路上で女とキスをしたことが何回あるかということを記憶していないけれど、揉めたのは一週間ほど前の、あの一度だけだ。打ち合わせのあと飲み会があり、その席で会った女性に二人で飲み直しませんかと誘われた。


 バーに入り、酔ったらしい女は店を出ると足を縺れさせておれの二の腕に擦り寄った。介抱とかしたほうがいいのか、と思っていると、「わたし、上里さんのこと、ずっと好きだったんですよお」と呂律のまわらないままに言われて「ありがとう」と返した。すると、ぐいと腕を引っぱられて進行方向を逸らされた。


 路地に入ると、耐えきれないというように、女が唇を押しつけてきた。一度離して、女は笑った。そしてふたたび唇を重ねられた。向こうからきたから、こちらも返した。そういうものなのだと思っていた。口づけを深くすると、身体が熱を持った。「上里さん、熱いです」と女が言うから、これはどっちの身体の熱なんだろうかと思った。


「ホテル、いきますか?」


 とろりと理性の砕けたような瞳が、暗がりから問いかけた。いいよ、と答えると、背伸びをした女の唇がまた被さった。足りない、我慢ができないというように口内を舐めとられるので、応じた。応じていると、視界の端が、雷が落ちたかのようにぱっと真っ白に染まり、純、と遠くから泣き喚くような大きな声がした。


 唇を離してふり向くと、ごん、とすぐそばで鈍い音がした。路地の暗がりが、懐中電灯みたいなもので照らしだされた。その光のおかげで視界が鮮明になる。ふり向いた先に、美智香が立っていた。おれの腕の中にいた女は、いつのまにか気を失っていた。なにが起きたのかわからず、視線をさまよわせると、足許にハイヒールが落ちていた。


 こちらに歩み寄ってきた美智香は、おれと引き剥がすように、とんでもない力で女の腕のつけ根を引っぱった。そして、手に持っていたもう片方のハイヒールを、思いきりふり翳した。女のこめかみに、血が流れていることに気づく。数十秒前の鈍い音は、美智香が投げたヒールが女の頭にぶつかった音なのだということを、ここでようやく理解した。


 美智香は怒りで煮えたぎった目をして、片方のヒールを握りしめていた。踵の部分を突きつけて、女を殴りつける。おれはあわてて止めに入った。


「ちょ、ちょっと待って」


 身体を押さえつけると、美智香は暴れた。ヒールを力づくでその手から奪って、地面に置く。


「なんで止めるの! 裏切り者! 私と結婚したのに!! 純!!」


「だってそんなことしたら死んじゃうよ」


「じゃあ、純が死んでよ!!」


「いいよ」


 そう言ったら、美智香は魂の抜けたような呆然とした顔で、おれを見つめた。いつもうつくしくセットしている髪はぐちゃぐちゃに乱れ、メイクは崩れ、マスカラが目のまわりで墨のようににじんでいた。


「この子が死ぬのはかわいそうだ。おれならいいよ。好きにして」


 一瞬呆けた目が、またすぐ憎しみに燃えた。


「こんな女をなんで庇うの?」


「庇う? いきなり殴られて死ぬなんてかわいそうだなって、それだけだよ」


「じゃあ純が私に殴られて死ぬのは、それは純はかわいそうじゃないの?」


「美智香がそれですっきりするなら、おれは構わないよ」


「なに、それ」


 そんなことできるわけないのに、と美智香はうなだれるみたいにつぶやいた。


「私に、純を殺せるわけないのに」


 激しい怒りと、絶望が見てとれる。でも、おれは美智香がどうして怒っているのかがわからない。理由はわかるけれど、感覚として、理解ができない。その感情がおれにはない。


 まともな人間の思考が、おれは、きっと、一生できない。




 美智香が女に怪我を負わせたことは、公にはしないという約束で、治療費や慰謝料を支払い、示談になった。でも路地裏でのことから数日後、その出来事は週刊誌の一面に上がることになった。美智香が出版社に情報をリークしたのだった。


 記事を見たときおれは、あれは性的暴行だったのか、とはじめて知らされたような気持ちになった。じゃあ駄目だなあ、あれ、でも、向こうから誘われたのも暴行になんのかな。


 などと、訊ねる相手もいない。


 女も酔ってたみたいだし、もしかしたらおれが気づかなかっただけでじつは本意でなかったのかもしれない。記事になったということは美智香が出版社にそう言ったのだろうから、それならそういうことなんだろう。じゃあそれでいいかとおれは納得した。



     ◎


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