目眩しの夜に咽せ返る

中山史花

退屈


上里あがりがやられた」


 その報せを聞いたとき、柴はまっさきに、上里ではなく、上里の恋人である千歳のことを思った。






 肌に縋りついてくる暗闇を引き剥がすように、足を動かしつづける。立ち止まれば闇が縫いつけられるような気がして、乱れる呼吸を無視して前進しつづけた。深夜の郊外に人の気配はなく、貸し切り状態のように思える遊歩道を、目的地もないままひた走る。両耳に挿したワイヤレスイヤホンから流れる聴き慣れたはずの声が、まるで知らない人間のもののようだった。


 夜の風が身体を撫でていく。


 暗闇から無遠慮に伸びてくる手を突き放すように、柴は走りつづけた。毎日走ることは、数年前から柴の身体に習慣づいていた。大雨や大雪、台風の日でもない限りは、人気を避けて外を走る。とはいえ都会ではまったく人気のない場所をさがすことは難しく、ずっと走っていれば人の声や姿はたいていそのへんに転がっていて、空間は貸し切りではなくなった。柴は他者の姿を見ないように視線をずらし、雲に覆われた頭上の空や細かい砂の散らばる舗装された道や、視界に被さってくる木々に目を向けた。


 河川に沿って延びている道は緑に囲まれている。等間隔に並んだ蛍光灯の光の先、木枝のあちこちで蕾が膨らみはじめていた。川のほうへ視線をやれば、夜の闇とほとんど同化した、薄暗い泥濘のような水面が蠢いている。ひどく遅い川の流れは、暗闇の中ということも相まって、本当に流れているのかどうか疑わしく見えた。


 細い遊歩道を走り抜けて、ひらけた場所にある水飲み場でゆるやかに速度を落とした。イヤホンを外してポケットにしまい、額やこめかみを流れる汗をウェアの裾を持ち上げて拭う。全身が熱く、柴は自身そのものが煮えたぎる鍋であるような心地がした。水道の蛇口のそばに頭を突っこむと、火照った頭部が冷やされていく。ぼたぼたと落ちる水の音が、夜中の静かな空気に仰々しく響いた。


 音があることに安心する。無音は苦手だった。自然の音も好まない。風の音や水の音、葉擦れの音などは柴の隙間に入りこんできて身体中を乱暴に掻き毟っていく。


 ずぶ濡れになった頭を左右に振ると、水滴があちこちに散った。柴は自分の身体の中に流れている音楽を唇にのせた。


 身体の内がわには、音楽が流れている。


 柴は少年時代から、その錯覚をしていた。音は目に見えない。実体があるのでもない。血液のように本当に身体をめぐっているわけでもないから、それが錯覚だと柴は知っていた。ポケットに手を伸ばし、避難させていたイヤホンをさがすと、それより先に硬質の薄っぺらい直方体に指先が触れる。ろくな知らせを寄越さない携帯は家に置いておきたかったが、急な仕事の連絡があるかもしれないと思うと、長時間遠ざけておくことはできなかった。


 そんなことを思っていたそばから、イヤホンのかわりに捕まえた携帯が振動する。けれど仕事の用件ではなく、メッセージアプリからの通知だった。つき合いで登録した音楽グループの公式アカウントから、日付変更とともに自動送信されたメッセージが飛んできただけのようだった。確認して、すぐ閉じようとする。それなのに指が間違った箇所を押していた。ニュース一覧が画面いっぱいに表示され、


【what happensのボーカル上里純、路地裏で女性に暴行】


 ずらりと並んだいくつものニュースの先頭に現れた見出しが、柴の目に否応なしに飛びこんだ。


 記事の内容を柴は、リンク先をひらかなくとももう知っていた。上里は数日前の深夜、女性を人気のない路地に連れこみ性的暴行を加えた。すでに示談は済んでおり、上里は釈放されている。まとめれば数行で片づいてしまうそのネット記事が出たのは昨日のことだった。一連の記事を柴は散々見て、見つくした末に見るのをやめた。


