「神堕ちに触れてはいけませんよ」


木蓮はそう言いつつも、瑞穂がやはり思った通りの神であると内心嬉しく思っていた。

神堕ちにすら情けをかける、神。


「おれ…どうかしてたな」

瑞穂は木蓮の言葉にはっとしたらしく、自分の行動が信じられないという表情で、木蓮に助けてくれたことの礼を言った。


「これで『貸し』が二つになりましたね」


木蓮は愉快だった。本当は、貸し借りにそれほど執着していたわけではない。

だがこの純朴そうな神を見ていると、ついつい悪戯心が顔を出してしまう。

瑞穂は案の定、木蓮の言葉を真に受けたらしく、重税でも課せられたような表情をしていた。

面白い神である。

蘭たちが何だかんだと世話を焼くのも分かる。


「では行きましょうか」

「へ? 行くってどこに?」

瑞穂は困惑した顔である。

「もちろんあなたの診療所へです」

木蓮はなかば呆れて診療所へと足を向けた。


この神はおそらく、どうして自分が神堕ちに襲われたのか分かっていないのだろう。もちろん木蓮がやってきた理由も分からない。

「木蓮はどうしてあそこにいたんだ?」

おかげで命拾いしましたけど、と瑞穂は力なく笑う。

「あなたに会いに行ったのです。診療所にいらっしゃらなかったので、神堕ちを探したほうが早いかなと」

木蓮は蘭から事の次第を聞き、監督署が神堕ちを使って瑞穂を始末しにかかるだろうと読んでいた。刀根沼の神をはじめ、すでに幾人かが、調教された神堕ちに喰われていたのだ。


木蓮はなんとしても瑞穂が消されるのを阻止したかった。

木蓮には、ずっと昔から抱いている、悲願があったのだ。それを叶えるためには、瑞穂の妖を癒す力がどうしても必要だった。


木蓮は――、神堕ちを救いたいのだ。


妻の環と出会ってから、木蓮はこの悲願に憑りつかれるようになった。

だが、未だ、その願いを果たすことはできていない。木蓮の力だけでは不可能なのだ。たとえ天才と言われようと、できぬことはある。

なら、自分に足りぬものを補えばいい。


木蓮は、瑞穂のような者が現れるのを待っていた。

彼の力を借りれば、神堕ちを救えるかもしれない。彼以上に適任な者はいないのだ。先日、楓の擬態術を依頼しに来たとき、そう確信した。

そんな彼を、監督署ごときに、むざむざ殺されてはたまらない。


「もしかして、あの神堕ちはおれを狙ってたんだろうか?」


瑞穂はやはり、自分の命が狙われていることに無自覚なようだ。これでは先が思いやられる。監督署の思うつぼだ。


だが、そう、彼は世俗に疎いのだ。

下界に隠居しているといっても、結局は方々に網をはって情報を集めている木蓮と違い、彼は生粋の世捨て神なのである。

天界の神々との交流はほとんどなく、下界の低級な妖を相手に診療をして慎ましく暮らしている。そんな神ならば、まさか自分が命を狙われるほど、誰かに嫉まれたり疎まれたりしているなど、夢にも思わないのだろう。


(これは、ゴンがやきもきさせられている様子が目に浮かぶな)


ゴンはああ見えて、心配性で世話焼きな子だ。

この純粋無垢な神に、さぞかし振り回されているのだろう。それにあの意志の強い人の娘である。

瑞穂の純粋な願いを叶えるために、楓が突破口を開き、ゴンが細々とした諸問題に対処する。

案外この三人は良い組み合わせなのかもしれない――。


「おそらく監督署は、あなたを葬り去るつもりなんです。先ほどの神堕ちがその証拠。あなたを襲うよう調教された痕がありましたから」


瑞穂はその言葉を聞いてひどく混乱しているようだ。なぜ自分が監督署に狙われるのかさっぱり分からないといった表情である。


「おかしいなとは思ったんだ。監査も呪術鑑定も、取ってつけたような感じで。でもどうしておれが狙われたんだろう。正直おれの診療所なんて目にもとまらないと思っていたけど」

