まほろばー1
次の日の朝、瑞穂はなかなか起きられなかった。頭がずんと重い。
木蓮は昨日処置室で寝ていたはずだが、もう起きているだろうか。
「あなたがまたフラフラと外を出歩かないか見張らせてもらいます」と言っていたが、瑞穂は木蓮がなぜ診療所まで着いてきたのかよく分かっていなかった。
瑞穂はなんとか布団から這い出して身支度を整え、居間に向かった。
薄暗い居間はきんと冷えきっている。
「帰ってきてない、か」
(そういえば木蓮は、ゴンが連れ去られたことは知っているのだろうか)
いや、確実に知っている。瑞穂のことも、監督署の動きも全て把握していたのだ。ゴンがいなくなったことを知らないはずはない。
(知ったうえで、あの落ち着きようか)
愛弟子が行方不明というのに彼が焦っている様子は微塵もなかった。
もしかすると、木蓮はすでにゴンと楓の居場所を知っているのだろうか。だからあんなに落ち着いていられるのか。
「知りませんよ」
瑞穂が二人の居場所を聞くと、木蓮はあっさりと答えた。
「だったら…。ゴンのことは心配じゃないのか?」
瑞穂は自分でも驚くほど責めるような口調になってしまった。が木蓮は気にする様子はない。
「ゴンには身を守れるだけのすべは教えてあります。楓さんも螺鈿を持っているし、大丈夫でしょう」
「でも楓は、人間だと知られないだろうか」
「監督署の鼠ごときにあの術は見破れません。もちろん術を解くことも。彼女がそうしようと思わない限りはね」
「楓が追い詰められて術が解けてしまう、なんてことは?」
「彼女は強い方です。そう簡単に折れてしまうことはないでしょう」
瑞穂はなんだか苛々してきた。
瑞穂だって二人の事はよく知っているはずなのに、木蓮の方がゴンはもちろん楓のことまでよく分かっているという風だ。
世の中のことも、ゴンや楓のことまで、なんでも見透かして把握している。といわんばかりの彼の笑顔が段々憎たらしく思えてきた。
ズキッ。
頭痛がする。
しばらくおさまっていたのに。ここ数日の心労がたたっているのだろうか。以前より強さが増しているような気がする。
その日は、木蓮に見張られていることもあって、瑞穂は家で大人しく過ごしていた。というより本当はなにもやる気が起こらなかった。
護符や薬の調合、その他にやりたかったことはたくさんあったはずなのに、もう何もかもどうでもいい。
頭が重い。眠い。充分に睡眠はとったはずなのに、まだ眠り足りない。
だが、勝手に押しかけて来たとはいえ一応客人がいるときに寝室にこもっているのも心証が悪い。
瑞穂は重い体に鞭打って、最低限の家事や診療所の雑事をすませた。
そして夕刻、洗濯物を取り込みに庭に出た。
晴天は夕陽で赤く染まっている。
苦手なはずたったその赤い光に、今日はなぜか目を奪われた。
山に沈みゆく夕陽を見つめる。
目の奥が痛い。だけど夕陽から目が離せない。
陽光は瞳の奥底を照らして、まるで見たくないものまで暴きだしていくようだ。
やがて眩暈と頭痛が波のように押し寄せ、瑞穂はもはや立っていることもできず膝から崩れ落ちた。
遠くで木蓮の声が聞こえたのを最後に、そのまま意識が途絶えた。
* * *
「瑞之真。これ、起きなさい」
(瑞之真?もしかしておれに呼び掛けているのか)
「もう朝ですよ。いつまで寝ているのです」
瑞穂はそっと目を開いた。すると、どこかで見覚えのある優しい顔が瑞穂を覗き込んでいた。
「また書物を読みながら寝てしまったのでしょう」
風邪をひいても知りませんよ、と女が言った。
「すみません母上。ついつい夢中になって」
(母上? そうか…)
これは夢なのだ。人間だった頃の――。
瑞之真は母が去ったあと、おもむろに部屋の障子を開けた。
高い空と若い草の匂いが、新しい季節の到来を告げている。
ここは都から遠く離れた小国。
この国を治める武士の長男として瑞之真は生まれた。
武士といっても豪族にちょっと毛が生えたくらいのもので、都にいる武士たちからすれば、ほとんど農民と大差なく見えていただろう。
それでも瑞之真は、けっして豊かとも言えない、このちっぽけな国のことを気に入っていた。
簡単に朝餉をすませると、すぐに城の裏門に向かった。
今日も村の様子を見に行くのだ。
「あ、若! またお一人で外へ?」
源四郎が叫ぶ声が聞こえた。
