柴とは中学一年で同じクラスになり、席替えで席が前後になってから、よく話すようになった。それ以上のきっかけは憶えていない。記憶していないぐらい、とるに足りないささいなことだったのだろう。


 成績優秀、スポーツ万能、品行方正。柴は勉強も運動もそつなくこなしたし、完成された倫理観を持っていて、おれみたいに、授業をさぼるとか校則を無視するとか、だれかれ構わず寝るとか、そういう行動とは、ずっと無縁なところにいた。


 眼鏡の奥にある切れ長の目は、怖そうだとよく評されていたけれど、よく覗いて見れば真夜中の空のように神秘的で、星の瞬きのようにやわらかく光った。でもたぶん柴は自分でそのことを知らない。柴は表情を作ることが壊滅的に下手だったから、いつもこの世のすべてが退屈だというような、冷たい顔をして見えた。


 一見無愛想で、マイナスな印象に見られることが多かった柴は、そんなことは気にもとめていないかのように、黙々と生活をまっとうした。だれもまじめにやってない掃除に文句のひとつもこぼさずにとり組み、宿題を見せてくれと頼んだら、「ウエのためにならないよ」と忠告しながらも答えを教えてくれた。人を睨んでいるような目つきの中にいる柴は、存外お人好しで、そこがかわいいところだなと思っていた。


 運動神経がいいから、どの運動部に入ってもレギュラーになれるだろうのに柴は部活には所属しなかった。おれは小学生のときクラブでやってたバスケをやろうかと思ったけど、上下関係が厳しくスパルタな空気が合わなくて一週間で辞めてしまった。そういうわけで放課後は暇だったから、おれは柴をよく自宅に招いた。きょうだいの面倒を見ないといけないとかで断られることも多かったけど、週に一、二回ぐらいは誘いに乗って、柴はうちに遊びに来た。



 おれの家にはよく知らない女が出入りし、母親はたびたび変わった。中学一年の夏ぐらいに父親が何度目かわからない再婚をして、新しい母親と義理の姉ができた。新しい母親は料理とお菓子作りが趣味で、よくおれや柴に作ったクッキーやケーキを食べさせた。おれは何度も食べるうちにその甘い味にすっかり飽きてしまったけど、柴はいつ、何度食べても「おいしいです」と味の感想と感謝の言葉を忘れず述べた。甘たるい焼菓子を、どれだけ蓄積させても柴の身体はいつでも痩せていた。


 頻繁に変わる父親の交際相手、あるいは結婚相手は、たいてい、息子のおれのこともかわいがってくれていた。父親も、欲しいとねだった物はほとんど躊躇せずおれに買い与えた。手に入らないものはなかった。


 音楽を聴くようになったのは、姉の——姉の交際相手が姉に教えたバンドの——影響だった。テレビは大きいのが何台かあったけれど幼少期を過ぎればゲームをする以外ではあまり点けなくなったし、おれは学校の音楽の授業で習う音楽しか知らなかった。触れたことのない音楽は、おれも知らない、おれの内がわにあった扉を開け放った。音に耳を澄ませるようになったら、不思議と、世界が色鮮やかに見えはじめた。


 ギターを手にし、気に入った曲を弾いてみるようになった。いろんな楽器に手をだして、そのうち、バンドをやってみたいなと思うようになった。


 柴を誘ったけれど、柴は「楽器買うようなお金ないよ」と言って、応じることはなかった。だけどしばしば、「ちょっとだけやってみろよ」と無理に押しつけてギターを弾かせてみたり、作った曲を歌わせてみたりした。柴が戸惑いながらその喉を震わせたとき――全身に、鳥肌が立った。わけもわからず涙が出そうになってとっさに欠伸が出たふりをしたけど、柴は必死でギターの弦を押さえていておれの挙動にはかけらも気づいていなかった。


 感動、という経験があるとしたら、おれにとってはあの瞬間だ。


 柴の歌は、世界を救うかもしれない。


 世界は救われたがっているかどうかも知らないのに、おれは大まじめに、そんな壮大なことを本気で思っていた。



     ◎


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