食魚の罪

閏月かむり

前篇

魚は苦手だ。

特に、寿司や刺し身などといった生の魚は。

嫌いなわけじゃない。別に食べれないわけでもない。

けれど、食卓に並べると否応なく罪悪感が湧き上がってくる。

何かいけないことをしているみたいで。



+++



ねえどうしてあなたは魚を食べないの、と彼女は言った。

「・・・それ、おまえが聞くのか」

「だって食べてるの見たことがなかったもの。5年も一緒にいるのに。私だから言うのよ。____________もし私のせいなら、ひどいでしょう?」

すぐにそう返してきた彼女に、少しだけ黙り込んでしまう。

「おまえのせいじゃない。おまえの“せい”なんてことは、ひとつもない」

「そうかしら。ぜんぶ、私のせいな気もするわ。・・・ぜんぶ」

ぱしゃん、と水音が鳴る。

いっそ明るい様子で自虐_____本人にとってはただの事実だろうが_____をする彼女に、はあ、と溜息をつく。

「ちがう」

「なら、どうして食べないの?」

キッチンとバスルームにワンルームがついただけの狭い部屋に、備え付けられた大きな水槽。人一人が入れるほどの水に肩まで浸かったまま、彼女は聞いた。

「食べてもいいのよ、べつに。人魚と魚はちがうもの」

「大した意味はない。もともとそんなに好きじゃなかった」

「ほんとうに?」

「嘘じゃない」

嘘ではなかった。本当に。魚は好きではないのだ。それを彼女のせいなどとは、思ったことはなかった。

「魚と人魚は、違うんだろう?なら、おまえは関係ないよ」

彼女は一瞬、目を見開いて。

それから、泣きそうな寸前の瞳で微笑った。






人魚。

今世界では絶滅の危機に瀕しているという種族。希少種の亜人種とされている。絶滅間近とされている理由は、人間による乱獲だ。

人魚の肉は美味であり健康・美容にも良く、おまけに病気や障害にも劇的な治療効果を及ぼすのだという。他の動物と比べて食べられる糧も多いので、昔から人間は人魚をよく食べてきた。が、人口が増えるにつれ人魚と人間の数量バランスが崩れ、人魚種の数が圧倒的に減少していく事態になった。

これはまずいと慌てた偉い人たちは人魚乱獲禁止令をだしたが時既に遅く。今まで好きに人魚を取って食していた人たちがそんな命令を馬鹿正直に聞いてこんな魅力的な食材を食べないわけはないし、もうその頃には人魚種は取り返しがつかないほど衰退していた。今現在、世界に存在している人魚は数百にも及ばず、絶滅は間近だとされている。

そんな超希少な人魚のひとりが、僕の部屋にいる。

もう5年以上一緒に生活している。

どういう経緯でこんな生活をしているのかというと、海辺で怪我を負った彼女を見つけて家に連れ帰ったのが始まりだった。

なんて間抜けな人魚なんだ。

夜明け前の海辺、砂浜に倒れて気を失っている彼女を見て、そう思ったものだ。

今のこのご時世、迂闊に人に姿を見せれば捕らえられるに決まっているだろうに。十数年前まであたりまえのように食卓に並んでいた人魚が超高級食材となった今の時代、人魚となれば目の色を変えて食らいつく人間が山ほどいる。なにせ、人魚は万能の食材なのだから。

それなのに、やすやすと怪我をして海辺で倒れているなんて。次に目を開けたとき包丁が迫っていても、文句は言えない。

「だったらどうして、あなたは私を助けたの」

いつか彼女に聞かれた言葉。

「元気になったら食べようと思ってた」

悪びれることなく僕は堂々とそう答えた。

「あら、じゃあなぜ食べないの?」

物騒な言葉にまるで応えもせずくすくすと笑う彼女に、僕は正直に言う。

「綺麗だったから」

綺麗だったのだ。本当に。この世のなによりも。

玉虫色に輝く鱗も、優美な線で描かれたような躰も、なめらかに波打つ薄茶色の髪も、深い、深い海のような瞳も。

それから、目覚めたときに聞いた金糸雀のような声も。

なにもかもが、美しいと思った。

こんなに綺麗なものを、僕は生きてきたなかで見たことがなかった。

だから、この美の極地のような存在が、肉塊へと変わってしまうことが耐えられなかったのだ。

「それだけの理由で、こんな生活を続けているなんて。変わっているわね」

「そう悪い日々でもない」

人魚は絶滅危惧種で、高級食材だ。見つかればエライことになるので、僕らは転々としながら生活している。僕はアルバイトをしてお金を稼いでいる。苦しいが、僕は生活必需品以外はあまり買わないし、生活も切り詰めているのでなんとかやっていけてる。一度、自分の鱗を剥いでこれを使って、と彼女が差し出してきたことがあった。人魚の鱗は大変お金になる。僕はそれを受け取らなかった。