源四郎は、家臣の一人である草間源助という男の三男で、瑞之真とは兄弟同然に育った仲だった。
「ならお前もついて来ればいい」
「そういう問題ではありません! どうせまた村にいらっしゃるのでしょう。殿に見つかったら何と言われるか。私もとばっちりを受けます」
「じゃあ一人で行ってくる」
瑞穂は裏門の小口戸を開けて外に出た。
「ああもう! 若!」
小高い丘の上にある屋敷から一歩出ると、辺りにはまだ朝霧が立ち込めていた。
芽吹いたばかりの幼い葉の上で、露がきらと輝く。
足元を吹き抜けていく冷たい風が心地いい。
「まったく、こちらがおちおちしていられません」
源四郎はぶつくさ文句をいいながら瑞穂のあとをついてきた。
「お前はおれの世話係ではないだろ」
「役職に関わらず若をお守りする責がございます。家来には!」
源四郎はずんずんと地を踏みしめながら歩いていた。
「もし若に何かあったら私が父上に責められて、父上は殿に咎められる。そしてうちの家は禄を減らされ一家滅亡です」
「大げさだな」
「家来とはそういうものです。主人の怒りを買ったら最後。家がお取り潰しになるなど、よくある話です。若もいずれ殿になるのですから、もう少し家来たちに興味を持ってください。でないとこの先、家来衆をまとめていけませんよ」
瑞穂は源四郎の話を上の空で聞きながら、辺りの様子に気を配っていた。
城下町へと抜ける坂を下っていくと、次第に霧が晴れてくる。
最近は気持ちのいい晴れの日が続いているが、その分例年より雨が少ないように思う。
池を見ても普段は見えない岩が顔をのぞかせている。
「源四郎、まずは水田を見に行こう」
城下町に抜ける道から逸れて、田畑が広がる、屋敷の南西に向かった。
水田にはきれいに苗が植えられていて、青々とした稲が朝の爽やかな風を受けてそよいでいる。
畦道を歩いていると、顔馴染みの助六がいた。
「おや瑞穂先生じゃ。今日も朝早くからご苦労なこって」
『瑞穂』というのは、瑞之真が村に来たときに使っている仮の名だった。だれも瑞穂が若殿であるということは知らない。
「おはよう。田や畑の調子はどうだ? 最近雨が少ないが影響はないか」
「まだこの季節じゃ、じきに梅雨でさあ。それより、この前先生が教えてくれた薬は、畑の虫によく効いたわ。さすが先生やいうて皆よろこんどった」
助六は数本残っている歯をにかっと見せて笑った。
瑞之真と源四郎は太陽が空のてっぺんに昇る頃まで、田や畑の様子を見てまわった。
雨が少ないとはいうものの、他には特段問題が出てきている様子はない。
瑞之真と源四郎は土手に腰かけ、持ってきた握り飯の包みを開いた。
「あの者たち、まさかここに来ているのが若だとは夢にも思っていないでしょうね」
源四郎はそうつぶやきながら瑞之真の持ってきた握り飯を頬張っている。瑞之真は城から持ってきた書物を読むのに夢中になっていて、源四郎の言葉はほとんど耳に入っていなかった。
「この書物にも飢饉の備えについて書かれている。異国では飢饉対策は当たり前のことなんだ」
「そんな遠くの国のことより、明日の朝議はどうするのです。父上の話しによると、どうやら今年は民に課す年貢を増やす方針とのこと。若も何か意見を求められることになるのですから――」
「年貢を増やす? そんな馬鹿な話が出ているのか?」
瑞之真は、ぱたんと本を閉じた。
「今は飢饉対策に力を入れるべきなのに!」
「そりゃあ飢饉になったら困りますけど、手っ取り早く豊かになれるものに人は飛びつきますからね。戦の備えなら感心を持たれやすいかと」
「戦だって食うものがなければ戦えない。この国は飢饉への危機感が薄すぎるんだ。もし干ばつにでもなったら、こんなちっぽけな国すぐに亡ぶ」
失うことへの備えより、富に満ちる希望のほうがずっと人を魅了する。そういう議題はみなの受けもいいだろう。
しかし富を得るにはまず、安定的な食料の確保が不可欠だ。
農作物は天候や自然災害によって思い通りにならないのが常である。
農作物の収穫量が減った場合の備えがいるのだ。
「明日の朝議で話すことは決まった」
「若、私は嫌な予感しかしないのですけれど」
源四郎はいつの間にか持ってきた握り飯を全部平らげていた。
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