屋敷ー2

武台玄関を上がり、取次の間へと進む。


瑞穂以外には誰も居ない。

屋敷の中は暗く、すでに行燈が灯されていた。ぼんやりとした灯りのなかを、奥へ奥へと進む。屋敷の奥に進むにつれ瘴気はどんどん濃く重くなってゆく。

息が苦しい。

どの部屋にも楓とゴンの姿はない。

だがここまできて引き返すわけにはいかない。二人を見つけるまでは、帰れない。


広縁に出た瑞穂がふと庭に目をやると、紙垂が巻かれた大きな切り株が目にとまった。

(あれが霊木か)

霊木からはそれほど瘴気は感じない。


なのになぜ、この屋敷はこんなにも瘴気にまみれているのだろう。

瑞穂は段々気分が悪くなってきた。瘴気に当てられているのだ。

一旦建物の外に出て呼吸をととのえるため、瑞穂は来た道を引き返した。

(道を間違えたか?)

来た道を辿っているはずなのに、いつまでたっても玄関にたどりつけない。

木蓮の寺のようにどこか違う場所とつながっているのだろうか。

いや違う。また先ほどの切り株の庭に戻ってきている。同じところをぐるぐるとまわっているのだ。

(回帰術…)

一度回帰術に嵌まり込んでしまうと、外からの助けか何かきっかけがなければ、永遠に術の中から出ることはできない。

瑞穂の気分は最悪だった。喉が締めつけられてうまく息が吸えない。頭がくらくらして、吐き気がする。


瑞穂は再度、切り株の前にやってくると、思い切って庭にでた。まだ建物の中を歩き回っているよりいくらかましだ。

というより、切り株の周囲の方が空気が良いように思う。


瑞穂は切り株に近寄って、そっと木肌に触れてみた。

(まだ生きてる)

霊木からはわずかに霊気が感じられる。

ということは、霊木に宿っていた神もあるいは――。


瑞穂はそのまま目を閉じて、霊気の流れを辿った。

始めてやることだが、どうすればいいのかはなんとなくわかった。

反言術と同じようにすればいいのだ。

儀式に必要な物は何一つとしてないが、今は道具がなくてもできる気がした。

心を静めて、霊木の内側を見つめる。

か細い霊気を手繰り寄せ、深くもぐる――。


瑞穂が目を開けると、そこは、斎藤邸の屋敷の中だった。

失敗。したのだろうか。

瑞穂は屋敷の中を進む。

縁側から外を見やると、切り株があったはずの場所には立派な檜が風に枝を揺らしていた。

(ここは、霊木の中なのか…?)

