上里と柴は、中学生のころからのつき合いだった。中学一年で同じクラスになり、席替えで席が前後になってから、よく話すようになった。プール開きの迫った、初夏のことだった。窓ぎわの席で、洗われたプールの水面が太陽の光を反射して、鱗のようにこまかにかがやいているのが見下ろせた。


「なあ、柴って良い声だな」


 国語の授業で音読をした直後の休み時間、うしろをふり返った上里はだし抜けにそう言った。柴が言葉の意図を摑めずに困惑していると、「褒めたんだよ?」と上里は声を立てて笑った。それは嘲るような音ではなく、純粋な感想として柴の記憶の中に残った。柴にとっては上里の声のほうが、印象的なものに聞こえた。その声は、歩いているときに背後で鳴っても、遠くから呼ばれても、上里のものだとすぐにわかった。


 柴は上里に誘われ、しばしば彼の家を訪れた。市内の一等地に建てられた上里の邸宅は、よく整備され、清潔で、当時の庶民の憧れの象徴めいていた。招かれた上里の私室は広く、壁ぎわには本棚とベッドと飛行機や船の模型が置かれ、それでもなお余るスペースに敷かれたラグに、上里と柴はいつも、並んで腰を下ろした。


 精巧な模型のひとつひとつを見させてもらうときもあれば、目もくれずにテレビゲームに熱を上げるときもあった。バイキングのように出てくる菓子店のケーキや焼菓子をご馳走になるときもあれば、上里の姉の私物だという、アイドルグループのコンサートのDVDを鑑賞したこともあった。上里は柴の知らない娯楽をいくつも知っていた。学校で習うことや図鑑で読んだことしか知らない自分とは、かけ離れたところで息をしていると柴は思った。


 中学一年生の冬、突然音楽に目ざめた上里は、クリスマスにギターを購入してもらっていた。


「見てコレ」


 はじめて手にしたギターを、上里ははずんだ声で柴に見せびらかした。すぐに飽きるのではないかと柴は思ったが、その予想に反して上里はすぐにギターを習得した。そして音楽によりのめりこんだ。上里はジャンルを問わず手あたり次第に音楽を聴き漁り、ドラムセット、ベース、シンセサイザーとその部屋にはしだいに楽器の種類が増えていった。いつのまにか模型は別の部屋に押しやられ、本棚は解体されて上里の部屋の隅にはベッドと楽器だけが並ぶようになった。


「柴もなんか楽器やんない? 一緒にバンドやろうぜ」


 上里はしきりに柴をバンドに誘ったが、中学生の柴が容易く楽器を手に入れる手段などなかった。「俺の貸してやるし」と上里は言ったが、上里の部屋にある楽器がどれも高価なもので、中学生の小遣いで賄えるものではないことを柴は知っていた。万一壊しでもしたらと思うと、その誘いに乗ることはできなかった。


 せいぜい、たわむれの放課後に、調度品のように部屋に置かれた楽器に指先を忍ばせてみたり、上里の見ている前でだけ試し弾きさせてもらったりする、それぐらいが、柴にとっての限度だった。


「じゃあさー、おれ曲作ったから、ちょっと聴いてよ」


 やがて上里はみずから作詞と作曲をはじめ、その試作品を柴に聴かせるようになった。上里は才能があった。努力しなくてもある程度のことができてしまう。そしてこと音楽に関しては、天才というほかなかった。簡単な言葉でまとめることをためらいながらも、そう思わされた。


 柴は上里の家を出たあと、自宅までの道すがら、上里の作った歌を口端から音にのせた。日の沈んだ薄暗い坂道で、遠い星よりずっと熱く音が光った。言葉や旋律が、身体の中を流れていた。口をひらけば自然にこぼれる。こぼれて、もう止めどない。堰き止めることはできず、いつまでもあふれてきた。柴は自分もまたとり憑かれるみたいに音楽に触れてしまったのだと知った。


 柴は家からもっとも近い高校を選び、上里は「じゃあおれもそこにしようかな」とラーメン屋でラーメンでも選ぶぐらいの気軽さで進路を決めた。柴はバイトをはじめ、追試にならない程度に勉強に熱を入れながら、放課後のほとんどを労働に費やした。


 柴がバイトに明け暮れているうち、上里は高校でバンド仲間を見つけて、文化祭なんかで演奏したり、ライブ活動に精をだしたりするようになった。柴は可能な限り都合をつけ、上里のライブを見に行った。上里は曲によって、ギターを爪弾いたりシンセサイザーに指をすべらせたりした。ロックもバラードも、上里は声音を使い分け、鮮やかに歌い上げた。


 その音楽は、人の人生を狂わせる。シャウト、ファルセット。魂が焼き切れる。水面に揺蕩うはなびらのように、少しの刺激で崩れ落ちそうになる。目まぐるしい音の波は、聴くたび柴の身体の内がわを震わせた。


 高校三年生の秋、就職活動中だった柴は、地元を少し離れた街中をスーツで歩いているときにスカウトを受けた。嘘みたいな話だ。あれは自分の人生の中で、いちばんフィクションめいたできごとだったと、十年近く経ってもなお、柴は思う。上京してから二年後にデビューが決まったことよりも、デビューの二年後にドームツアーで全国をまわったことよりも。


 騙されているのではないかと、もらった名刺に載っていたビルの住所を検索すればきちんと現存する建物で、書いてある番号に電話をかければ、声をかけてきた芸能事務所の人間が出た。


 ほかに何人か候補生のようなものがいて、彼らと一緒にデビューしてほしいのだというようなことを説明された。アイドルにならないか、という誘いだった。けれど柴は体育の授業と体育祭でしか踊ったことはなく、人前で歌ったこともほとんどなかった。レッスンを受けてもらうから大丈夫。君なら絶対に売れるよ。スカウトマンは熱心に柴を誘った。なにを根拠にそう言われたのか、柴にはさっぱりわからなかった。


 アイドルなど、自分にはまったくかかわりのないものだと、そのときまで柴は思っていた。テレビはほとんど見なかったし、芸能人の名前もろくに知らなかった。顔つきを、怖がられたことは多々あれど、アイドル――疎いので、おぼろげなイメージしかないが――のように、人々を魅了することができるとは思わなかった。


 それなのにその勧誘を受けて家を出ると決めたことは、あまりにも無謀な、大きな博打だった。


 東京へ行くことを上里に告げると、「じゃあおれもそうしようかな」と、高校を決めたときと同じように、上里はまだ決まっていなかった進路を唐突に決め、東京の大学に進学した。



     ◎



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