彼女をお金の道具にしたくなかったなどという殊勝な理由ではない。ただの見栄とせせこましい独占欲だ。けれど彼女は、自分から差し出したのに、僕が受け取らなかったことに安堵したように眦を下げた。難儀な奴だと思う。

とても優しくて、可哀想ないきものだ。そんなだから僕みたいなのに捕まってしまう。

「やっぱり、あなたって変わっているわ」

美しい翡翠と碧の混じった尾鰭が小さく跳ねて、ぱしゃんともう一度水音がした。

その光景を、僕はやっぱり美しいと思っていた。




いくら美味しくて栄養価が高くておまけに平癒効果があったのだとしても、自分達と同じ言語を話して思考も知性もある存在を人間はよく食べられるものだと思う。人間とは人魚以上に摩訶不思議な存在なのかもしれない。

と、そんな思考に至ったのは市場で人魚肉のバーゲンセールをやっているのを見かけたからだ。今彼女と僕が身を潜ませている町は港町で、漁港のすぐ近くだ。海に近いというそれだけで、他の地域よりも格段に人魚の肉が食べやすくなる。たまにこうして人魚肉が競りに出されているが、なにぶん数が希少なので手に入れることが出来る人は少ない。国に認可されて出荷されている人魚肉もあるが、そのほとんどは不正に手に入れられた人魚肉だ。そしてその八割が、海に打ち上げられていた死体の肉だ。ごくたまに、この地域の海には人魚の死体が流れ着くらしい。

「死体を漁ってまで食べたいだなんて、さ。意地汚いな。どうかしてる」

人魚の餌である小魚を水槽の中に入れながら、なんとはなしにそんなことを呟いた。

「そうかしら?」

小魚をつまむ指先の爪は長く伸びていて、人間にはありえない不思議な色彩をしている。

「おまえは違う意見なのか?」

滑らかな白皙の指が唇の方へと近づいていって、小魚を口に放り込む。もぐもぐと咀嚼し、飲み込んでからやがて言った。

「人間のことはよく分からないけれど、私達は海でよく魚や貝の死体を漁っていたわ」

「それは生きるためだろう?」

人間による海水汚染、魚類の乱獲。今や海は人魚だけではなく他の生物にとっても住みにくい所になっているだろう。

よくよく考えるとなんともまあ罪深い生物だと感心する。僕もそのうちのひとりだが。

「人間は違うの?生きるために、私達を食べているのではないの」

見上げてきた瞳は鱗と同じ色をしていた。右目が翠色、左目が碧色。光が揺れていて、まるで御伽噺の中にある海のようだと思う。現実に、もう美しいと言えるほどの海はない。人間たちがすべて汚してしまった。

「それは、」

思わず口ごもってしまったのは、自分の考えに自信が持てなくなっただけでなく、この会話の行き先に不安を覚えたからだ。しまったと思う。こんな話、世間話感覚で話すんじゃなかった。

此方を見つめてくる、きらきらと澄んだ眼を想う。

もし自分たちが娯楽のために狩りつくされてきたのだとしたら、この瞳は濁るのだろうか。

憎むのだろうか。怒るのだろうか。それとも、そんなものは今更だろうか。

黒味が増した眼で此方を睨んでくる彼女を想像して、まあこれもこれで悪くないんじゃないかと思いかける。次いで頭を振った。この思考はなんだか危ない気がする。

「・・・まあ、もちろん、切実な理由でおまえたちを欲する人たちもいるだろうさ。孫娘が不死の病にかかって、とか、なんとか」

実際そういう人たちはいる。自分が、もしくは身近な人間が重い病気や障害を患って人魚の肉を欲しがる人たちだ。彼らにとって人魚はドナーと同義だ。なかなか巡ってこないけれど、手に入ればぐっと生存率が高くなる魔法の薬。

「でも、娯楽のためにおまえたちを食べたがる人間だっている。珍しいから、美味しそうだから、高級食材だから、美容と健康にいいから、長生きがしたいから。いろいろさ、別に、僕達人類全員が人魚を食べないと生きていけないわけじゃない」

