ライブを終えた翌日に休みがあり、柴は、上里の帰ってこないマンションへ、ふたたび足を運んだ。もともと実家暮らしだった千歳は、上里と交際をはじめていくらかすれば、週のほとんどを上里の部屋で過ごすようになっていた。半同棲状態だったのか、あるいは、正式に同棲をはじめていたのか、ちゃんとたしかめたことはなかった。家主の帰ってこない部屋で、千歳は、ずっと待っている。


 柴はワイヤレスイヤホンを挿して、真夜中を走った。ビー玉ほどの大きさのイヤホンは、携帯や音楽プレーヤーと連動して、音を鳴らしてくれる。柴の耳許では、上里のバンドの音楽が鳴っていた。中学時代にはじめて作った曲から、先月リリースされたばかりの新譜までが、シャッフル再生で駆け抜ける。


「柴さあ、俺と友達だってのは、あんま言わないほうがいいよ」


 柴のデビューが決まったころ、上里は柴にそう言った。


「なんで」


「んー、いつか、それがおまえの足引っぱるかもしれないから?」


「なんだそれ」


 柴は一蹴したけれど、特段、上里と友人だということを人に話す機会は訪れなかったので、自ずと上里の言葉のとおりになった。上里もまた、アイドルの真柴透と中学からのつき合いだということは公にはしなかった。


〈昔から才能あるやつでした。文化祭で演奏すると、スターみたいな感じになって。でもその一方で、結構遊んでましたね。悪友とつるんで、女の子引っかけてホテルに入ったりとか〉


 マスコミは上里とかつて同級生だったという人間を突きとめ、取材し、丁寧に記事にする。目隠し線で顔を隠された人間の、口角の上がった顔の下半分が見える白黒写真が記事と併せて載る。それを見ても、その顔のパーツと合致する人間が同級生にいたのかどうか、柴には判別がつかない。


 上里のマンションが近づいたころ、あたりが騒がしいことに、柴は気がついた。マンションの駐車場や付近のコンビニに、普段はない数の車が停まっている。足を止めると、カメラを肩に担いだ人間が走っていくのが見えて、柴はとっさにキャップを深く被り直しながらうつむいた。


 その先には、千歳がいる。


 眩暈がする。


 彼女と上里が幸せになるのだと、柴は信じて疑わずにいた。そうではなかった。上里の浮気相手は、何人も存在した。そのひとりひとりの所在を突き止めたマスコミは、剥きだしの言葉を投げかけた。


 上里純さんと交際されていたんですか。


 彼が既婚者だということはご存知でしたか。


 上里さんの行為についてどのようにお考えですか。


 上里や、上里によってうみだされた状況に怒っていい人間は、柴の想定する以上に多くいた。上里の妻も被害者なのかもしれない。それでも、その人々のだれのことも、詳細な関係性も柴は知らないから、柴は千歳だけに味方する。


 上里の携帯に電話をかける。繋がらない。いつまで逃げてんだよ。言葉が漏れ出て、感情が追いつかず、喉許で滞る。


 事務所に、携帯の電源を切っておくよう言われているんだろう。頭ではそう理解していた。代わりの携帯を持たされているかもしれないが、そうだとしても、その番号まで柴に知らされなどしない。上里の報道が出ることを教えてくれたのは、ライブハウスに通っていたときから面識があった上里のバンドのメンバーだった。


 耳に挿しっぱなしのイヤホンから、上里の声がする。スタジオで収録された楽曲は、音質も演奏もずば抜けていい。昔の、上里の実家の部屋で録音したようなものとは全然違う。それでも、どちらも変わらない。安全な場所で作られた、いっさいの瑕のない音楽が、柴を揺さぶる。


 おまえのために傷ついてる人間がいんのに、なんでおまえはそこから出てこないわけ?


 千歳の部屋に向かおうとする身体を、頭が押しとどめる。


 ここで自分が出ていけば、千歳と記者とのあいだに立ち塞がれば、それが真柴透だと気づかれたら、それも記事にされるであろうことは目に見えていた。


〈浮気と性的暴行を報じられていた上里純、アイドル真柴透と一般女性を巡って泥沼の三角関係――〉


 じっさいに出てもない、ほとんど被害妄想の見出しが頭に過って、柴はそんな自分に少なからず失望する。けれど、と思う。このとおりではなくても、おそらくは近しいようなことを書かれるのだろう。本当のことを、さらにドラマチックに。嘘八百を、より現実的に。そうなったとき、柴は、困るのは自身ではないことを把握していた。


 マスコミを敵にまわせば、柴の所属するグループや事務所が、家族が、被害を受けるかもしれない。そのことを理解できる大人になってしまったのだと、柴は途方に暮れた。


〈大丈夫?〉


 千歳にメッセージを送ると、返事のかわりに携帯が鳴った。


「……もしもし?」


「もしもし、柴ちゃん?」


 出会ったときから少しも変わらない、あたたかみのある声が携帯から流れる。


「うん」


「あの、あのね……純から、連絡、きた」


「え」


「ごめんね、だって」


「……そう」


「それでね。あしたの夕方に、会見? するん、だって」


 千歳の唇がひとつひとつ言葉を紡いだ。かいけん。とっさにうまく変換されない。会見。だけど、そんなものをひらいて、いったいなにを話すというのか。


「千歳は大丈夫なの」


「うん。……仕事は、しばらく休ませてもらってる。有給が溜まってたから、それ、使って」


 建物の周辺をマスコミに囲まれていると、室内にいても、千歳もおそらく気づいている。


「食べるものとか、困ってない? 少し落ち着いたら、実家に戻る? 車、まわそうか」


「ううん。まだ、大丈夫。ありがとうね、柴ちゃん」


 通話を終えたあと、検索をかければ、上里が翌日会見をおこなう予定だということはもうネットニュースになっていた。


 月の光が頭上でおぼろに揺れる。


 柴は、自分ではない自分の姿を想像した。


 警察に電話をかけて、別人の声音を作る。近くにマスコミが押し寄せて困ってるんです。騒がしくて眠れません。違法駐車もしてます、たくさん。取り締まってくれませんか。声を繕って、建物の名を告げる。警察がやってくる。あるいは。携帯を操作して、YouTubeの動画を漁る。音量設定を最大にして再生ボタンを押すと、けたたましいサイレン音が流れ、張りこんでいる記者たちがどよめく。違法駐車や迷惑行為を咎めるように鳴り響く警告に、記者たちは逃げていく。それを遠くから見つめる……。


 けれど現実の柴の身体はそのように動くことはなく、想像の光景が訪れることもない。実行して、想像のようにうまくいくのかも知らない。携帯から流れるだけのサイレンは、きっと音量が足らないだろう。仮にじゅうぶんな音量があったとしても、記者は動じないかもしれない。柴は、ただその場で、うろうろするマスコミに紛れて動向を見つめることしかできない。



     ◎


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