まほろばー3
宴が開かれている屋敷の広間に行くと、すでに酒盛りが始まっていた。
広間は飲んだくれている家臣たちと、その間を縫って駆けまわる下働きの者とでごったがえしている。
瑞之真は広間の隅に腰を下ろした。
みな酔いが回っているせいか、久しぶりに瑞之真が姿を現しても、誰も気づかない。
せわしなく駆けまわる下女に声をかけ、料理を運んできてもらった。
瑞之真は運ばれてきた料理をつつきながら、周りの話声に耳を傾けていた。
「今年はひどい不作だったな。年貢も随分少なかったって話だ」
「ああ、去年の半分にも満たぬらしい」
「日照り続きであったからなあ、その影響だろう」
「西の村では流行り病もでたと言うぞ。すでに死人もかなり出ているそうな」
瑞穂は驚いた。まさか外がそんな状況だったとは知らなかった。思わず、後ろに座っていた者に尋ねる。
「死者数はどれくらいになる? 村の様子は? 見に行ったものはいないのか!」
小柄な男が瑞之真の顔を見ると「ひっ」と声をあげた。すぐに隣の男が諫める。
「すみません若。まさかこちらに顔を出されているとは知らず。もうお身体はよろしいので?」
瑞之真は何のことだか分からず答えにつまった。
「その…ご病気だと伺っていたのですが?」
なるほど。瑞之真は病だということにされていたのだ。病を理由に面会謝絶とでも言っておけば瑞之真を訪ねる者などいまい。
「私は病になどかかっていない。それより村は? 一体今どうなっている」
男たちは顔を見合わせた。
「私共も詳しくは知らぬのです」
瑞之真に迂闊なことを話して由丸一派や殿から目をつけられるのを心配しているのか、男たちは何を聞いても知らぬ存ぜぬを通した。
きっとこの広間にいる誰に聞いたところで同じだろう。
これはもう自分の目で確かめるしかない。
しばらく脱出を試みていなかった分、監視役も油断しているはずだ。今なら城を抜け出すことができるかもしれない。
瑞之真は広間の外に出た。月のない夜だった。抜け出すには最良である。
裏口へと急いでいると、後ろから声をかけられた。
瑞之真はびくりと体を震わせる。
後ろを振り返るとそこにいたのは、源四郎の妹だった。
「若様」
源四郎は瑞之真に詰め寄って来た。
暗くて最初はよく分からなかったが、彼女の瞳には涙が溢れていた。
「どうして兄を巻き込んだのです」
そういえば宴に源四郎の姿は見えなかった。食い意地のはっているあいつが馳走を逃すはずがない。
「すまないが、何のことを言っているんだ? 源四郎はどこにいる」
「どこって、もう一月以上も牢に入れられているのです。若様が兄上をそそのかしたから」
源四郎が牢に?