多くの人間は、人魚の肉なんて食べなくても生きていける。

ただ、人魚が人間にとってあまりにも魅力的な食材だったというだけだ。その昔、食べれば不老不死になるという逸話まで流れた人魚の肉は長寿効果もある。一体まるごと食べれば百五十年は健康なままで生きていけるという。

それに、口にはしなかったが、性的または嗜虐的目的のために生きた人魚を欲しいという人たちだっている。人魚の容姿は皆一様に美しいと聞く。それもおそらく原因のひとつだろう。食の娯楽という理由の方がまだまともなのだと考えて、なんて狂気的な世界なのだろうと思った。人魚族にとって、この世界は間違いなくディストピアだった。

ふーん、と声のした方へ顔を向ける。彼女はもう僕の顔を見つめてはいなかった。カーテンの隙間から差し込む陽の光を見ていた。

ふーん、とまた彼女が言う。そういうものなのね、と。

覗き込んだ彼女の瞳は、悟ったような、静寂とした秋の海の色をしていた。




あのときの僕はまるで、人魚の肉を食べる人間たちを批判するように話していたけれど、心底からそう思っていたわけではないしその資格があるわけでもなかった。

僕だって、人魚の肉を食べたことぐらいある。彼女の同族の、ひょっとしたら彼女の見知った誰かだったかもしれない人魚の肉を。

味は覚えていない。この世のどんな魚よりも美味しいと言われるそれは、確かに美味だったのだろうけど、僕にとっては苦い思い出に他ならなかったからだ。

高級食材である人魚の肉を、毎年毎年買ってきて料理していた両親を思い出す。彼らはそのためにあらゆる節約をして馬車馬のように働いていた。

両親は切実だったのだろうか。

結果として、その行為には何の意味もなかった。なくなった。

あれは、決して娯楽ではなかったのだと思う。

僕と彼らにとって、人魚の肉を食べるということは、楽しいことでもなんでもなかった。




「今日も仕事なの?」

水槽の縁に組んだ両腕を置き、その上に頭を載せながら彼女は聞いた。

「うん」

コートのボタンを掛けながら答える僕に向かって、首を傾げてみせる。

「でも、昨日も夜遅くまで働いていたわ」

「昨日は昨日、今日は今日」

最後のボタンを掛け終わってマフラーを首に巻いている僕の横で、彼女は何だかかわいい顔をして唸る。

「どうしたの」

「人間は、ずっと動いていても平気なの?」

動かしかけていた手が止まる。

「・・・いや」

「でも、あなたこの頃ずっと働いてるわ。朝から夜遅くまでずーっとずーっと」

簡易ヒーターの作り物の火が薄闇の部屋を仄かに照らす。彼女の指先から水滴が床に落ちて、染みて消えた。

「おまえは」

言いかけて、一瞬視線を斜め下に向ける。また顔を上げると、「?」というように彼女は僕を見ていた。先程の言葉の催促だろう。

「人魚は、眠らないのか」

「?・・・どうして?」

「おまえは、いつも僕が帰ってくるまで起きているから」

ぱしゃんと尾鰭が跳ねる。何がおかしいのか、笑っていた。

「昼間に寝ているのよ」

「・・・そうか」

がさごそと仕事道具を鞄に詰めてそれを肩に掛けた。玄関のドアノブを握って、ちらりと後ろを振り返る。彼女は手を振っていた。僕も振り返す。

「いってきます」

外に出て素早くドアに鍵を掛ける。まだ暗い空の下、冷たい潮風が吹いてくる。群青の空を眺めて、ほぉっと白い息を吐き出す。冬の空気は好きだった。凍てつかせて、傷ませず、汚れた空気すらも透き通っているようで。

(・・・誤魔化したの、バレただろうか)

でもこればっかりは彼女には言うまい。彼女は、自虐と自罰が無意識に得意だから。

人魚を飼うのは、お金がかかる。

一昔前から言われていることだ。海水と同じ配分の清浄な水は毎日とは言わずともこまめに変えなければならないし、成人した人魚が入る水温調節付きの水槽なんて今時そうやすやすと手に入るものじゃない。餌は適当な小魚でいいとしても、綺麗な海水を毎度毎度手に入れるのは一苦労だ。ミネラルウォーターですらお金がかかる時代なのに、費用はその比ではない。おまけに、防犯用や監視用に監視カメラや盗聴器も買っている。もっとも、人魚を買っているわりには軽すぎる防衛システムだが。