〈what happens好きだったのに〉〈もう聴きません〉〈お金持ってるから示談にできたんだろうなあ。〉〈路上で女襲うとかありえない。死んでほしい。〉〈純なら寄ってくる女いたでしょ。どんだけ飢えてたわけ?〉〈よく見るとなんかいやらしい顔してたよな〉〈性犯罪者は一生刑務所に入れておいてほしい〉〈キモ。ブサイクの癖に調子乗ってるからそうなるんだよ〉〈欲求不満すぎ(笑)〉〈人として終わってる〉〈浮気するやつは全員滅べばいい〉


 発光する画面が網膜を刺す。携帯を握ってそのまま、インターネットやSNSをひらけば、上里への批判がびっしりと連なっていた。それは遡ってもページを更新しても、とめどなく次のものが現れた。はてがない。柴は携帯の画面の明かりを落とし、今度こそイヤホンをとりだすと、両方の耳に挿してランニングシューズで暗闇を踏みしめた。



 光を落とした携帯がふたたび振動したとき、すでに終電の時間も過ぎていた。柴は一度帰宅して財布とキャップ引っ摑み、キャップを深く被ってランニングウェアのまま千歳のいるマンションを訪れた。イヤホンを外して部屋の前に立ち、汗ばんだ指先でインターホンを押せば、ややあって、ゆっくりと目の前の扉がひらかれた。


「柴ちゃん」


 憔悴しきった声が、扉の向こうで小さく震える。


 薄くひらかれた扉を押して、千歳は柴を中に招き入れた。柴は周囲を見まわし、人影がないことをたしかめてから足を踏み入れる。扉を閉め、玄関で立ち止まって手に提げたビニール袋を差しだした。


「これ適当に買ってきた、インスタントでごめんだけど」


 柴の突きだしたビニール袋をみとめて、千歳はうつむいて首を左右にふった。それが柴の「ごめん」に対するものであるのか、差しだしたもの自体への拒否なのか、柴にはわからなかった。


「千歳」


 ぴく、と伏した睫毛がはねて、千歳が柴を見る。その白い顔を見て、漂白剤を柴は思った。あるいは洗剤。コマーシャルで見かける洗いたてのシャツの、穢れのない白が頭にはためく。千歳の顔の色が、いつもと違うかどうかを柴は判別できない。


「……あ、中に、上がる?」


「ここでいいよ」


 柴が答えると、千歳はそれ以上は言わなかった。部屋の奥に人の気配はなく、玄関先にも千歳のものと思われる小さな靴しかなかった。上里がここには戻ってきていないことがうかがえる。沈黙が押し寄せた。さざなみのような静けさの向こうで、千歳が唇をひらきかけてはやめてをくり返す。彼女は言葉を、あるいは情報を待っている。けれど柴に言えるのはほんの僅かなことしかない。


「……しばらくは、ホテルに泊まるみたいだね」


 噂で聞いたことをそのまま、それが自分の知っている事実であるかのように口にした。真偽を明確にしてくれるものは柴の手中にないけれど、十中八九そうだろうとは柴もわかっていた。おそらく千歳も。あやふやな情報にぶら下がっている。


「……どこのホテル、とか。知らない、よね」


 問われて、柴は頷いた。


「ごめん」


 千歳は指先を握りこんだ。その左手の薬指にある飾りのない指輪が光る。その指先だけが静謐な光であるように、柴の目には思えた。


「連絡も、つかなくて」


「うん」


「電源が入ってない、みたいで」


「うん」


「柴ちゃ、……じゅ、純、どう、どうなっちゃうの、かな」


 ほろりと断ち切られたように、その唇から不安と悲しみがこぼれ落ちるのを柴は聴く。もともと湛えているはずの明るみをごっそりと削られたような声音が、柴の鼓膜を打った。洗剤のコマーシャルを見たのは、この部屋でのことだったと思いだす。慰めになるような言葉も情報も、答えも持たず、柴は正直に返すしか術を持たなかった。


「ごめん、わからない」


 千歳は、失望したような顔をするだろうかと柴は思った。


「ううん、わたしこそ、ごめんね」


 なにも悪くない彼女が謝るのは、自分の無力のせいなような気がする。謝ったら、彼女が謝る。そうわかっていてもそれしかできないのが、やっぱり無力だと思う。



     ◎


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