鼠ー1
朝から厚い雪雲が垂れ込める寒い日だった。
一月も後半ともなると、この辺りはすっかり雪に閉ざされてしまう。
「これから雪の日は毎回休みでいいんじゃね」
今日は診療所の定休日だったので、ゴンは朝から炬燵にもぐったきりだった。
診療所の方が騒がしくなってきたので、瑞穂も手を止めて様子を伺いに行くと、待合にいたのは患者ではなく、妖雇用監督署の制服を着た妖たちだった。
背筋をすっと伸ばした生真面目そうな顔つきの半妖の鼠と、その後ろには仮面鬼と呼ばれる妖を連れている。仮面鬼は、主に荒事を専門とする請負人である。
そして鼠がつけている腕章には「監査」の文字が見えた。
「あなたがこの事業所の主神ですか?」
生真面目そうな顔つきの鼠は持っていた帳面を開いた。
「そうですけど」
瑞穂は自分の声が強ばっていることに気づいた。
監督署の監査は基本的に五月に行われる。ただしこれは定期監査の場合であって、もし何らかの規則違反が疑われる場合は、定期監査まで待たずに臨時監査が行われる。
つまり、この時期に監査にやってくるということは、瑞穂の診療所に規則違反疑いがかけられているということだ。
「で、報告のあった妖は――」
鼠は楓とゴンに目を向ける。
あなたたちですか、という鼠の目は二人を憐れむような見下すような目つきだ。
「瑞穂殿、あなたの事業所では、妖を不当雇用しているようですね」
「はい? 非神使契約の届け出をしているはずですが」
「いえ。こちらにそのような記録はございません」
「なに言ってんだよ。俺たち三人で監督署に行って登録したぞ」
ゴンが鼠に食って掛かりそうな勢いで言った。後ろで仮面鬼が動こうとしたのを鼠が手を挙げてとめた。
「ですから、記録がないのです。その場合、瑞穂殿、あなたには規則違反で、罰則があたえられます」
「めちゃくちゃなこと言わないで!」
楓もゴンに負けず劣らずの気迫で鼠に迫る。
「何か不備があったのなら、今から契約の申請をさせてください」
「それは認められません。あなたは妖たちに『操心術』をかけているという報告もあがっております」
操心術とはその名のとおり他人の心を己の意のままに操る術である。
「どこからそんな話が出て来たんですか?」
「情報源は安全上、公開できません」
「あなたがたはろくに調べもせず罰則を与えるのですか!」
「ですからこうやって、こんな下界の辺鄙なところまで伺ったのです。お二人には私どもと一緒に来ていただき、『操心術』を受けているか呪術鑑定を受けて頂きます」
楓がきっと鼠を睨んだ。
「いいわ。あんたたちと一緒に行ってあげる」
楓はそのまま瑞穂の前に進み出る。
「気がすむまで調べればいい。何にも出なくて恥をかくのはあんたたちよ」
楓はそう啖呵を切ったが瑞穂は内心不安だった。木蓮にかけてもらった擬態術が暴露されてしまうかもしれないと思ったのだ。
「ちなみに、彼らの呪術鑑定が終わるまで、ここは営業停止処分となっておりますので、その旨ご承知おきを」
鼠は踵を返して診療所から出て行った。楓とゴンもその後に続く。
ゴンは去り際、いざとなったらあんな鼠食ってやるよ、と小声で呟いた。
瑞穂は微笑んで見せたが、心中は穏やかではなかった。
確かに申請したはずの雇用契約の記録がないというのはどう考えてもおかしいし、百歩譲って何か申請時に不備があったのだとしても、それならそうと連絡があるはずである。さらに操心術に関してはでっちあげもいいところだ。
そうまでして、瑞穂の診療所を閉鎖させたい誰かの思惑が働いているような気がしてならなかった。
そして三日たっても楓とゴンは診療所に帰ってこなかった。それどころか何の音沙汰もなく、二人がどこに連れて行かれたのかも分からない。
(やはり無理やりにでも止めればよかった)
今になって、どうして楓とゴンを行かせたのかと瑞穂は自分を責めていた。考えてみれば監査自体おかしかったではないか。監査と言うより、すでに違反が確定しているような口ぶりだった。
もしかするとこうやって刀根沼の神たちも陥れられたのではないのか。
瑞穂は居ても立っても居られなくなって、急ぎ天界の妖雇用監督署に向かった。
長い順番待ちの末に呼ばれたのは、以前楓とゴンと一緒に契約の申請をした部屋と同じだった。ただ今回はあの若い女鼠ではなく、肥えた男の狸だった。
「今日は新規登録? ああ、ひとりなら記名の抹消ですね」
男鼠はさも分かってますよという風な顔で瑞穂に微笑んだ。
「いや、今日はうちで働いている妖の所在を確認しにきたんです」
狸は、とたんに怪訝な顔つきになる。
「ちょうど三日前に、ここの職員が監査にやってきて、うちで雇ってる妖を連れて行ったんです」
「ちょ、ちょっと待ってください」
狸は額の汗を拭った。
「何の話をされてるんです? 監査で、妖が連れて行かれたって?」
「そうです、操心術の疑いがあると言われ、彼らの呪術鑑定をすると。その後なんの連絡もないのですが、どうなってるんですか」
声が震える。
瑞穂は言いながら自分が苛立ってきているのを自覚していた。おそらくこの狸は監査のことなど知る立場にないのだろう。彼にあたるのはお門違いかもしれない。でも瑞穂は自分をおさえられなかった。
「そういわれましてもねえ…少しお待ちいただけますか」
彼は後ろの引き戸を開けて奥に引っ込んだのち、大きな帳面を持って帰って来た。
狸はのんびりと帳面をめくりはじめる。
「ほんとだ、確かにあなたの診療所? の監査記録がありますねえ」
「二人のことは書かれてます? 今どこにいるんですか」
「妖が監査で保護された場合、その居場所と言うのは、安全上機密情報になりますから、ここには記載されませんよ」
「じゃあ、呪術鑑定の進捗は? それも教えてもらえないんですか」
「只今鑑定中になってますねえ。鑑定が終わったら連絡が行きますから、それまでお待ちになってください」
そんな悠長に待っていられない。
「上の職員を出してもらえますか? あなたでは埒が明かない」
狸の頭の上に生えた耳がぴくりと動いた。
「取次はできませんよ。それに取り次いだところで答えは同じです。あなたは操心術の疑いがかけられてるんだから、妖たちに接触させるわけないでしょう」
「操心術なんて、そもそもそっちの作り話だろう。おれの罪をでっちあげて、あなた方は何をするつもりなんです!」
狸の表情が強ばる。
「これ以上難癖をつけるようなら警備の者をよびますよ」
瑞穂は拳を握りしめた。
やはり二人を行かせたのは間違いだった。どうしてあの時、心の奥底で鳴っていた警鐘に気づかなかった?
「わかりました。今日はこれで帰ります」
瑞穂は唇を噛みしめ、監督署をあとにした。
どこを歩いて帰って来たのかも分からないが、気づけば診療所の近くまで帰ってきていた。頭上を雪がちらつきはじめる。
「瑞穂」
凛とした声が聞こえた。
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