日々の生活に関することだけじゃない。いつでもこの町から出られるようにある程度はお金を貯めておかなくてはならない。バレそうになったときは夜逃げのように出ていくので、家具はそのまま置いていくことになる。明け方未明、後頭部座席に人魚の入った水槽を押し込み、最低限の荷物のみ持って車に乗り込む。そういうことを繰り返してきた。

兎にも角にもお金がいる。少なくとも、あって困るものではない。

食品加工工場のフリーターなので、給料は正社員より少ない。幸いにして、残業すればするほど給料が割増されていくホワイト企業なのでこうして日がな一日中働いていた。餌は帰ってきてからと早朝出る前にやる。水槽の掃除も同時刻に。もし昼間彼女のお腹が空いてもいいように水槽の近くに小テーブルを置き、その上に餌を置いておいた。水槽から体すべてを出せないわけではない。というか、いつも普通に腕やら顔やら水槽から出している。彼女の手が届く位置に配置し、小皿の上に干した小魚を並べた。

人魚の世話諸々が終わってから自分の食事と風呂に取り組む。当然、眠る時にはとっくに日付を越している。朝も早い。睡眠時間は3時間以下だ。おまけに寝付きが悪く、一晩中寝れないこともある。

時々、何をしているんだろうと自分でも思う。何がしたいんだろう僕は。誰に頼まれたわけでもないのに、態々自分から苦労をしにいっている。けれどだからもうやめよう、という気持ちにはならなかった。あの人魚を政府に知らせれば報酬金なり何なりで楽に大金が入るのだろうと知っていてもだ。もとより、金にも贅沢にもあまり興味はない。他にやりたいことはなかった。やるべきことも、また。

ただ、あの美しいものが死体になって、肉塊になって、貪られるのは許容できそうもなかった。美とは凶器だと思う。あの小さく歌声を口遊む澄んだ声が悲鳴や嗚咽へと変わってしまうのも絶対に聞きたくなくて、想像するのも嫌で、だからこうして隠れ住み続けるしかなかった。ずっとこれが続いていくのも悪くはないんじゃないかと考えて、救えないなぁ我ながらなんて思った。人魚とは恐ろしい生き物だと思う。人を容易く狂わせる。それとも、自分こそが異常なのか。先日耳にした人魚の死肉のセールとの呼び声とそれに喜んでいた人々を思い出し、そんな気もしてきた。

願わくば、「いってきます」と言ったときの自分の表情に、不格好な作り笑いが刻まれていませんように。そしてそこに漂う寂寞に彼女が気づきませんように。




紫に染まり始めた空の端を視界に入れながら、らしくもなく祈った。





その朝、僕はあの穏やかでなんの生産性もないふたりだけの空間が、これからも続くのだと思っていた。



勢いよくドアを開けて部屋の中へと入り込む。がちゃんと閉まった扉の鍵を、息を整えながら掛けた。水槽の近くへ歩いていくと、彼女は眼を見開いて僕の方を見ていた。いつもより帰りが早いからだろう。宵時の空、月がまだ白い時間だ。

「どうしたの?仕事、今日はもう終わりなの?」

鞄を床に下ろす。僕はコートも脱がないまま彼女を見つめて口早に言った。

「違う。・・・今夜、この町から出ていく。支度をするぞ」

そう言って引き出しから必要最低限の物を取り出し、手早くまとめはじめる。手は作業をしていても思考はすぐ今日の午後のことへ飛んでいってしまう。

缶詰をダンボールに詰めているとき、話し声が聞こえた。他の従業員たちの雑談だ。普段ならとりとめもないものばかりで、態々気にかける必要もない会話。だが、今日ばかりは様子が違った。

「なあ、さっき研究所の連中が市場に来てたんだよ」

ピクリと、指先が小刻みに跳ねる。

「え?政府直属のやつ?マジで?」

「マジ。だから皆大慌てでさあ。ま、幸か不幸か今日は人魚肉誰も売ってなかったから良かったけどな」

「やっぱりバレたのか?人魚肉の不正売買。だから調査に」

「いんや。どうやら違うらしい。なんでも、女の人魚を探しているんだってさ。しかも生きてる可能性が高いらしい」

「いやーないだろ。この町だぜ?人魚とあらば死肉でも貪り食うこの町だぜ?生きてる人魚なんて見かけたら皆フォークとナイフ持って涎垂らしながら一目散に駆けてくぞ。ぜってーいないって。生きてる人魚いないかって、毎朝毎朝漁師らが目ぇ凝らして海眺めてんのに」

