった。悪夢は毎晩見続けるが睡眠は取れているし、死にたいと常日頃思いながらもそれは心の中でだけで、表面上は普通の人と変わらなく過ごせるようになっていた。あるいは、こういうのを摩耗した、というのかもしれない。狂い続けるのは疲れるのだ。ましていくら死にたくてもどうせ死ねないのだから、これらの行動はすべて無駄だ。月日とともに、穏やかに感情は死んでいった。

今も魚は食べられない。人魚なんてもってのほかだ。見たくもない、きっと吐くに決まっている。それは、彼女を否応なく思い出させるからか、彼女への途方も無い罪悪感からなのか、それとも人魚を食べる事自体に拒否感を覚えてしまったのか。理由ははっきりとは分からない。ただ食べたくないので食べていない。そしてその感情がきちんと発露していることに安心感を覚える自分を嫌悪する日々だ。

彼女は今、天国にいるのだろうか。天国にいて、彼女の家族たちと僕を眺めて嗤ってくれているだろうか。そうだろうなと思う。そうであってほしいなと思う。彼女がそう願ったのだから、そうであるべきだ。

僕はきっと天国へは行けない。行きたいとも思わない。だから彼女との再会は未来永劫叶わないし、自分は死後も永久に救われない。その事実を宣告のように噛み締めて生きている。

このまま彼女以外のことに感情が揺さぶられることなく、幸せになることも不幸になることもなく、透明な泡のように死ねたらいいと思っている。それだけが今の僕の望みだった。

絶望も失望も渇望も慟哭も歓喜も傾倒も祈りも願いももはや必要はなかった。

これ以上のなにかはいらない。きっと耐えきれなくて死んでしまう。

それが幸福でも、不幸でも。



ただ、もし初めて出会ったあの日に戻れたら。

その時は、あのまま彼女を殺して海に還してやるのにと思う。

それが一番の正解だった。この物語で取れる最善の、綺麗な結末だった。

美しいものは、出会ったその瞬間に終わらせてしまうべきだったのだ。

そうしていれば、生きたまま地獄に落ちる羽目になんて合わなかっただろう。彼女も僕も。




それでも今も、朝焼けに照らされた血塗れの人魚の姿と、彼女を刺した瞬間の花のような笑みが脳に刻まれて少しも色褪せていない自分のことを、このうえなく愚かだと思う。

救えない、愛や恋の御伽噺にも成り損なった、僕の昔話だ。

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食魚の罪 閏月 @uruuduki

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