「私は外のことを何も知らないんだ。源四郎に何があったか教えてくれ」
源四郎の妹によると、源四郎は謹慎中の瑞之真に外の情報を密告していた疑いをかけられ牢に入れられたのだという。
瑞之真は源四郎が入れられた牢屋に向かった。牢番には少し金子を握らせた。
「源四郎!無事か」
牢に入れられた源四郎はげっそりと痩せていた。髪も髭もぼさぼさでひどい有様だった。
「若…だから言ったのです。家臣にも気を配ってくださいと」
源四郎の目から涙がこぼれた。彼は汚い床に頭をつけて呻くように泣く。
「あいつら…。若、逃げてください。もう何もかも、手遅れです」
「なんでお前がこんなところに入らないといけないんだ。こんなの間違っている。私が父上に直訴してくるから待ってろ!」
「駄目ですよ若! 逃げて…。逃げてください」
瑞之真は宴が開かれている広間に戻った。
「父上! 父上はどこにおられます!」
広間で大声を張り上げる。
「なんだうるさい。お前どうしてここにいるのだ。謹慎中のはずだろう」
「あら、殿が今日くらいは許してやろうとお言いになったのよ」
父は、由丸の母とともに酒を飲んでいた。
「父上、どうして源四郎を牢に入れているのです」
「源四郎? ああお前の周りをうろついていた源之助の倅か。あれは源之助が入れろと言ってきたのだ。自分の倅にはそれ相応の罰がいるとかなんとか言って」
「さようにございます若様。うちの倅は謹慎中の若に、出まかせばかり申し上げておったのです。だから殿に頼んで牢に入れて頂いたのです」
源之助は自分の家に火の粉が飛んでこないように、源四郎を切り捨てたのだ。
「それは濡れ衣です。すぐに源四郎を牢からだしてください!」
「お前は、しばらく謹慎していたにも関わらず何も反省しておらぬのだな! それが親に物申す態度か! おい、こいつを早くつまみ出せ!」
瑞之真は監視役に引きずられ、再び自室に軟禁された。
(なんとかしなければ)
その夜、瑞之真は中々寝付けず、すでに何回も読み返している本を片っ端から読んだ。すがるように、無我夢中で本を読み漁っているうちに、動揺した心が次第に静まっていくのを感じた。
本は瑞之真にとって一番の寄す処だった。
大丈夫。きっと源四郎のことも、村人たちのことも何とかできる。そう思えるようになって、気づけば文机の上で眠っていた――。
城内の騒がしい声で目が覚める。大勢の人が走り回る足音が聞こえる。
瑞之真が何事かと障子を開けると、垣根の向こうから、煙が上がっているのが見えた。しかも一つではない。
瑞之真は胸騒ぎがした。
普通の火事なら、あんなに遠く離れた場所で幾つも煙が上がるはずがない。
「瑞之真」
廊下から血相を変えて母がやって来た。
「母上、何があったのです?」
「一揆です。村の者たちが、ほう起したのですよ」
瑞之真は額から汗がふきだした。
まさか、ほう起するほど村人たちは追い詰められていたのか。
稲の不作についで、流行り病まで出始めたということだったが、これは予想よりも深刻な状況なのかもしれない。
瑞之真が走り出そうとしたそのとき、母が瑞之真の腕にしがみついた。
「行ってはなりません。お前は逃げるのです」
母まで源四郎と同じことを言う。
「何を言っているのです。早く一揆をとめないと、被害が広がってしまう」
「もうお前にはとめられぬのです」
瑞之真の胸が絞めつけられた。
母にすらそんな風に思われているとは。
世界中から自分は役立たずだと言われたような気がした。
「でも私にだって、まだ何かできるかもしれません。だから…」
「できぬのです。お前にもう力はない。殿は…由丸を世継ぎに決められたのです」
瑞之真は重い物で頭を殴られたような衝撃を受けた。
「いつ…?」
「以前から話はあったのです。ですが正式に決まったのは昨夜です」
源四郎の釈放を求めたから、また父の怒りを買ってしまったから、だから。
「この屋敷にいては危険です。彼らが年長のお前をこのまま置いておくはずがない。母は出家致しますから、お前もしばらくはどこかの寺に――」
瑞之真は母の言葉を最後まで聞かずに走り出した。
脇目もふらず、城の裏口から外に駆けだす。なぜか今日は、いつもの監視役は見当たらなかった。
城の外に出ると、あちらこちらで火の手が上がっているのが見えた。
辺りに人影はない。
ただ城から離れることだけを考え、瑞之真は荒れた田畑を彷徨うように歩いた。
