give me chocolate
1
いつも、手に入らないものが欲しくなる。
「上里くん、説明してもらえるかな」
写っているのは紛れもなく自分なのに、その写真に写る男をおれはまるで他人事のように見下ろした。
充てがわれたホテルのベッドに横たわり、目を閉じる。しばらくのあいだここで生活するよう命じられ、携帯も預かられ、どこか囚人めいた時間を過ごしている。
とはいえ部屋は清潔で、適度に広く、ベッドはふかふかでやわらかい。シャワーとトイレもついている。食事はルームサービスで好きなものを頼めるし、みずから買いものに出かける必要もない――部屋から出ることを、そもそも禁止されているのだが。労働も強いられず、なんら困ることはない、囚人には勿体なさすぎる待遇だった。
身体がシーツに沈んでいく。ここにはなんでもあるような気がするし、なにもないような気もする。ふ、と頭に流れたメロディーを口ずさんだ。あ、いい感じ。携帯がないので、部屋に備えつけられていたメモとペンを手にとって書きつける。
分厚いカーテンのかかった窓の外には、無数のネオンがきらめいている。地元では星がよく見えたけれど、都会の街ではかわりにネオンが闇の中を所狭しとまたたいた。人工的な光も、悪くないと思う。綺麗なものを見ると高揚した。下半身を見下ろす。そのまま自分の身体にぶら下がったものに手を伸ばした。
だってさ、することないんだよ。楽器もないし、歌うにしても大声はだせないし。あ、困ることあったわ。でも、別に絶望するようなことでもない。ベルトを外して前を寛げる。
綺麗なものは好きだけど、自分の身体がなにに興奮するのか、そのじつ、いまだによくわかっていない。綺麗、は主観でしかないし、わりとなんでもいい。適当に、三日前——事務所に呼ばれる直前に、誘われてホテルに入った女の子のことを思い返した。もう顔が思いだせなかったけど身体のほうはぎりぎり憶えていて、胸の膨らみや細い腰は脳裏に浮かんだ。その映像に付随して、声がついてくる。誘うような甘い声は、じきに蕩けてぐずぐずになり、最後のほうは思考力をなくした獣のように甲高く響いてきんと鼓膜を打った。喉が枯れるまでつづいた嬌声も、なんだか新時代の音楽って感じで悪くなかったな、と、息をひそめて音と快楽に耽る。
拒んだことはほとんどなく、いつも求められるがままに応じた。そうすると喜ばれたから。相手もうれしくておれも気持ちよくなって快いなら、一石二鳥なんじゃないかなと思った。ん? ちょっと使い方間違ってんのかな。
柴がいたら、言葉の正しい用法を、説明してくれるんだろうなと濁った頭で思う。
柴とは、この世の人間の中で、おそらくだれより——おれを産んだ母親や血の繋がった父親、バンドのメンバーや結婚相手より——長く時間を共有してきた。けれど、性的な関係になったことはおろか、そもそもそういった、性愛の話をしたことさえほとんどない。
出会ったころから、柴は聖人みたいな人間だった。もうすぐ十五年ほどのつき合いになるけれど、その印象は変わらない。柴のことを考えたときだけは、おれってなんか汚いものをぶら下げて生きてんな、となんだか笑えてくる。笑いながら、視認できない星が眼裏で散る。
これ、明日の週刊誌に載るからと言われて、そうですか、と思ったそのまま答えたら、次の瞬間にはメンバーの堤に殴られていた。【what happens上里純、路上で女性に性的暴行】そんな感じの見出しと、モザイクのかかった女に覆い被さってキスをしている――女のほうにモザイクがかかっているから、その接着点ははっきりとは見えないが――男の写真がテーブルに広げられていた。
おれってキスしてるとき横から見たらこういう感じなのね、と、自分では見ることのない自分の行為と角度を、どこか新鮮な気持ちで眺めた。ドラマみてー、とも思った。そうしたら、左頬をぶん殴られていた。おまえふざけんな、なにしてくれてんだよめちゃくちゃじゃねえか一緒に頑張ってきたのはなんだったんだよいままで寝ぼけてんのもたいがいにしろ俺らの人生まで壊す気かこんなばかなことしやがって、細かい言葉の違いや語順は忘れてしまったが、おそらくそのようなことをものすごい剣幕で捲し立てられて、おれは呆気にとられてしまった。
