「怒らないの」


 千歳の家を出る寸前、柴は千歳に問いかけた。


 上里はどうなってしまうのか。どうしているのか。千歳はただそればかりを気にして、他者を非難するような言葉はひとことも口にしなかった。「わたしのせい、かな」ただ怯えて、みずからを責めた。自分のせいで、上里が追い詰められているのではないかと、自分が上里を不幸にしたのではないかと、千歳は涙声で悲嘆した。だから、訊ねた。


「おこ、る?」


 千歳は、そんな発想はなかった、というように目を瞬かせた。


「千歳は悪くないでしょ」


「そう、かな」


「百パーセント上里が悪い」


「ひゃく?」


「二百かな」


「ふふ、百、超えてる」


 柴がまじめに言った言葉を、柴なりのせいいっぱいの冗談だと受けとった千歳は、ほんの一瞬笑ってみせた。上里の前で、もっと甘い声で笑っていた千歳を知っている。上里が戻って来なければ、その千歳は戻らないのだろう。


「自分を責める必要、ない」


 そんな陳腐な言葉が、なんの救いになるのかと思うのに。


 千歳はやがて、うつむきながらゆっくりと首を横にふった。


「怒る、とか……いまは、あまり、考えられない」


「……そう」


「でも……」


 ただ、悲しい。


 小さな唇が、海に散らばる水泡のように、震える。


「純に、ぶじで、戻ってきてほしい」


 千歳が上里を求めて呼ぶ声は、いつも、澄んでいた。まっすぐに、ただ平穏を願っている。豪遊など望まない、他愛なくて、日向の道のようにあたたかい暮らし。そこに悪者を作ることもしない。ただ、上里がいればそれでいい。


〈人として終わってる〉

〈浮気するやつは全員滅べばいい〉


 千歳だけが怒っていいはずなのだ。それなのに千歳が怒らないで、世界が怒り狂っている。




 上里の不祥事を週刊誌に売ったのは、上里の浮気を疑った上里の妻だった。


〈妻のA子さんは上里純氏の数々の問題行動を、涙ながらに我々に語ってくれた。〉週刊誌の文言は、柴の脳裏を行ったり来たりして、くり返し踊った。


 帰ってこない日の多い夫の行動を不審に思っていた上里の妻は、探偵を雇って上里の身辺を調べさせていた。ほどなくして、妻の疑念をはるかに超える数の不貞があきらかになり、直接現場をおさえようと駆けつけた路上で、抱き合う上里と見知らぬ女を見つけた。


〈上里は身をよじる女性を押さえつけてキスをし、スカートの中に手を入れていた。自分の見た光景が信じられなかった——そう言うと、その瞬間のことを思いだしたのか、A子さんは涙に肩を震わせた。〉


 控室でメイクを施されながら、置かれていた週刊誌を繰れば、人かどうかもわからないほど強くモザイクのかかった、見知らぬ人間と唇を重ねる上里の写真が週刊誌の見ひらきに掲載されていた。


 上里がだれかに口づけるところを、こんな形で見ることになるとは思わなかった。切りとられた白黒のその表情で、上里の口づけがおそらくやさしいものだと知る。千歳はこれを、甘受している。そうしてきた。きっと、何度も。


 柴は毎夜上里に電話をかけたが、千歳と話していたとおりその番号に通じることはなかった。『電源が入っておりません……』同じアナウンスを何度聞いたかわからない。問い詰めたい衝動はずっとあって、けれど、その矛先はだれにも向けられないで柴の内がわで燻ぶっている。


 控室で、仮眠をとっているふりをしていると、「そろそろスタンバイお願いしまーす」スタッフが呼びにきた。メンバーが立ち上がる。


「真柴、行こうぜ」


「うん」


「がんばろうな」


 柴は目を開けて、用意されたステージへと向かった。


 開演前のホールは人のざわめきに満ちていた。薄く灯されたライトが、翳って、人々の視界を覆う。待ち侘びるような歓声、円陣を組んで、ひとりずつ表へ飛びだしていく。


 太陽を直視しているかのような、照明の白さに柴は目を細めた。光を見ている、と柴は思う。遅れて、光を見ているのではなく、自分が照らされているのだ、と気がつく。かつては客席がわでただ見ているだけだった自分が、ステージに立つことがあるとは思っていなかった。とんでもないところへ来てしまったような、心許ない感覚がする。


 音楽がかかり、それに合わせて手足を動かし、歌を口にした。ダンスにまともにとり組むようになったのは、上京後、レッスンに通うようになってからだ。メンバーの中には昔から長くやっている者もいる。そういう者と自分とでは、当然年季が違っていた。客観的に見れば、自分の声や振りは見劣りするものであるかもしれない。せめて、グループの価値を下げないようにしなければいけないと思う。そう思うけれど、自分に対する評価を柴は、いつまでもつけられないでいた。


 うまくできたような気がしても、いつも、見上げれば上がいくらでもいて、その高さに気が遠くなる。自分の成していることなど、どれもこれも砂上の楼閣なのではないか。――などと、そんな甘えたようなことは、言えない。自信を持てないようなパフォーマンスは、そもそも披露すべきではないのだ。自信がないなら、身につくまで練習するしかない。


 照明が強い。視界が焼けそうだった。激しい動作と相まって、身体が熱い。ライブはいつも、信じられないほどの量の汗をかいた。人がたくさんいる。この人たちによって、自分たちは、自分は、生活ができている。命を救われていると、言ってもいいのかもしれない。柴は心からそう思っていて、けれど、自分の命を救っているはずの人間の、だれの顔も憶えていない。人の顔は、照明に阻まれていつも見えない。


 上里が結婚していたことを、千歳も、柴も知らなかった。千歳の指に嵌っていた指輪が、ただ千歳が憧れたから渡したものに過ぎなかったということに、柴は、いまさらに気がついた。思えば上里は、千歳といないときには指輪をしていなかった。職業柄、恋人がいることを大っぴらに知らしめることができないからだと思っていたが、それだけではなかったのかもしれなかった。


 いまはここにないはずの、千歳の震えた声が鼓膜を揺らす。


 なんでそんなことしたんだよ。


 何度目かも、そんなこと、というのがなにに対してなのかも、判然としない。女性への路地裏での暴行に対してなのか、浮気についてなのか、千歳を誑かしていたのかという疑念なのか。けれどたしかに思っていた。

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