そういえばこの屋敷の中には瘴気がない。

瑞穂は屋敷の中を見て回った。先ほど見た屋敷と造りは同じだが、雰囲気はまるで違う。暖かな陽気が屋敷を包んでいた。

「ねーんねん、ころーりよ」

どこかから子守唄が聞こえてくる。その唄を頼りに進む。

子守唄は奥の座敷から聞こえてきていた。

瑞穂が座敷に入ると、初老の女が外を向いて座っていた。腕には赤子を抱いているようだ。

「あの」

瑞穂が声をかけると、女はゆっくりと顔をあげた。

「訪ねてくる方がいらっしゃるとは」

女は朗らかな表情で頭を下げた。瑞穂もつられて会釈する。

「あなたが、この霊木に宿っている神でしょうか」

「ええ、この方がヨシノモリ様です」

女は瑞穂に赤子の顔が良く見えるように体を向けた。

瑞穂は驚いた。屋敷を祟った神というのは赤子だったのか。

「ということはあなたは?」

「私はこのお方の神使でございます」

女は柔らかい微笑みを瑞穂に向ける。

「この屋敷を祟ったというのは、この赤子の…?」

「いえ、ヨシノモリ様が祟るなど、そんなことはありえません」

「ではなぜ屋敷に瘴気が満ちているんです?」

「人間たちの争いによって、穢れをまとわれてしまったのです」

「ここに住んでいた人間たちの?」

「はい。地獄絵図のようでございました。血で血を洗うような、おぞましい光景がわたくしの瞼にも焼きついております」

女は辛そうに眉を寄せた。

「穢れを受けられたヨシノモリ様はこうして、赤子に還り穢れを少しずつ癒していらっしゃるのです」

この神使は、主が穢れを受けてからもずっとこうして彼を守ってきたのか。

「あなた様は、なぜここに来られたのですか?」

「おれは、ひとを探しているんです。猫と木の精霊がこの屋敷に来ませんでしたか?」

「その方たちならば、しばらく屋敷に寝泊まりされているようですよ。私に紙垂を巻いてくださったのも彼らです」

「本当ですか! でもいくら探しても見つけられないんです。どこかに隔離されているのでしょうか?」

女は穏やかに首を横に振った。

「お出かけされているのでは?」

「はい?」

「ですから、よく屋敷から出て行かれていますよ。大抵夜には戻って来られているみたいですが」

いったいどういうことだ。二人はここに幽閉されているのではなかったのか。まるで旅行にでも来ているようじゃないか。

もうすぐ日が暮れる。この神使の言うことが本当ならば、そろそろ屋敷に帰ってくる頃だろう。

「ありがとう。二人をもう一度探してみます」

「お二人に出会われたら、どうぞ紙垂のお礼をお伝えください」

「わかりました。それと、もしかしたら…」

瑞穂は言いかけてやめた。確実でないことを言って期待させるのはよくない。

神使は笑顔で見送ってくれた。

なぜかその笑顔が、いつか見た母と重なった。


再び切り株の前に戻って来る。

瑞穂は立ち上がって屋敷の中に赴いた。


すでに夜の帳はおりている。さらに暗くなった屋敷の中を足早に見て回っていると、角を曲がった瞬間、誰かとぶつかった。

うわっという驚いた声。

「瑞穂?」

ぶつかって来たのはゴンだった。後ろには楓もいる。

元気そうな二人の姿に瑞穂は全身の力が抜けていくような安堵を覚えた。

「なんで瑞穂がこんなところに?」

「なんでって、お前たちを助けに来たんじゃないか」

「心配してくれたのか。悪かったな」

ゴンが照れくさそうに笑う。

「おまえたち、ここにいて何ともないのか?」

「この首飾りのおかげで大丈夫みたい」

「昼はほとんど外にいるしな」

「幽閉されてたんじゃないのか? 結界は?」

「結界はあったけど、ほら私すり抜けられるし」

そうだった。楓は結界を中和できるのだ。

「ならなんで早く帰ってこなかったんだ」

「せっかく監督署の関連施設に潜り込んだんだぜ? こんな機会逃せねーだろ」

「おまえたちはそんなことしなくていいんだ。自分の身のことを一番に考えてくれ」

「なんだよ。明らかにあいつら瑞穂をはめようとしてるだろ。悪だくみの証拠を――」

「おまえたちはもうこの件には関わるな」

「なに瑞穂、どうしちゃったの? なんか変だよ」

楓が不安そうな顔をする。

「変じゃない。もうおれはおまえたちを巻き込みたくないんだ」

「いやもう巻き込まれてるし。一緒に協力して解決すればいいだろ」

「おまえたちとは、契約を切ろうと思ってる」

楓もゴンも動きを止めた。

「は? なんだよそれ。なんでそうなるんだよ!」

「瑞穂、何かあったの? なら話してほしい。でなきゃ、いきなり契約を切るだなんて、納得できない」


