6
つき合ってと言われればつき合ったし、身体をねだられればそれに応じた。性別も国籍も関係なかった。顔も名前も重要ではなくて、性器と性欲があれば身体は繋げられた。
だれと、どれだけ交接に至ったのだったかを、おれの優秀でない脳は把握していないのでとても数値にできない。憶えていない人間のほうが多かった。その中で、憶えていなかった人間のひとりから、「妊娠した」と告げられた。その女が美智香だった。
「責任とって、私と結婚して」
妊娠の責任を、どのようにとるのかおれは知らなかった。そんなんで責任がとれるのならいいかと思って、用意された紙に署名して、判子を捺した。すると、ふたりで住む場所を決めなくちゃと美智香ははりきって、身重で安静にしておいたほうがいいだろうのに、おれのかわりに揚々と不動産屋をまわった。流されるように、おれの住民票はそちらに移っていた。
もともと住んでいた、千歳と同棲をはじめたマンションのほうか、住民票に記載されている、美智香の選んだマンションのほうか。ツアーやレコーディングで家に帰れない日はたびたびあったけれど、帰れる日でも、おれはどこに帰ればいいのかよくわからなくなった。
千歳といるのは居心地が良く——そもそも、つき合う前からそうだったから、おれと柴と千歳は三人でよく集まったのだ——恋人らしいことをしなくても、わりに安心できた。身体を求められていることを感じれば、それに応えることも苦ではなかった。好きだと言われればおれもと返したし、それは嘘ではなかった。千歳のことは好きだった。でも、それは好ましい人間であるというだけで、恋愛感情ではなかった。恋愛感情のようなものが、たしかにあったはずなのに。千歳からその好意を受けとることを求めていたはずなのに、差しだされたとたんに、おれの中にあった感情がひとつ、どこかに消えてしまった。
「純、あいしてる」
抱き合ったときだけ、千歳は息を切らしながらそう言った。おれは、好きだとは言えても、愛しているとは言えなかった。
千歳は要求しなかったけど、美智香はしばしば、「純、私のこと愛してるって言ってよ」と唇を尖らせた。
「うん。美智香が教えてくれる?」
いつまでも言わないおれに美智香は怒っていたけれど、深く唇を合わせて身体を揺さぶったら、意味をなさない言葉しか吐きださなくなった。愛とは、だれもが欲しがるうつくしい言葉だった。だけど、おれはそれを手にすることができない。手に入らないと思うと欲しくなる。だから手を伸ばすのに、いざ手にしてみたら、思ったほど綺麗なものに思えなくて、手を払いたくなる。だけど遠くにあるとやっぱり綺麗に見えて、触れたくなる。永遠にそのくり返しだ。
◎
会見の前に、携帯を返してもらった。逃げたり、だれかに余計なことを言ったりしないようにと念を押されながら。でも携帯が戻ってきても、だれに連絡をとればいいのかわからなかった。ひさしぶりに手にした携帯を覗けば、自分への誹謗中傷の言葉があふれかえっている。すげー、とおれはなんだか現実味のないその現象に、笑ってしまった。
〈倫理観どうなってんの?〉ほんとそれな。〈×××切り落としてほしい〉良い案かもしれない。でも痛いだろうから怖いんだよな。〈大した才能もないくせに〉じつはおれもずっとそう思ってるんだよ、不思議だよな。〈こんなクソみたいな男にふりまわされた女も愚か〉おれがクソみたいなのは同意だけど、後半は訂正してほしい。
〈マジで人として終わってる〉〈死んで〉〈顔も見たくない〉〈CD買ってたけど全部捨てました〉泉のように無限にあふれ出てくる言葉の数々に、一個一個心の中で返事をする遊びをしていると、おそらく数日ぶりに電源の入った携帯に着信が入った。美智香だった。
「もしもし?」
通話ボタンを押すと、「私っ、別れないから」といの一番に告げられた。
「純香もまだ小さいし、この子から父親を奪えない」
きっぱりと強い口調で言ったあと、美智香はふいに言葉を詰まらせて、しんじてたのに、と声を震わせた。おれの、なにを信じてくれていたのだろう。おれにはわからなかった。でも信じていたのだと言われたら、おれは謝るしかなかった。
「信じるに値する人間じゃなくてごめん」
しばらく応答はなく、切れたかな、と携帯の画面を確認しかけたころ、そんな言葉が聞きたいんじゃない、と鋭い声がはね返ってきた。
「離婚はしないから」
「うん、美智香が別れないのがいいなら、それでいいよ?」
「だから、許すから、全部切って。浮気相手、全部」
おれは、美智香に許される。でも、許してほしいという気持ちがあまりない。それが欠陥なのだとは、わかる。
「もとから、繋がってる人はそんなにいないんだけど」
「そんなにって、なに」
「切っても、たぶん、いずれ同じことになると思う」
そう言ったら、きん、と鋭利な金属のような声が、機械を通していることで少しだけくぐもって、返ってきた。
「同じことになるって? また浮気するってこと? どうして? 意味がわからない」
どうして、と言われて、理由を考える。でもうまく説明できない。どうしてなのか、おれもわからないのだ。
「うーん、おれが、『マジで人として終わってる』からかな」
「は?」
「ごめん。ちょっと人の言葉を借りた」
電話口の向こうで、美智香は深く息をついた。