「だよなぁ。研究所、探す場所間違ってるよな」

「それか、よっぽどの変わり者の側にいるかだな」

「いると思ってんのか?」

「全然」

二人組の男たちは、和気藹々と喋りながら通路を歩いていった。

誰にも怪しまれないように、なんてことない顔をして作業を続けていたが心臓はバクバクと荒ぶっていた。だって、早い。早すぎる。この町にはまだ半年も住んでいない。前回は十ヶ月ほどもった。前々回は一年半。なんだか、どんどん間隔が狭まっている気がする。

まだバレてはいない。だがこの分だとおそかれはやかれいずれは見つかるだろう。清浄な海水を態々買う理由なんて、そう多くはない。もし買い物履歴でも調べられたら暗に人魚を飼っていることが分かってしまう。そうなったらおしまいだ。今日中に出ていかなくてはならない。

三時間後、僕は体調が悪いから早めに上がらせて欲しいという旨を工場長に伝えた。一向に休もうとせず連勤を続ける僕をひそかに気に揉んでいたのだろう、工場長は快くその言葉を聞き入れてくれた。体調には気をつけて、あんまり酷いようだったら明日は休んでいいから。そんなことを言って今日の分の給料を手渡してくれる。面接時、給金は日払いでとお願いしたことを叶えてもらっていたのだ。茶封筒を受け取りありがとうございますと頭を下げながら、すいません、明日からはもう来ないんですと心の中で呟いた。

帰り道、ふと急ぎ足を止めて茶封筒を覗いてみると、早退したというのに通常と同じ金額が入っていた。まるっこい工場長の顔を思い出す。人がいいと評判の彼は、人魚を少しでも多くの人に食べてもらいたいと、人魚の死肉を缶詰にして売っている。まあ、そういうものだろう。そんなものだ、人間なんて。その中にあるのが何かを知りながら缶詰を詰める僕も含めて。

ふう、と息を吐き茶封筒を鞄の中に仕舞い込み、また家まで走り出した。


「ねえ」

その声で頭の中で映写されていた回想が止まり、ついでに手の動きも止まった。

「どうした」

「みつかってしまったの?」

「まだだ。でも、このまま此処にいたらいずれ見つかる。だから出ていくんだ」

その答えに、彼女は眼を細めて斜め下を見る。何故かせつなそうな表情だった。翡翠と碧が混じったような色合いの鱗が点々と浮かぶ、白皙の腕を皿の上の小魚に伸ばし、口に放り込まずに此方へと投げ渡してきた。慌ててキャッチする。片方の容易に手に収まるくらいの小さな魚だ。戸惑って彼女の方を見ると、微笑みながら人差し指で自身の口許をとんとんと叩く。食べろということだろうか。干してあるものなので人間にも一応は食べることができる。味付けは何もしていないので美味しくはないだろうが。また彼女をみつめると、にっこりと笑っていた。仕方がないので口の中に入れる。これ以上なく魚の味がした。

「・・・やっぱり、食べることはできるのね」

一瞬、何の話か分からず本気で困惑の眼差しを向けた。数秒後に、それが随分前の会話の続きだと気づいた。なぜ魚を食べようとしないのか。そんな愚かしい会話をした。だがそれが今にどう関係があるというのか。頬杖をつきながら物憂げに瞼を下ろして、彼女は言った。

「ほんとうはね。気づいていたの。元気になったら食べようと思っていたって、うそでしょう?」

息が止まった気がした。秒針の音が、何故か刻まれるように鋭く耳に響く。

「・・・なぜ」

「あなたは、魚を食べようとしないもの」

そんな言葉なんの証拠にもならないと、言えたなら良かった。魚を食べないことと人魚を食べないことはまったくの別問題だと言えなかったのは、咄嗟に嘘がつけるほど己が器用ではなかったせいだ。そしてそれが嘘だと自覚していたせいだ。魚と人魚は違うのだと、食べる上でそれは違うのだと、心から信じきっていなかったことをもうずっと前から知られていたのだと悟ってしまった。左右で色彩の違う海の両目が僕の眼窩を射抜く。透き通っていて、なんでも見えているようだった。なにもかも見透かしているようだった。

