鼠ー2
顔を上げると、首を傾げてこちらを見つめる蘭の姿があった。
「どうしたんだ」
瑞穂は抑揚のない声で返事をする。
「どうしたて。診療所が閉まってるて聞いて心配して来たんや」
あの二人は? と聞かれ、瑞穂は監査にやってきた鼠のこと、楓とゴンが連れ去られてしまったことを話した。
「あんた何で早く言わんかったんや!」
瑞穂はうな垂れた。
「ええわ。もう過ぎたことは仕方ない。最近の監督署が無茶なことしとるいうんは噂になっとったんや」
「おれも嫌な予感はしたんだ。だけど、二人を行かせてしまった」
「しゃあない。瑞穂が悪いわけとちゃう。私が二人の居場所探ってみるさかい、あんたは家でじっとしとき」
「おれも手伝わせてくれ。家でじっとなんかしてられない」
「あかん。当事者のあんたがうろちょろしてたら探られへんやろ。ええか、絶対家から出たらあかんで」
蘭はそう言い放って、そそくさと行ってしまった。
瑞穂はとぼとぼと家に帰って来た。
ひょっとして、という期待を込めて玄関の扉を開いたが、家にも診療所にもやはり二人の姿はなかった。
誰もいない居間はがらんとして、無言で瑞穂を糾弾してくるようだった。
ゴンが居候するようになってからずっと使っていなかった火石で炬燵と火鉢の火を点ける。
炬燵に入るとすぐに睡魔が襲ってきた。
ここ三日まともに眠れていなかったのだ。蘭に話したおかげで少し気が緩んだのか、三日分の疲れが一気にやってきた。
泥の中に沈んでいくように、瑞穂は夢に落ちていった。
翌朝、久しぶりに眠れたせいか、気分が少しよくなっていた。
だが二人は相変わらず帰ってきていない。
瑞穂は往診に行くことにした。
蘭には大人しくしているよう釘を刺されたが、やはり家でじっとしていると悪いことばかり考えてしまう。それに往診なら、仮に監督署に見つかったとしても、友人に会いに行くとでも言えば誤魔化せる。
診察鞄は持たずに最低限の道具だけを懐に忍ばせて診療所を出た。
今日はよく晴れた日で山道を歩けば、冷たい風も、むしろ爽やかに感じられる。
(家に籠っていなくて良かった)
瑞穂は言い訳をするように心の中で呟きながら、往診先に向かった。
「おう! 先生来てくれたのか」
目的の家に着くと、相変わらず威勢のいい天狗の声が出迎えてくれた。天狗の影から飛び出してきた子天狗が瑞穂の足にしがみつく。子天狗の頭を撫でてやりながら、瑞穂の目は天狗の足に向かう。
「義足が届いたんだな」
祟り沼にはまって失った右足の代わりに、真新しい義足がついていた。
「腕のいい職人を紹介してくれて感謝だ、先生。こりゃあ最高の義足だよ」
「見せてくれるか?」
天狗は当たり前よ! といって義足を外して瑞穂に渡してくれた。
義足の出来は天狗の言う通り素晴らしかった。
基材は石膏だが、なにか混ぜ物がしてあるようで体重をかけると絶妙にしなるようになっている。形状も無駄なく精巧に作られていて、もはや芸術品といっても過言ではなかった。
「だけんど先生。こんなところに来てていいのか? 聞いたぞ。診療所のこと」
天狗はその大きな図体に似合わない心細そうな顔で瑞穂を見やった。
「今日ここに来たことは内密に頼む」
「そりゃもちろん。先生は俺と一緒に茶をしばきに来ただけだ」
天狗はガハハと盛大に笑った。
部屋を包み込むような笑い声に、瑞穂は少し救われた気がした。
天狗の家を後にした瑞穂は刀根沼に向かう。
始めて見る刀根沼はしんと静まりかえっていた。
瑞穂は、反言術のときに見た梅園を思い出す。刀根沼神の心の内には美しい世界が広がっていた。
だが今、目の前に広がる景色には、生き物の気配を感じさせない静寂が満ちていた。
瑞穂はなんだか強烈な寂しさに襲われて、足早にその場から離れた。
得も言われぬ不安が腹の底から湧きおこる。
これからどうなるのだろう。二人は無事でいてくれているのだろうか。診療所はいつ再開できる? もしかしたら自分も刀根沼の神のように――。
夕陽が西の空を赤く染めていた。
明日は雨になるのか、いつの間にか鱗雲が出ている。
瑞穂は診療所へと続く道を、急いだ。
胸がざわつく。木々の枝が風に揺れてこすれる音が、なぜかいやに耳に響く。
瑞穂は、今になって蘭の言う通りにしておけばよかったと思いはじめていた。蘭はなにも邪魔だから瑞穂に家に居ろと言ったのではない。瑞穂の身を案じてくれたのだ。
瑞穂は恐ろしい予感を振り払うように先を急ぐ。
冬の山道、しかも陽が落ちるとさらに、辺りは不気味に感じられた。
冷たい風が吹きすさぶ中じとりと汗が背中を伝う。
心なしか、風の音に混じって奇妙な音が聞こえる気がする。
何か重い物を引きずるような――。
瑞穂は足が震えた。その足を拳で叩いてなんとか前に進む。
(まさか、そんなはずはない)
瑞穂は後ろを振り返れなかった。ここでもし、瑞穂が想像しているものに出くわしてしまったら、助かる見込みはほぼない。
診療所まではまだ距離がありすぎるし、逃げ込める神社なども近くにはない。
ただただ、この奇妙な物音が気のせいでありますように、とそう思いながら、瑞穂は勇気を振り絞って、恐る恐る後ろの様子を確認した。
今日は幸いにも満月だったので、夜の帳が降りてからも割と遠くまで見通せた。
今やってきた道を、目を凝らして確認する。
しかし、怪しいものはなにもいなかった。
瑞穂は、ほっと胸をなでおろす。
刀根沼を見に行ったりしたから、不安になっていたのだろう。先ほどまで聞こえていた奇妙な音も聞こえなくなった。ひょっとすると考えすぎて幻聴でも聴こえていたのかもしれない。
気を取り直して、残りの道を早く帰ろうと踵を返したとき――。
メキメキッ。
すぐ近くで木が裂ける大きな音がした。
瑞穂はビクッと体を震わせ音がした方を見ると、ぞっとするほど多くの目が林の中から瑞穂を見つめていた。
大きな鹿の形をした胴体から無数に伸びた人の頭。
瑞穂はその異様な姿を見つめた。恐怖はなかった。むしろ、哀れみに近い感情が湧きおこっていた。
鹿の胴体から伸びる顔はみんな違っていて、笑っているものや怒った顔のもの、それぞれ表情も違うのだが、皆、泣いていた。
「君たちは…」
神堕ちに言葉など通じるはずもないのに、瑞穂は語りかけずにおれなかった。
どうしてそんな姿に――。
神堕ちは以前出会ったもののように襲ってはこない。ただ瑞穂を見つめるばかりである。
瑞穂は、まるで神堕ちに魅入られてしまったように、手を伸ばした。
泣きながら笑う、その顔に手が触れそうになった瞬間、目の前の神堕ちは炎に包まれた。
月光のような淡く青白い炎に包まれる神堕ちは、まるで眠るように目を閉じ、塵となって消えていった。
「ゴン…?」
瑞穂は炎の先に目を見つめた。
すると、炎が消えた先、月明かりに照らされていたのはゴンではなく、木蓮だった。
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