「はじめから『また浮気します』宣言って、どういうつもりなの? そこは嘘でも、わかった、って言うところでしょ? やり直す気、ないの?」
「嘘じゃ意味ないでしょ。……あとおれ、嘘つくのはそんなに得意じゃない」
「そんなこと聞いてない」
「あ、そうなの」
美智香とのやりとりにはいっこうに終わりがなく、とうとう彼女が怒り狂って大声を上げたところで、その向こうから赤子の泣き声が聞こえた。怒鳴り声をだした美智香は、とたん、はっとしたように子をあやしにいく。
「……また連絡するから」
子供が泣いたことで会話を続行できなくなり、通話はいったん終了することとなった。
電話が切れたあと、あらためてしばらく思案してみたけれど、おれは話したい相手が思い浮かばなかった。着信があったという履歴が残っていたから、千歳に電話をかけてみた。もう夜中になっていたけれど、まるで携帯を見はっていたかのように、千歳はすぐに電話に出た。
「……もしもし?」
電波を通して、千歳の声がする。
「もしもし、千歳?」
「純?」
じゅん、と千歳が呼ぶ音は、おれが知るかぎりいちばんやさしくて清潔な香りがする。千歳が清い人だからなのだと思う。
「純。だいじょうぶ、なの? いま、どこにいる?」
「大丈夫だよ。いまはホテルにいる。連絡できなくてごめん」
ややあって、千歳は、聞き逃してしまいそうなほど小さな声で、つぶやいた。
「ごめんね」
なにも悪くない彼女が謝るのは、自分が異常なせいなのだろうと思う。いまにも泣きだしてしまいそうな声を聞いていると、申し訳ないなと思った。
「ううん。——しなくていい思いをさせて、ごめん」
千歳は、最初と変わらず柴のことを好きでいれば、おれのせいで謝ることも、泣くこともなかったのだ。柴を好きなまま、柴としあわせになればよかった。だけどおれが欲しがったから。柴を好きな千歳の心を欲しがって、彼女をふり向かせようとして、近づいたから。
狂っていることは、罪だ。
だけどおれは、その罪に気づくことができない。
会見がはじまったら、まずは頭を下げるようにと言われていた。最低一分は黙って頭を下げること。たとえどんなひどいことを言われても、自分の非を認めて謝ること。下手にとり繕おうとせずに、なるべく正直に謝罪すること。口酸っぱく言われて用意された部屋に入ると、ステージ上かと勘違いしそうになるような、飽和するほどのフラッシュに晒された。
あながち間違いでもないかもしれない。ここは、今日、おれに誂えられたステージなのだった。
「このたびは、たいへん申し訳ございませんでした」
口にしながら、なにを、だれに対して謝っているのか、おれはこの瞬間になってもなお、わからない。美智香や千歳が、バンドのメンバーや事務所が、会見を通して、用意された台詞で謝罪をされて、それで納得するのかなとフラッシュの白い光の残像がよぎる頭で思う。
『ご結婚されているにもかかわらず、ほかの女性と関係をお持ちになったり、路上で女性に暴行を加えたりされたということですが』
「僕の不徳の致すところです」
『そのことについて奥様とはお話されましたか』
「奥さん……はい。話はしています」
『いまどのようなお気持ちですか』
「何人もの方を傷つけてしまったこと、たくさんの方に多大なご迷惑をおかけしたこと、本当に申し訳ありません」
『お子さんのことは考えなかったのですか』
「子供のことは……そうですね、そのときは、あまり考えていなかったのかもしれません」
『申し訳ないという気持ちはありますか』
「申し訳ないとは、ずっと思っています」
ひとつひとつ回答しながら、けれどいくら答えてもあらたな質問が湧いてきて、きりがない。そんなにおれのことを知りたいだろうか、暴いてもなんにも楽しくないだろうのに、と不思議な気持ちになる。誹謗中傷の数々が脳裏を泳いだ。死んで、と知らない声が言う。狂っているおれはいつのまにか、死んでほしいというぐらいにだれかに憎しみを向けられている。
『奥さんを愛していらっしゃいますか?』
おれが、教えてほしい。教えてほしかった。おれは美智香を愛しているのか。千歳を愛してないのか。愛せないのか。視線を這わせると、壁際にいたマネージャーがジェスチャーでなにか伝えようとしている。頷けと言われているのかもしれないし、とにかく謝れと言われているのかもしれない。
『好きなことをして、好きなように生きてくれたらそれでいい』
ふいに、柴の言葉を思いだした。柴からも連絡はきていたけれど、おれからの電話など柴には必要ないと思って、折り返さなかった。柴の人生は、この先もずっと、きっと数十年後に死ぬまで、かがやかしいものであるはずだ。そこに上里純という汚点はいらない。
おれは、いつも、目を眇めて人の顔のあるあたりを必死に見つめようとしていた、男のことを考えた。柴は自分で知らない、その、清らかな目。名前を呼んだら、柴は、おれの顔を判別できないはずなのに必ずふり向いた。
夜空みたいなその瞳に、おれは問いかけたくなる。
なあ、柴、おまえは、なんでただひとりのことを愛せんの?
目眩しの夜に咽せ返る 中山史花 @escape1224wa
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