彼女と出会う前から、僕は魚が苦手だった。嫌いではない。食べることもできる。でも、一口食べるたびに罪悪感と嫌悪感と諦観が入り混じった何かが、心に降り積もっていくのだ。食べるたびに苦しくなるそれを、好き好んで食べたくはなかった。人魚も同じだ。・・・いいや、違う。人魚こそが苦手だった。人魚を食べたくなかったから、人魚に似ている魚も食べたくなくなった。でも人魚を拒むことは出来なかった。本当に嫌だったけれど、昔は、それでも食べなければならなかった。それが自分に与えられた義務だった。人魚を食べない代わりに、魚を食べなくなった。何の意味もない代替行為。愚かしかった。人魚を食べるのが嫌だなんて言ったら、世界中に嘲笑われてしまうだろう。誰にも僕の気持ちは理解されない。それでももう、食べる必要はなくなった。魚も人魚も、食べなくてもよくなった。

今は前より楽だった。今は前より幸せなのかどうかは知らない。

「あなただって、気づいていたんでしょう?私の、ほんとうのこと。私が、ただの人魚の生き残りではないこと」

「・・・」

ぱしゃんと尾鰭が水音を立てる。完璧な形を描き、完璧な海の色を配したそれはこの世のものとは思えないほど美しい。僕は黙り込んだまま、空中に小さく跳ねた水滴を見つめた。

気づいていた。本当はもう、とっくの昔に。けれど態々口にすることはなかった。彼女も僕も。どんなに分かりやすい秘密が横たわっていても、どんなに静かな夜のふたりきりでも、その言葉を言い出すことはなかった。透明で薄いその隔たりを崩そうとはしなかった。たぶん、怯えていたのだ。僕らは互いに臆病だった。臆病なくせに、夢想家だった。いつまでも曖昧な夢に浸っていたかった。これが続くと信じていたかった。

なのに、その透明な膜を彼女は今破ろうとしている。なにか取り返しのつかないことを話そうとしている。何かが終わる予感がした。終わってしまう予感がした。この浅瀬に見る淡い夢のような日々が。

止めたいのに、制止の言葉は喉から出てこなかった。それは無駄だと知ってしまっていたからかもしれない。

いくら人魚が高級食材で、絶滅危惧種でも。たまたま岸辺に流れ着いた生き残りの人魚を政府が把握している筈がない。彼女がこれまでずっと海の中にいたのなら、僕以外誰も彼女を知らない筈なのだから。本当は、こんなに短期間に町を放浪する必要なんてなかったのだ。町の人々に、僕の部屋に人魚がいると感づかれそうになったら逃げる。それだけでよかった筈だった。通常なら。だが現実には、僕達は政府直属の国家研究所に追われている。いつもそうだった。近隣の人々に知られるより早く、研究所が潜んでいる街に来て、見つかる前に急いで逃げ出す。だんだん近づいてきていることに気づいていた。だんだん、逃げることが難しくなっていることも。都市部はもうダメだ。もっと田舎へ逃げるしかない。

研究所が、僕達を追っている。それはつまり、研究所が彼女を知っているということだ。

それはつまり________________

「私ね、研究所から抜け出してきたのよ」

そうして彼女は、その決定的な言葉を言ってしまった。

「私は子供の時捕まえられて、海の底から連れて来られたの。それから色々実験されたわ。痛かったのもあったし、苦しかったのもあった。私は円柱の水槽に入れられて、そこでぷかぷかと浮いていたの。0034と呼ばれていた。なにをしていたのか、よく覚えていないの。眠っているようだった。もう、なんだかどうでもよくなって。ととさまは私達を守るために人間に貫かれて死んだわ。兄妹は一緒に研究所に連れて行かれたけれど、きっともう生きてはいないでしょうね。私が唯一の成功体だと彼らは言っていたから。・・・考えるのも、嫌になって。疲れてしまったの。諦めている方がずっと楽だった」

寂しげな笑みを浮かべる。

「ある日、地面が大きく揺れてね。地震と言っていたわ。真っ暗になって、水槽が割れて、苦しくて、水のあるところを這って探して、見つけたと思ったらあっというまに流されてしまったの。狭くて、色々なものにぶつかって、傷だらけになって、気づいたら知らない海に浮かんでいた。___そうして、あなたに見つかったの」

あまりにも凄絶な人生を、あまりにも儚い笑みを浮かべて話すものだから、酷く残酷な気持ちになった。この世界は人間にとってのユートピアで、人魚にとってのディストピア。そんなこと、今更すぎるほど知っているのに。

