第16話 ハート

 ティーカップから、ふんわりと湯気が立つ。


 そっと口元に添えて傾ける。


 甘く温かなココアを飲むと、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。


「ふぅ……」


 ソファーに腰を掛けながら、ため息をこぼしてしまう。


 アイドルの道は自分が好きで選んだこと。


 だから、これくらいの苦労は何てことはない。


 それでも、やはりドキッとしてしまった。


 彼との情事が、バレてしまったのかと思って。


 いや、情事だなんて、そんな……


「…………」


 おもむろに、スマホを手に取る。


 なぜだろう?


 週刊誌の記者が訪れた時よりも、ドキドキする。


 けど、ベクトルは全く逆だ。


 あちらはマイナス方面だけど。


 こちらは激しく……


『奏太くん、こんばんは。今度の握手会、来てくれるかな?』


 たった、それだけのメッセージを送信するのに、だいぶ手間取った。


 いや、たったそれだけ、ということはないのかもしれない。


 そもそも、アイドルといちファンがそんなやりとりをすること自体、あり得ないから。


 そう、自分はいま、タブーを犯している。


 本来なら、すぐにでもやめるべき。


 今度は本当に、週刊誌にスキャンダルとして報じられてしまうかもしれないし。


 けれども、どうしたってもう……


「……返事が来ない」


 今までは、すぐに返事が来たのに。


 かれこれもう、3時間くらい返信がない。


「バイトが忙しいのかな……?」


 ……って、何よ、これ。


 すごく重い女じゃない。


 すごく重い、カノ……


「……ふすぅ~!」


 いけない、いけない。


 ダメダメダメ。


 胸の内だって、そんな冗談みたいなこと、言ってはいけない。


 本格的に、頭が混乱し、心臓が破裂してしまう。


「落ち着くのよ、私」


 夢叶は形の良いDサイズの胸に手を置き、すぅ~と呼吸を整える。


「……よし」


 ピロン♪


「ひゃんっ!?」


 何と言うタイミング。


 意地の悪いどっかの小悪魔さんみたいだ。


 夢叶はおそるおそる、スマホの画面を覗き込む。


 そこには、求めていた、けれども逃げたくなってしまうような。


 彼の名前が表示されていた。


 また、心臓の鼓動が早くなる。


 何度も、何度も、深呼吸を繰り返して。


 ようやく、メッセージの内容を確認する。


『夢叶ちゃん、こんばんは。今度の握手会は、参加する予定です』


 そっか、来てくれるんだ。


 自然と、口元が綻ぶ。


 沸き立っていた気持ちが、ゆっくりと優しく、落ち着いて行く。


『分かった。じゃあ、待っているね』


 そうメッセを送ると、スマホを胸に抱えたまま、ソファーに横になる。


 あっ、しまった。


 おやすみなさいって、言っていない。


 でも、また返事が来ていないし……忙しいのかも。


「……お休み、奏太くん」


 この時、うっかりスマホにキスをしそうになったのは内緒だ。




      ◇




 握手会なんて、今まで気負うことはなかった。


 どうせ、自分は他のみんなみたいに、感じの良い対応ができない。


 一応、努力はしてみるけど、それでも難しいから。


 結局、今日も夢叶は塩対応だったって、ネットで言われ、叩かれる。


 けれども、今日ばかりは……


「……おやおやぁ~、ゆめっちさん? 今日は随分と、念入りにメイクチェックをされているんですね~?」


 嫌味ったらしく言うのは、決まってこの女。


「……あら、心。ごめんなさい、使いたいの?」


「いや、別に。他のスペースも空いているし」


「そう。だったら、私に構っていないで、自分のことに集中しなさい」


 ふっ、言ってやった。


 いつもは、この女の言動にいちいちイラついていたけど。


 今はとても気持ちが落ち着いている。


 けれども、その奥底ではふつふつと静かに沸き立つ感情があった。


「……ウケんだけど」


「えっ?」


「ううん、何でもないっぷよ~?」


 またウザったらしい調子で、心は去って行く。


 夢叶は眉をひそめて彼女を睨みつつも、再び鏡に映る自分を見つめた。


 決して、ナルシストではない……はず。


 ただ、今日ばかりは念じたい。


 私、誰よりも、可愛いよね?




      ◇




「今日は来てくれてありがとう」


「えっ? あ、はいっ」


 握手をしたファンが驚いたようにその場を後にする。


「おいおい、今日の夢叶、何か対応が良くないか?」


「え~、おれあの塩な感じがすこなのに~」


「いや、このレアケースはしっかりと味わっておくべきですぞ」


 オタクどもが好き勝手に言ってくれている。


 でも、決して悪くない気分だ。


「夢叶、今日なんだか調子よさそうね」


「ていうか、機嫌が良い? どうしたんだろうな」


 背後でスタッフも囁いている。


 だが、そんな周りの声は、正直どうでも良い。


 この人の波の中に、どうしたって彼のことを探してしまう。


 ダメダメ、差別、いや区別をするなんて。


 ファンはみな平等、だって自分はアイドルなのだから。


 でも、それでも――


「きゃーん! 約束通り、来てくれたんだねぇ~♪」


 また、あの女のあざとく耳障りな声が聞こえて来る。


 けど、今はそれさえもそよ風のごとく。


 ただ、ムカつく女だけど、アイドルとしての姿勢は自分よりもちゃんとしている。


 主に、ファン対応は。


 だから、少しくらい見て、勉強してあげても良いかもしれない……


「……えっ?」


 一瞬、意味が分からなかった。


 だって、ずっと心待ちにしていた彼が……


「かーなたん♡」


 この瞬間、自分の世界がガラスのように砕け散った。




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