座敷に移動して、瑞穂は自分の過去のことを二人に話した。

ゴンはじっとしていられないらしく、瑞穂が話している間、終始、座敷の中をうろうろ歩き回りながら聞いていた。

楓はときおり相槌を打ちながら静かに瑞穂の話を聞いていた。

「神力も戻ったみたいだし、もうこのまま診療所も閉めようと思ってるんだ」


二人ともしばらく押し黙って何も言わなかった。

螺鈿のお陰で空気は随分浄化されているというのに、部屋には重苦しい空気が漂っていた。


「瑞穂は、診療所辞めたいの?」

「神力があれば、もう妖の治療をして稼ぐ必要は――」

「ううん。そうじゃなくて、辞めたいか辞めたくないか」

瑞穂は言葉につまった。

「瑞穂、いつか子狐くんに言ったよね。『好きなことやりな』って。瑞穂の好きなことって、妖を治療することなんじゃないの?」

「診療所をやってたのは…できることが他になかったからだ」

「本当にそれだけ? 仕方なくやってたの? 私には、そんな風には見えなかった」

「俺、瑞穂って妖が好きなんだと思ってた。おまえほど、妖のこと考えてる神様って見たことなかったから」


瑞穂は妖たちが好きだ。

勝手気ままで、不安定で、人よりずっと弱くて儚いものもいる。

それでも己の命を全うしようと生きる彼らを、救ってやりたいと思っていたのだ。


だがそれは、純粋な救いの精神だったのだろうか。

瑞穂にとって妖とは、結局、昔救えなかった民の代わりなのではないか。


「おれは、自分のために妖を救ってたんだと思う。過去の罪滅ぼしをしたかったんだ。偽善なんだよ」

「偽善と善の境界線ってどこにあるの?」


そう言われてはたと気づいた。

そもそも混じりけのない純粋な善意などあるのだろうか。

いや違う。そうではない。心のありようなど推し量れるものではない。そこが問題ではない。


以前、楓が木蓮に言ったように、救いは循環なのだ。


瑞穂は人間だった頃、その循環の輪からはじき出された。

きっと間違ったことは何もしていないし、純粋に民を救いたくて行動していた。

だけど、結果的にたくさんの人を死なせることになった。


それは、瑞穂の行いが、一方通行の独りよがりなものだったからだ。

言葉を尽くせば理解してもらえると思っていた。理解できないのは、父が、家臣たちが、間違っているからだと思っていた。

だけど、どんなに言葉を尽くしたところで人は変わらない。

物事を変えたいなら、変える力が欲しいなら、己を変えるしかないのだ。


それは、父や家臣たちに迎合することではない。

本当に望むものと、そうでないものを見極めることだ。

瑞穂が真に望んでいたのは、民に安寧をもたらすことだった。

ならば、父や家臣たちに、ありのままの自分を受け入れてもらうという幻想は捨てるべきだった。

意固地になって、自分の正しさを彼らに分かってもらおうと躍起になったせいで、民を救い、瑞穂もまた救われるという、心の底から望んでいた輪から出てしまうことになった。


では、今は?


妖の治療は楽しいことばかりではない。

時には治せない、救えないこともある。

自分の不甲斐なさを嘆き、逃げ出したくなる時もある。

でも、どんなに苦しくても、瑞穂は、妖を癒すために走り続けてきた。


瑞穂が本当にやりたいのは、妖を救うことなのだ。


誰に何と言われようと、偽善であっても、自分の知識で、力で、妖を救うことは、瑞穂にとって何にも代えがたい喜びなのだ。

これは絶対に手放してはいけない。

だが、今また、妖との救いの輪からはじき出されようとしている。


「瑞穂さ、助けてくれって誰かに言ったことあるか? 周りにはおまえのことを助けたいって、思ってるやつもいるんだぞ。それを受け入れてみろよ」


瑞穂はずっと一人でやってきた。それは他人を巻き込みたくなかったからだ。

しかし、それは建前で、心の底では自尊心の欠片がずっとくすぶっていた。

己の力を証明したかったのである。自分は非力ではないと。だから人の助けは受け入れられなかった。

ずっとそばにいてくれた源四郎にすら助けは乞えず、また彼からの助言も拒んだ。


だけど、一人でできることには限界がある。


それは神もおなじだ。神とてみなどこか欠けている。八百万も神がいるのは、そんな不完全さを補い合い、助け合うためなのだ。


「診療所を守るために力を貸してくれ」


瑞穂は楓とゴンに頭をさげた。




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