屋敷ー1
「…穂。瑞穂!」
凛とした声が耳に届く。
瑞穂が目を開けると、そこには心配そうな顔で瑞穂の顔を覗き込む蘭の姿があった。
「ああよかった。急に倒れたて聞いて、びっくりしたんやで」
体を起こすと、そこは見慣れた寝室だった。
「目が覚めましたか」
木蓮が扉を開けて寝室に入って来た。
「おれは…」
「庭で倒れたんや」
ひどい頭痛がしたところまでは覚えているがそのあとの記憶がない。
「ひどくうなされていましたけど、大丈夫ですか?」
大丈夫。ではなかった。
もう頭痛はなくなっているがその代わり、胸に重い鉛がつっかえているような気分だった。
「おれ、思いだしたんだ」
蘭が首を傾げる。
「人間だったときのこと」
木蓮は瑞穂の傍らに座った。
「おめでとうございます。魂帰りですね」
瑞穂は木蓮の顔を睨んだ。
「おや。魂帰り、ご存知ないですか?」
「いや知ってるけど」
魂帰りとは、人から妖、神になった者が、人間だった頃の記憶を取り戻すことを言う。瑞穂はけっして、おめでとうと言われる気分ではなかった。
「これで名実ともに神になったわけですね」
蘭が不思議そうな顔をした。
「瑞穂はもともと神さんやんか」
「彼は、神力と引き換えに記憶を封じていたんだよ。記憶が戻ったということは、神力も解き放たれたということ。これで神として、まともな神力を使えるようになる」
「自分で神力と記憶を封じていたっていうのか?」
「正しくは記憶を封じるために使っていた神力が使えるようになった。ですね」
「せやけど何で今、記憶がよみがえったんや」
「心身に負荷がかかって、記憶を封じている余裕がなくなったんだろうね。ですが、これで診療所の仕事ももっと――」
「診療所は、このまま閉めようと思う」
蘭がぎょっとした顔をする。
「何言うてんの。あんた何のためにここまで頑張ってきたん」
「神力がもどったなら、もう妖を診る必要もないだろ。神力がないから仕方なく始めたことなんだし」
瑞穂は天気を確かめるように窓の外を見つめていた。
そんな瑞穂の胸ぐらを蘭がひっつかんで無理やり自分に向ける。
「それ本気で言ってんのか。揚戸与を助けてくれたときは…。今までここで診てきたもんらのことは、皆仕方ないから診てやってたんか」
いつもの凛とした声が、少し鼻にかかって聞こえる。
瑞穂は窓の外を見つめたまま何も答えない。
「それにゴンと楓はどうする気。二人の居場所、見つけてきたんやで」
「木蓮に行ってもらえばいい。おれが行くより確実だろ」
「困りましたね。二人の幽閉場所は神の祟りがあるらしいのです」
木蓮は考え込むような素振りを見せる。
「そうだ。ではこうしましょう。私への借りを返してもらうということで、いかがです?」
「なんで今?」
「ああ! 可愛い弟子が攫われて心配でたまらないなあ」
「木蓮なら祟りくらいどうとでも…」
「そんな恐ろしい場所に行くなんて嫌ですよ。さあ、今が借りを返すときです」
それにまだもう一つ貸しは残ってますし? と木蓮は愉快そうに言う。
「…わかった。行ってくる」
診療所の件をどうするとしても、楓とゴンはさすがにこのまま見捨てておけない。
木蓮が行かないのなら瑞穂が行くしかない。
「あんたいつか誰かに刺されんようにしいや」
蘭は呆れた顔で木蓮を見つめていた。
「じゃあ、まずは蘭が刺してみるかい?」
木蓮は楽しそうに彼女を見つめ返す。
蘭はやめとくわ、と言ってそのまま寝室から出て行った。
炬燵の上に広げた地図を見ながら、蘭は二人が幽閉されているという屋敷の場所を教えてくれた。
その屋敷というのは、もとは名のある大名の屋敷だったらしい。ただ高樹齢の霊木を切り倒してからというもの、霊木に宿っていた神に一族郎党まで祟られることになった。
その後も、家主が変わる度に不幸が続き、しばらくの間、誰も住まなくなっていた。
ところが近年その屋敷が修繕され、以降、重要文化財として保存対象となっている。
ということだった。