それから、決まっていた映画の主題歌の話をはじめ、テレビ番組やフェスの出演も全部キャンセルになるだろうということを、事務所の偉い人だとかマネージャーだとかメンバーだとかさまざまな人が入れ替わりに、おれに懇々と説いた。説明されて、そうなんだ、まあそうか、とおれは自分がこれから各所に多大な迷惑をかけることになるのだと理解した。いつかそういう日が来るような気もしていた。なにがどう悪かったのか、本当にははっきりと理解しきれていないままに。
自宅にいてはマスコミが押しかけるだろうし、近隣を騒がせるだろうからと、ホテルに押しこめられて二日半ほど。人を呼ばないようにと、フロントへ以外の連絡手段を断たれて、部屋からも一歩たりとも出ないようにときつく言われていた。
殴られた頬の腫れはもう引いて、そこまで強く打たれたわけではなかったのかと考える。堤、加減してくれたのかなあ。そんなわけないか。そもそも喧嘩とかするような人間じゃなかったから、人の殴り方なんか知らなくて、でもそのときは、ただ我慢がならなかっただけなんだろう。
部屋でぼんやりしていると、部屋にとりつけられた内線が鳴った。マネージャーが来ているようだった。長くひとりきりだった部屋の扉が、やがて控えめに叩かれる。
「上里さん」
マネージャーは、澱んだ空気のこもった部屋のにおいに一瞬顔を顰めた。人目を忍んで室内に入ってきたあと、ドアを閉めて少しばかり窓を開けて、カーテンは閉じたままで換気をおこなう。少しして窓をふたたび閉めると、彼はひどく疲弊した憂鬱そうな顔で、いまの状況をおれに語って聞かせた。
〈上里氏は打ち合わせに同席したBさんと二人きりでバーに入ったあと、酔ったBさんを人気のない路地裏に連れこんで性的暴行を加えた〉その記事のすぐあとを追うように、情報は追加され、報道は過熱していった。〈二年前に極秘結婚していた〉〈交際相手が複数人いた〉〈華々しい音楽活動の裏で、だらしない私生活〉〈地元では有名な遊び人〉――それらをおれは静かに聞き入れる。マネージャーはおれの顔を見ることはなく、感情を極力殺したような、けれど殺しきれていない無表情で、ひと息に説明した。
「わかってると思いますけど、めちゃくちゃ荒れてます。誹謗中傷の電話や投書が止まらないし、サイトにも、そういうコメントが殺到して一回パンクしました。正直守りきれないかもしれません。上は、契約切るかどうかって揉めてます。すぐには決まらないでしょうが……僕は、反省してるってスタンスを、少しでも示したほうがいいと思います。会見をひらいて、」
「会見」
「はい。しても状況は好転はしないでしょうけど、しないよりはましかと」
「それは、だれに向かって、なにを話せばいいの?」
「は?」
半殺しぐらいにさせていた感情をよみがえらせ、マネージャーはまるでおぞましいものを見るような目でおれを見た。
「ふざけてますか?」
「いや、ほんとにわかんなくて。そういうのって、よくあるけどさ、だれに向かっての、なんのための場なのかなって」
「上里さん、自分の立場、わかってます?」
「なんとなくは」
「なんとなくってなんですか。ちゃんと考えてますか? あなたと、バンドのために言ってるんですけど」
「えーと、おれは、おれとおれのバンドのために会見すんの?」
「そういうことじゃ……」
まじめに訊いたつもりだったけれど、マネージャーは呆れたように言葉を飲みこんだあと、上里さんて、と軽蔑しきった瞳をこちらに向けた。
「……人間性と作品は、比例しないんですね」
そして、なにかもうひとつ言葉を濁したあと、かわりの言葉として、そう口にした。マネージャーの、そのまなざしが孕んだ感情はわかるけれど、言葉の意味はわからない。蔑視されていることはたしかに伝わってくるから、おれは笑ってみた。場が和むわけはないことはわかっていた。この人はバンドの活躍を、おれ以上に喜んでくれていた人だったなと思い返す。笑顔で、どころではなく、それはもう、涙を流して喜んでいた。
◎
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