上里の会見の時刻は仕事と被っていた。柴は家に帰ってシャワーを浴びてから、ネットに上がっていた動画でその一部始終を見た。


 パイプ椅子の並んだ会議室のような空間が映しだされ、そこにマスコミが押し寄せていた。一台だけ置かれた白い長机の上にマイクが転がされており、一分近くだれもいない空席を眺めさせられたのちに、ゆっくりとその男は姿を現した。瞬間、画面が真っ白になろうかという勢いでフラッシュが焚かれ、柴の目も眩んだ。


 報道が出る三週間ほど前に会ったのが最後だったから、一か月以上姿を見ていなかった。長机の前に立った上里は、正面に向き直ると、その場で深く頭を下げた。フラッシュが、またいっそう激しくなる。九十度近くまで折り曲げられた上半身は、それから一分間、起こされることなくその場で静止しつづけた。


 動画のコメント欄に、言葉が濁流のように現れては追いやられる。〈キモい顔〉〈消えろ〉〈ブサメン〉〈社会のゴミ〉上里がゆっくりと顔を上げて、唇を動かす。


「――このたびは、たいへん申し訳ございませんでした」


 なにを、だれに対して謝っているのかと柴は思った。


 そもそも、会見とは、なんなのか。だれの、なんのためのものなのか、柴には答えがだせない。上里が謝罪をすべきなのは、交際相手や結婚相手や、『暴行を加えた』というその相手、そして仕事に穴を開けたならばその関係者、などであって、ここに〈許せない〉といまこの瞬間書きこんでいる人間なのか。


〈許せない〉と憤る人たちはいつのまにか、上里を許すか許さないか決める権利を持っている。


 上里はなにを、だれに謝るべきなのかなどと、それは自分が決めることでもないのだと柴は思う。


『ご結婚されているにもかかわらず、ほかの女性と関係をお持ちになったり、路上で女性に暴行を加えたりされたということですが』


『そのことについて奥様とはお話されましたか』


『いまどのようなお気持ちですか』


『お子さんのことは考えなかったのですか』


『申し訳ないという気持ちはありますか』


 公の場で、何台ものカメラやマイクや大勢の人間に囲まれて、それでなにを話せばいい。質問する人々は、どのような答えを望んでいるのだろうか。それは、本当に知りたいことなのか。知ってどうするのか。柴は訝しんだ。千歳や、上里と関係を持った相手が問い詰められたのと同じような、あるいはもっと悪辣なことを、追求して、どうするというのだろう。上里の過去を知らない、上里の未来がどうなろうと知らないその人たちが。


 目を閉じる。柴の瞼の裏では、ステージ上で、舞台の上で浴びた照明の光があざやかに息づいている。かがやかしい世界だ、それでいて、一歩、二歩足を踏み外せば、底なし沼であるようだとも、柴は、ずっと思っていた。不穏なニュースが日々報じられ、報じられては押し流される。正しく生きなくてはいけない。きらびやかな表舞台、けれどそれ以外では、慎ましくあらなくてはいけない。そうしなくてはならないというより、そうすること以外を知らずに柴は生きていた。


「僕の不徳の致すところです」「奥さん……はい。話はしています」「何人もの方を傷つけてしまったこと、たくさんの方に多大なご迷惑をおかけしたこと、本当に申し訳ありませんでした」「子供のことは……そうですね、そのときは、あまり考えていなかったのかもしれません」「申し訳ないとは、ずっと思っています」投げかけられた言葉に、上里はひとつひとつ答えていく。


『どのような話をされましたか』


「信じていたのにと言われたので、信じるに値する人間じゃなくてごめん、と伝えました」


『申し訳ないと思うなら、なぜ今回のようなことを?』


「僕が、まともな人間じゃないからだと思います」


『お子さんのことについて、あまり考えていなかったとはどういうことですか』


「なんと言えばいいのか、うまく、説明できないのですが……僕は、子供のことはかわいいと思っています。でも、それだけで、子供が僕の行動の原理になるわけではない……そういう感じでしょうか」


 答えにくいような質問ばかりあるはずなのに、顔を、少しも逸らさない。良くも悪くも、正直に受け答えをする。事務所から、こう答えるように、という指示がもしかしたらあったかもしれないが、それを守っていたのはせいぜい最初のほうの二、三言までであるように思われた。会見の意味を問いただすようなことを考えていた柴が聞いても、上里の受け答えはこの場においてあまり上質なものではなかった。


〈は? 底なしの屑では〉〈事務所もかわいそう、こんな人間を守らないといけなくて……〉〈だれかこいつの下半身千切れよ〉〈ついでに脳も取り替えてあげたら〉〈子供が気の毒すぎる〉〈将来いじめられたりしたらコイツのせい〉


 耳鳴りがする。上里のふるまいを肯定する気になどならない。上里の部屋で、並んで柴を出迎えた上里と千歳の顔が浮かぶ。どう考えても清くない。でも、


〈ていうか、もう死んでくれ〉


 ただ、生きている。


 どれほど地に落ちても、そこにいる。


 柴の髪から水滴が滴った。歌が流れる。堰を切ったように、身体の内がわに鳴っている歌が口端からあふれた。夜の暗さの中で、携帯の放つブルーライトが部屋をわずかに光らせる。


『音楽活動はどうされるおつもりですか』


「それは……いまは、わかりません」


 動画を凝視しながら、歌を歌う。息が継げない。水の中にいるみたいに、酸素は身体から抜けていく一方だった。でも、歌う。上里の人生は、もう、音楽のある時間のほうがずっと長いのだ。いまさら手放せるはずがない。


 シャワーから水が流れ落ちているような音がして、蛇口を閉め忘れたかと柴は一瞬焦った。けれどよく聞けば、それは雨だった。部屋の外が春雨に湿っていく。柴は雨音を覆うように、歌を歌った。自然の音は美しすぎて、孤独になる。


 快い記憶や出来事ばかりあるはずもなかった。だれの顔も見えず、悪意のある文字や言葉ばかりが視覚や聴覚を擦った。だれにうち明けもしないけど、柴の世界には美しいものは存在しなかった。上里に呼ばれるまで。


 いつか、屈託なく柴に笑いかけた上里の声が、よみがえった。洗いたての真昼のプールのきらめきのように、それは光に満ちている。


 電気を消した室内で、水滴が散る気配がある。


〈もう終わりでしょ〉


 終わんな、世界が敵になっても、俺がおまえを見放しても。




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