「おまえは、人間が憎いか?」

「にくいわ」

「恨んでいる?」

「ええ」

「怒っている?」

「ええ」

考えれば簡単に分かる筈のことなのに、どうして今初めて気づいたというような感慨を抱いてしまうんだろう。

「地獄に堕ちてしまえばいいとずっと思っていたわ。なんて醜い生き物かしらと思っているわ。人間なんてきらいよ」

憎悪を語るには、その表情は似つかないほど澄んでいた。それとも、人魚はとびきり綺麗な顔をして誰かへの悪意を綴るのだろうか。

「意外だ」

「そう?」

「・・・うん。おまえはいつも、しょうがないというように語っているから」

「理解は出来るわ。でも納得とは別よ」

まっすぐな正論に、思わず笑みが溢れた。

「そうだな」

当たり前のことだ。でもどうして、こんなに安堵してしまうんだろう。その言葉を彼女が言ったことが、嬉しかった。そうずっと思っていてくれたことが、途方もなく。何かが許される気がした。もちろん錯覚だ。

「なあ、だったら僕のことも憎いか?僕は少し前まで、毎年、人魚を食べていたんだ。もしかしたら、食べた人魚は、おまえの知り合いだったのかもしれない。友達だったのかもしれない。家族だったのかもしれない。僕が憎いか」

「・・・それは、あなたにとって必要なことだった?切実なことだった?」

「・・・いいや。僕には、必要なかったよ」

意味もなかった。以前は確かにあったはずなのだけれど、もうそれは失われてしまった。

「にくいわ」

彼女は星みたいにきらきらと笑いながら言った。今までで一番、美しい笑みだった。

「きらいよ、必要もないのに私達を殺して、食べるひとたち全員」

その言葉に傷つく余地はなかった。むしろ清々しかった。理由は、よく分からないけれど。

「・・・でも、あなただってきっと、私達のこと好きじゃなかったんでしょうね。食べても食べても楽しくなくて、だから食べなくなったんでしょう?知っているもの。あなた、最初に私を見つけたとき泣きそうだったの。嬉しいなんて気持ち、どこにも見つからなかった。どうしてでしょうね。嫌々ながら食べられていたなんて、これ以上ない侮辱のはずなのに。私の同族は、嫌々ながら食べるあなたのために死んでいたのに。____あなたの“食べたくない”が、嬉しかったの」

脆い微笑に、息が詰まった。きっと、酷い話をしている。最初から最後まで、これは酷い話だったのだ。彼女の人生のように。あるいは僕の人生にも似て。

「______どうして、かしら。にくかったのに、うらんでいたのに。いつのまにか、絆されてしまったわ。だって、あなた、とびきり変わっているんですもの。まるで人間じゃないみたい」

呼吸が苦しい。鼓動が煩い。どうか、その先を、言わないでほしいと思った。黙ってくれていたら、このまま夜逃げの準備ができるのに。この先、彼女にとってどこまでも都合のいい存在でいられるのに。

「ねえ、もうやめましょう。無意味だもの」

だというのに、こんなに祈っているのに、彼女はいとも簡単にその残酷な言葉を吐いた。

「どう、して」

「分かっているでしょう、いずれいつかは捕まるわ。絶対に逃げられない。私の体は、他の人魚よりもずば抜けて長寿効果が高い。見逃される筈がないの。終わりにしましょう」

分かっている。政府相手にいつまでも逃げられる筈がない。国家機関として人魚を研究してきた組織の、唯一の成功体。それが彼女だ。いつかは諦めてくれるなんて到底思えなかった。ましてやこちらはなんの後ろ盾も財産もない一市民。見つかってしまえば、抵抗は何の意味もなさず徒労に終わるだろう。そして見つかるのは、時間の問題だった。

でも、だからって、無意味だからって、ここで辞める理由にはならない筈だ。いずれいつかは捕まるのだとしても、その“いずれいつか”までは逃げることが出来るのだ。逃げれるだけ逃げるつもりだった。行けるだけ行くつもりだった。その分だけ、何かが救われると本気で信じていた。

