柴が本名の柴透真ではなく真柴透として活動をしているのは、極力家族に迷惑をかけたくないからだという。柴には妹と弟がいる。柴のきょうだいは、芸能人の家族ではなく平凡な家庭の人間として生きているから、それを邪魔したくないのだと柴は言った。


 名字だけで関係を暴かれることもそうないだろうが、伏せておける情報はなるべく伏せたままにしたいらしい。真柴透の存在を漂わせないために、実家にもほとんど帰っていないという。なんで? と思う。おまえの家なのに。拒否されてるわけじゃないんだから帰ればいいのに。でもおれも全然帰ってないから、人のことは言えなかった。


 マネージャーによれば、おれの実家にもマスコミの取材が向かっているらしい。そう言われれば、柴の言っていたことも、いまならちょっとだけわかるかもしれないなと思った。



「こんなことしたって、無駄ですよ」


 曲の断片を書きつけた紙片をホテルの部屋の隅にみとめたマネージャーが、呆れたように息をこぼした。


「それが楽曲としてリリースされる日は、もう来ないかもしれませんよ?」


 けれどおれにとってはリリースされるかどうかは、さして重要ではなかった。世に出るかどうかは関係なく、おれは音楽を吐きだしつづけるのだろうと、漠然とした予感があった。


 自分について、思い描けるのは音楽のことだけだ。未来は不透明で、十年後にはころりと死んでいるような気がする。過去は靄がかかっていて、憶えていないことのほうが多い。頭がよくないから、約束も人の顔も名前もすぐに忘れた。


「申し訳ないとは思わないんですか?」


 マネージャーはやつれた顔でおれに言う。もうおれのことは諦めたいのに、仕事だから投げだすこともできない。そういう疲弊したふたつの目を、隠すことなく濁らせている。


 申し訳ないなと思った。だから、会見をしたほうがいいとふたたび持ちかけられて、頷いた。


 あちこちに、数えきれない人間に迷惑をかけていることは、申し訳ないと思う。だけど、おれはたぶん何度やり直しても同じ生きかたを選んでしまう気がする。それは罪悪感の有無とは別問題で、おれは、人がなにに憤り、なにに困り、なにを望み、なにに悲しむのかが、よくわからない。おれが欲しいと思うのは、手に入らないものだけだった。申し訳ない、と思う人間の顔を思い浮かべようとして、あまりうまくいかない。顔、あるいは名前を、思い浮かべられない人間のほうが多いのだ。おれは本当に記憶力がない。でも、千歳のことは鮮明に頭に描けた。


 千歳が柴に淡い恋心をいだいたことには、すぐに気がついた。おれに近づいてくる人の中には、金品や地位に目を眩ませたような人間もいたけれど、千歳はそうしたものにはさっぱり興味がないようだった。柴のことが好きで、だから、欲しいと思った。手に入りそうにないものだから、欲しくなった。


 そう言ったら、柴は「ものなんて言うな」と怒るんだろう。あいつはいつも正しい。そうなんだよな、とおれは自嘲する。千歳はものじゃないし、おれの所有物じゃない。でもその心が、たしかに欲しくなった。


 でも、手に入った瞬間に色褪せていく。そういう自分はきっと頭のねじが足りなくて、人はそれを、どうしようもないとか色狂いだとか、愚かだとか、屑だとかっていうんだろう。ぜんぶ、そのとおりだ。頭ではわかっているのに、おれはその感覚を理解できない。普通の人のように、なにかに傷つくことさえ、できない。


 あんなに欲しかったのに、好意がおれの方向を向いた瞬間に、おれはそれを直視できなくなる。



     ◎



 いつだったか、アイドルなんて恋愛とかできないじゃんとその境遇を嘆くように言ったら、別にいい、と柴は言った。


「なんで」


「なんでも」


「好きなやつとかいないの」


「……そういうんじゃない」


「そういうんじゃない、って?」


「好きなことをして、好きなように生きてくれたらそれでいい」


「その相手が?」


 柴は頷いた。


「つまりそれはいるってことでいいの」


 柴は黙りこんだ。


「自分のものにしたいとか、思わねーの」


 つづけて問うと、「ものじゃない」と言って柴はおれを睨んだ。人間が人間に憎しみを憶えた瞬間の、鋭いまなざしを見た。ひゅっと背中が縮こまって、「そんな怒んなよ」とおれはわざと陽気に笑った。まだ、千歳とつき合う前だった。


「でもさ、ほんとに、真面目に訊いてんだよ。好きなら、相手に好きになってほしいとか、独占したいとか、そういうのないの」


「ない」


「……ふーん? いつから好きなの。おれの知ってる人?」


「ウエには言わない」


「なんでだよ」


「口が軽いから」


「ひど。いいじゃん協力するし」


「いらない」


「千歳か?」


「は? なんで千歳?」


 心底意味がわからないというように、柴は俺の顔を見た。うち明ける気がないのなら、無視すればいいのにばか正直に否定するからおかしい。そんな調子では、適当に候補をだしていけばいつか当たってしまうかもしれないのに。柴は嘘がつけない。


「じゃあさあ。柴はその人以外好きになったことはないの」


 柴は少しだけ考えたあと、ない、と小さく口にした。


「……柴ってさ」


 言いかけて、でもやめる。柴の前では、下世話なことをなんとなく口にできなかった。おれは、たとえ感覚で理解できなくても、自分の倫理観や貞操観念が狂っていることは知識としては知っていた。おれが狂っていることを柴はわかっていたのかさだかでないけれど、おれの異常をわざわざ自分から見せることもない。


 柴と恋愛の話をしたのはその夜と、千歳とつき合うことになったと報告した、そのときぐらいだった。柴に話すと、柴はわかっていたみたいに、おめでとう、と言った。めずらしく、下手なくせに笑顔を作って。それは柴なりの祝福の表現なのだとわかったから、おれも笑った。笑ったことは、その感情は柴には伝わらなかったかもしれない。それでも構わなかった。

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