柴と一緒に、故郷から東京に出てきた。一緒にといっても、柴は高校生のときに芸能事務所にスカウトされて。おれは、「おまえが東京行くんなら行ってみよっかな」みたいな感じで適当な大学に進学して。


 柴はアルバイトをしながら芸能事務所のレッスンに通って、日々あわただしそうに過ごしていた。おれは、スカウトされたんならすぐデビューできるものなのかと思っていたけれど、はじめは候補生のようなものからスタートなのだそうだった。おれは釈然としなかったけれど、柴が己に課せられた待遇について、不満を口にしたことは一度もなかった。


 おれは、なにも予定がないときは、よく柴の部屋を訪ねた。アルバイトに勤しんでいた柴は不在にしていることのほうが多かったが、「ウエそんなに来るなら」と言って合鍵を寄こしてくれた。間違って捨てないでよ、と条件つきで。さいわい、間違って捨てるようなことも、紛失するようなこともなかった。柴のアパートは自分のマンションで過ごしているよりも居心地良く感じた。


 おれは大学で軽音サークルに入った。そこで会った何人かとバンドをやってみたら、軌道に乗った。いくつかかけ持ちして、サポートもちょくちょく引き受けた。千歳と会ったのはそのころだった。


 おれと柴が一緒にライブを見ていたとき、好きなバンドを見にはじめてライブハウスに来た千歳は、慣れない空間で体調を悪くしてその場で倒れた。突然目の前でくずおれた彼女の身体を、柴がとっさに腕を伸ばして支えた。恋愛漫画のプロローグみたいだな、と、そのときおれは人が目の前で倒れているというのにのんきなことを考えていた。


 柴と千歳は、お伽噺の王子と姫のように、どこにもつけ入る隙などないふたりであるように思った。


 そうして知り合った千歳は、柴と一緒におれの出るライブも見にくるようになった。おれの部屋で、三人で映画を観たり鍋をしたりもするようになった。ある晩——たぶん二十歳になったばかりの夜だ——おれは酔っ払って眠ってしまって、夢を見た。


 小学生ぐらいのときの夢だ。夜中に目をさましたおれは、父の部屋からおかしな声が聞こえて気になって、その寝室をこっそり覗いた。中には父親と、当時の交際相手か結婚相手だかの女性がいて、ふたりはベッドの上で、全裸で折り重なっていた。しきりに身体の位置を変え、女は悲鳴のような声を上げながら、父は息をきらして低く呻きながら身を寄せ合っていた。その表情は、いびつに歪んでいるのに、悦びに満ちていた。


 あれは、いったいおれが何歳のときの、父のパートナーだったのだろうか。


 その、顔が、ふいに欲しくなった。


 父は、たいていの物は買い与えてくれたし、頻繁に変わる父親の交際相手、あるいは結婚相手は、息子のおれのこともかわいがってくれた。


「純くんは本当にかわいいねえ」


 父が不在のとき、父親の交際相手と、ふたりで留守をすることも、たびたびあった。


「夜、いつもおとうさんとなにしてるの?」


 おれは女の人に訊ねた。女の人は困ったように笑って「なんのこと?」とごまかした。だけど折を見て何度も訊ねるうち、ついに、「純くんもしてみる?」と女は言った。してみる? なにを? わからないまま頷くと、弧を描いた紅の形が唇に落ちてきた。


「はじめてだった?」


 そしてやわらかなものが入りこんでくる。されるがままになっていると、下腹部に手が下りてきた。すずらんのような白いしなやかな手がするりと動くと、身体がはねた。


 父はおれにさまざまな物を買い与えた。それは、父なりの愛情表現、あるいは、親として果たさねばならない責務と信じているおこない、であるように思われた。でも、父の結婚相手や交際相手は、おれの親がわりにはなり得ても、それ以外にはなるはずない。


 なるはずはなかったのだろう。


 父のものであるはずの女はやがて、父ではなくおれに会いにくるようになった。父と破局するまで、それはつづいた。あらたな交際相手がやって来たら、しばしば、近しいことがくり返された。何度もくり返すうち、それは手に入れてはいけないものだったということに、おれはおぼろげに気がついた。でも、もう手遅れだった。手に入れてはいけないと思えば、決まって、余計に欲しくなった。


 中学一年生のときにできた新しい母親にも、姉にも、同じように触れた。姉とは、それを抜きにしてもわりに仲良くやっていたと思う。一緒にコンサートのDVDを観たり、姉に恋人がいるときは、デートに着ていく洋服を選ぶのにつき合ったりもした。


 あの母親も、いまは母親ではない。姉も、もう姉でもなんでもないのに、おれにとってはいつまでも姉だった。姉は元気かな、と思ったところで、おれは夢からさめた。目を開けると、部屋の中で柴と千歳がふたりでぼそぼそと話していた。小声すぎて、寝ぼけた聴覚ではほとんど聞きとれない。でも千歳の視線を見れば、それが柴への好意だと、説明されなくてもはっきりとわかった。




 柴は、こうと決めたことを曲げない。どこまでもストイックな人間だった。ダンスなんか体育でしかやったことがないと言っていたけど、やらねばならないとなると平気で何時間何十時間を練習に費やした。


「そんなにやって身体壊さないか?」


「まだ壊れてないから、大丈夫」


「いや壊れたら手遅れだから」


 柴は音楽が好きだった。そうとはっきり口にしたのを聞いたわけではなかったけれど、歌を聴けばすぐにわかった。だからこそ、おれは柴がソロではなくてグループで活動することは、少しだけ不服というか、心配だった。歌うことに心を奪われている人間が、ほかの人間と一緒に歌わされたり、ろくに歌割りを貰えなかったりするかもしれないというのはどういう気持ちなんだろうかと、しばしば考えた。別にアイドルじゃなくても、バンドのボーカルやったり、ソロでやったりすればいいのに。グループで活動するのは嫌じゃないのかと、それとなく訊ねたこともある。


「お金がいるから」


 柴はただそう言った。


 そう言われると、納得するしかない。こう言ってはなんだが、柴の家は貧乏だった。学校の制服も持ち物も、近所のだれかから譲り受けたというお下がりばかりだった。大学進学という選択肢ははじめからなく、本当なら地元で就職する予定をしていたのだ。それが、その就職活動中に柴は芸能事務所の人間からスカウトを受けた。きみなら間違いなく稼げるよ。なんて、なんだかキャバ嬢の仕事を斡旋するみたいな言葉をかけられて、柴はしばらく悩んでいたけれど賭けに出ることにしたようだった。


 大学生のおれは、バンド活動に明け暮れた。そんなことをしていたら一日のほとんどが音楽に埋め尽くされて、学業が疎かになり、二年の終わりに留年とCDのリリースが決まって、おれは大学を辞めた。近しいころ、柴がアイドルグループのひとりとして、正式にデビューすることが決まった。上京してはじめの一、二年はバイトをかけ持ちして実家に仕送りしながらレッスンもこなして、と苦労していたはずだが、グループはいまやすっかり売れて、柴はたしかな勝ち組になった。



     ◎


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