「何でそんなところに連れて行かれたんだ?」
「祟られた屋敷なんか誰も近寄らんしなあ。二人を隠すのに都合よかったんちゃうか」
それならば監督署のどこかにでも幽閉しておけばよいのではないだろうか。祟られた屋敷など幽閉する側も危険だろう。
「二人の気を狂わせるつもりでしょう」
そうさらりと言い放った木蓮は、自分で淹れた香嘉を飲んでいた。
「それじゃ二人はもう…」
楓とゴンが連れされられてすでに四日。
四日間も祟られた屋敷にいて正気でいられるはずがない。
瑞穂は最悪の状況を想像した。
「守護の螺鈿があれば問題ありません。ゴンも螺鈿の近くに居れば安全ですし、仮に二人が一緒にいなかったとしても、まあなんとかしてるでしょう」
木蓮は二人を信頼しているのか、それとも興味がないのか。
「せやかて早行ったほうがええわ。そろそろ監督署も動きだすかもしらん。瑞穂が屋敷に行ってる間に、私は署長に探りをいれとく」
「やめろ蘭まで狙われるじゃないか」
「そんなへませえへん。あんたは自分と二人の心配だけしとき」
「私はここで留守番をしてましょう」
「ここで?」
「はい。彼らはどうとでも理由をつけて、あなたの大切な薬や診察道具を押収しに来ますから」
適当に追い払っておきます、と言って木蓮は寝転がり、ゴンが放っておいた漫画を読み始めた。
身支度を整えた瑞穂に、蘭が自分の着物を差し出す。
「これで神堕ちの鼻もごまかせる」
瑞穂は蘭の着物を羽織って二人が幽閉されている屋敷へと向かった。
まだ昼だというのに外は凍えるほど寒かった。
山に入れば雪もちらつきはじめる。風が刃物のように足を切りつけていく。
蛇曲した山道は、なぜか登るほどに谷底に落ちていくような空寒い感覚に陥らせる。
瑞穂は歩きながら、夢で見た光景を思い出していた。
人間だった頃の瑞穂は、結局誰も守れず多くの人を死なせてしまった。
源四郎にしても、本当は、会いに来るなと言えばよかった。謹慎処分となった自分と関わっていては源四郎の心証が悪くなることは分かっていた。分かっていながら、来るなと言えなかった。
寂しかったのだ。
独り部屋に幽閉され、他者との関りを断たれ、みなに忘れ去られていくことが、恐ろしくて、悲しくて、寂しかった。
でも、それは弱さである。源四郎のことを思えば、自分から遠ざけるのが一番だった。
だから今度こそは、守らなければならない。もうすでに楓とゴンは巻き込まれてしまっているが、屋敷から無事二人を助け出せたら、瑞穂は二人を解雇しようと思っていた。
二人と雇用契約を結んで、診療所の状況は大きく上向いた。
瑞穂自身も楓とゴンを頼りにしていたし、一緒に働けて楽しかった。
だけど、やっぱり二人を渦中に巻き込んでしまった。瑞穂には誰かを守る力なんてないのだ。
昔も、神になった今でさえも。
瑞穂の行く先には霧が立ち込めていた。
歩くほどにその霧は濃くなっていく。陽が落ちるにはまだ時間があるはずだが、霧のせいか辺りは薄暗くなっていた。
やっと濃霧をぬけたころ、斎藤邸と書かれた標識が見えた。例の祟られた屋敷である。
どうやら屋敷は観光地となっているらしい。屋敷へと続く大通りには土産物屋がずらりと並んでいる。
だが冬の間は客が来ないのか、ほとんどの店は閉まっていて、通りは閑散としていた。
建物の間を吹き抜ける風の音と、冷たい風に軋む看板の悲鳴が不気味に響く。
通りの最奥に現れた屋敷は、文化財というだけあってよく手入れされているが、敷地の外からでも不穏な空気が充満しているのが分かった。
(よくもこんな屋敷が…)
観光地として成り立つものだ。瑞穂は門の隅に佇む小屋に歩みを進める。
窓口にひとり女が座っている。顔は見えない。
声をかけるまでもなく、六百円です、と抑揚のない声がもれてきた。
瑞穂は硬貨を受け皿に置き、白い手が金と引き換えに入場券と書かれた紙を差し出した。
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