「先生? 瑞穂先生か?」
振り返ると、村人の五平とお咲が幽霊でも見るような顔で立っていた。
「やっぱり瑞穂先生じゃ。生きとったんか。ちっとも姿が見えねえから、わしらは先生が死んでしもうたんやないか言うとったんや」
「すまない、ここに来られない事情があったんだ」
「先生、今までどこにおった。何で大変なときに来てくれんかったんじゃ」
「すまない」
「これ、お咲。先生にそんな口の利き方やめい。すまんな瑞穂先生」
「構わない。それより村は今どうなっている」
「お上は年貢を減らしてくれねえし、俺たちは明日の米もねえ」
「お父も兄も病で死んでしもた。もうどうやって生きていったらええか分からねえ」
この惨状を聞いていると、昨日の宴が、まるで夢物語のように感じられる。あの屋敷の中で、この惨状を知る者は一体どれほどいたのだろう。
瑞之真が二人と話していると、村人たちがぞろぞろと集まって来た。
「先生どないか助けてくれ。うちの倅も病でおっちんじまったんだ。今は母ちゃんも床に臥せっとる」
「瑞穂先生ならなんとかしてくれるじゃろ。いつもみたいに知恵を貸してくだせえ」
「家も焼かれちまって帰るところもねえんだ」
村人たちは必死だった。彼らは一揆を起こすほどに追い詰められているのだ。
だが、
(母上の言う通りだ)
勇んで披露した施策は誰の耳にも届かず、もはや跡継ぎでもなくなった瑞之真に、屋敷の者たちは見向きもしないだろう。
(結局私は…)
「皆を救うことはできない」
「そんなことない。先生はいつも助けてくれた」
「見捨てんとって!」
村人たちは瑞之真に泣いてすがり、懇願した。
まるで神に祈るかのように。
その期待も希望も、今の瑞之真にとっては心を削いでいく刃のようだった。一枚一枚皮を剥かれて、何の力もない自分がさらけ出されていく。
やがて村人たちは、立ち尽くすだけの瑞之真に失望したのか、一人、また一人とどこかへ消えていった。
瑞之真は畦道にひとり残された。陽が傾きはじめると風は冬の顔をして吹きつけてくる。
辛く当たる風から逃げるようにして、瑞之真は村から出た。
だが屋敷には帰れない。
あそこに自分の居場所はもうない。跡継ぎでない長男の行く末など知れている。
急にどす黒いものが腹の底から湧き上がってくるのを感じた。やがてそれは四肢を侵し、動きを鈍らせていく。瑞之真はその恐怖に抗うように走り出した。
どこに向かえばいいのか分からない。
でもとにかくどこか遠くへ、ここではないどこかへ行きたい。その一心だった。
目の前に果てしなく続く荒れた畦道をひたすら走る。草履の鼻緒が切れて足の裏から血が滲んでも、構わず走り続けた。
途中、大きな莚が被せられた丘が見えた。
遠目では何か分からなかったが、側まで行くとそれは丘ではなく、積み重ねられた村人の屍だと分かった。周囲は蠅が飛び交い、ひどい臭いが立ち込めている。
その脇を走り抜ける。
踏みしめる土は冷たく、風は向かってくるばかりで背を押してはくれない。
それでも、瑞之真は走り続けた。
いったいどれくらい走って来たのだろう。足の感覚がない。
走っているのか止まっているのかも、もう分からない。
何も聞こえない。
何も感じない。
ふと気がつくと、瑞之真の周りには、黄金に輝く稲田がどこまでも広がっていた。
優しく吹く風が、たわわに実った稲穂を撫でていく。
まるで、夕陽に赤く染められ揺れる稲は、眩しいほどに美しかった。
(よかった。これだけあればきっと皆を救える。まだ私は人を救える――)
皆って誰?
記憶に靄がかかって、うまく思いだせない。
救いたい人たちが、いたはずなのに。自分が守らなくてはいけなかったのに。
「こんなところで何してるの?」
振り返ると、女が三人、こちらを見つめている。
「私たちのお仲間かしら」
美しい、まるで女神の様な女が言った。
「あんた名はあるのか?」
たっぱのある女が言った。
思い出せるのは一つだけ。
「瑞穂」
「そう、瑞穂というのね。あなたに祝福の雨を贈りましょう」
そう言って、柔らかい眼差しの女が天に手をのばした。
すると雲一つない空から、さあっと雨が降ってきた。雨粒が夕陽を浴びて、きらきらと輝き、稲穂に降り注ぐ。
その雨は、暖かくて、なにもかも包み込んでくれるような、慈雨の雨だった。
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