「あなたの診療所はもう天界でもみな知っています。祭りでは救護所を取り仕切っておられたのでしょう? 今まで噂でしか聞いていなかった者も、あの祭りで直接あなたの診療を目の当たりにすることになった。あれから診療所の患者数が大幅に増えたのではないですか?」

瑞穂は納得、という顔で頷いた。


診療所に着くと、まず木蓮は診察室の中を見せてもらった。

霊力の低い瑞穂のような神が妖を治療するためには、霊力の高い薬草や長期錬成で完成する術などを用いているのだろう。

と予測していたが、これは期待以上である。


わずかな霊力でよくぞここまで。むしろ霊力が低かったことで、ここまで工夫したのだろうが、ここに辿り着くまでの努力はいかばかりか。

天才妖狐などともてはやされた木蓮も舌を巻くほどだった。というより、並みの妖では、この技術力の高さは分からないかもしれない。


瑞穂は木蓮が診察室の中を見ている間に香嘉を淹れてきてくれた。

その香りに木蓮は驚く。


「あなたも香嘉に陳皮を?」

「いやこれはゴンの調合だよ」


(ゴンは寺では絶対に陳皮を入れようとしなかったのに――)

木蓮はふふっと笑った。


瑞穂が出してくれた座布団に座り香嘉を飲んでいると、さっきの話に戻りますけど、と瑞穂が切り出した。

「ここの名が広まったからって、監督署はなぜ神堕ちを使ってまでおれを消そうとしたんだ? 検挙率をあげるためにここまでするだろうか」


検挙率の増高をねらった、監督署の自作自演。というのは木蓮も意を同じくするところだった。しかし、もちろん今回の不可解な事件はそれだけが理由ではない。


「私は、今回の一連の事件は、監督署の署長と一部の取り巻きたちの仕業だと思っています。署長の周りに熱狂的な信者がいることは?」

聞いたことがあります、と瑞穂が頷く。

「おそらく署長とその取り巻きは、彼らの物差しに違うものたちを断罪しているつもりなのです。常ならざるものは浄化すべし、という信条をもっているようですから」

「物差しというと、たとえばどんな?」

「明確には分かりませんが、狙われた者たちには共通点があります。一般的に忌み事とされていることを行っている、ということです」

瑞穂は眉頭を寄せる。

「刀根沼の神と神使は、主従の関係を超えて恋仲にありました。神と妖の恋があまり良く思われないのはご存じでしょう? そしてあなたは、神でありながら人ではなく妖を救っている」


人がそうであるように妖も、ときには神でさえも、空気に漂う不文律に縛られて生きている。

それが、たとえ虚ろな正しさにまみれた、歪な常識であったとしても、彼らは進んでその常識に浸り、溺れたがる。


木蓮はそういった者たちを嫌悪していた。憎んでいると言ってもいい。


誰が作ったかもわからぬ、常識という名の箱に、己を、他人を押し込めた果ては、ゆるやかな死しか待っていないというのに。

それでもなお、その歪な箱に入ろうともがく者たちのことを、木蓮は理解することができない。


妻の環には、

「そんなもの、みんな分かって入ってるんだ。そのほうが楽だからな」


と言われてしまったが、それは本当に、楽だと言えるのだろうか。

木蓮は今もまだ、彼女の言葉を飲み込めずにいる。


「理由はなんとなく分かった。でも刀根沼の神使をどうやって魔物にしたんだ? 誰にも気づかれずにそんなことができるだろうか」


木蓮は署長たちが使った手段を暴けていなかった。

木蓮だけではない。署長を疑っている者は他にもたくさんいた。

しかし――


「まだ証拠は見つかっていないのです」




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