「・・・いやだ」

「あら、」

「逃げよう、僕がどこまででも連れて行くから。捕まえられるまで逃げよう。・・・だから、頼むから、そんなことは言わないでくれ」

____終わりにしようなんて、言わないでくれ。

「そんなのはだめよ。あなたが殺されてしまうわ」

「そんなの、」

そんなの全然構わなかった。逃げ続けた先の末路が獄中だろうと死体だろうとどうでもよかった。もとより彼女がいなくなった先の未来のことなんて、はなから考えていない。

「利用すればいい。おまえの同族を、好きでもないくせに食べていた男だ。おまえが逃げ続けるために利用してしまえ。僕のことなんて」

吐き捨てるように言えば、彼女は泣きだしそうに顔を歪めて、笑った。悲しいのに、無理やり笑おうとしているみたいに。

「むりよ。・・・だって、もう、思ってしまったの。なぜでしょうね。_____どうして、・・・あなたが、一度も人魚を食べていなかったら、きっととても素敵なおはなしだったのに。______あなたのためなら、死んでもいいと思ってしまったのよ」

なんの喜劇だと思った。腰がずるりと崩れる。触れる床は冷たく、でもそんなことは気にならなかった。

あぁ、きっと、彼女はこの世界でいちばんむごい生き方をしているのだ。そうでなければ納得がつかない。神様からそうであれと望まれた愚者なのだ。でなければこんなにも美しい顔をした悲劇があるものか。

「・・・すこし、優しくされたくらいで、」

声が掠れていた。胸の奥から激情が溢れ出す。それは今此処にある現実から逃避したいがためのエネルギーから生まれたものだ。心はやるせなさで満ちていた。

「っ、少し、助けられたくらいでっ、簡単にそんなことを言うな!・・・言うなよ・・・」

あんまりだった。そうじゃないだろう。おまえに降りかかった悲劇は、こんなことで宥められるものじゃないだろう。ずっと憎んでいるべきだ。ずっと恨んでいるべきだ。ずっと怒っているべきだ。そうして、狂った僕を利用していればよかったんだ。それが最もよかったはずなのに。それなのに、こんなところで、同族を食べていた男のために死んでもいいと言う。巫山戯ないでほしかった。そんな自己犠牲心なんて、発揮しないでほしい。人魚というのは皆こうなのか?だとすればなんて滑稽な一族だ。彼女特有のものならば、笑い話にもならなかった。

僕なんかよりもずっと傷と苦痛で溢れている生を送ってきたくせに、此方を悼ましそうに見つめるその瞳を塞いでしまいたかった。いっそ目玉を抉り出して、口を縫い付けてしまえば問答無用で此処から連れて逃げ出せるだろうか。

「・・・だったら、」

囁くような声がした。ともすれば空気に溶けて消えてしまいそうな。口許には仄かな笑みが浮かんでいた。

「だったらどうして、あなたは私をたすけてくれたの?」

二度目の問だった。そしてもう、嘘を吐くことは許されない。

「それ、は」

喉がからからと乾く。“食べようと思っていた”のは嘘だった。“綺麗だったから”は本当だ。でもあのとき語らなかった真実は、目を背けたいほど救いがなかった。血塗れの人魚を家に連れて帰るに至る心境も感情も、否定してしまいたいほど疎ましく、僕の目には醜く映る。

彼女にはきっと、痛烈だ。

だけど言わなければならなかった。彼女が『ほんとうのこと』を僕に差し出したなら、僕も彼女にそれを捧げなければならなかった。そして、もうこの機会を最後に、このことを言える日は来ない気がした。無意識に浮かんだ不吉な予感に、背筋が寒くなる。

「それは、」

思い出す。あの日は朝焼けが綺麗だった。白い雲と青い空と紺碧の海の向こうに輝かしい陽の光があった。ふらふらと近場の海まで散歩してきて、靴が濡れるのも構わずじゃぶじゃぶと波際を歩いて、波の花が打ちかかっている、“それ”を見つけた。

「おまえが、」

側まで歩いていくとどこもかしこも傷だらけで、血塗れだった。最初は死体かと思った。珍しいとも思った。それ以外は特になんの感慨も浮かばなかった。

彼女が微かに瞼を開けて、小さくきゅい、と鳴くまでは。

橙の陽光に照らされて鱗がきらきらと光っていた。見たこともない碧で彩られていて、どうしてこんなに血だらけなのに美しいんだろうと疑問に思った。きっともう、その時に僕はおかしくなってしまっていたのだ。

そのときに湧き上がった情動を、誰にも理解は出来るまい。苦しくて、熱くて、泣いてしまいそうになった。今もまだ、ぐるぐると渦巻いて身体の奥底にある。ずっとある。

「_______おまえが、羨ましかったから・・・っ」

嗚呼、こんなにも最低な理由が、他にあるだろうか。

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