母ー2
その夜、三人で夕飯を食べながら、今日やってきた鼠の親子の話を楓に聞かせた。
すると楓は急に怒り出した。
「払えるわけないじゃん、そんなことしたって。今回くらい代金なしでもよかたんじゃないの?」
「そんなわけにいかないだろ。それに、瑞穂は別にいつでも良いって言ってやったんだ。かなり譲歩した方だと思うぞ」
「でも、その旦那さんがまた来たら、お金持っていかれちゃうかもしれないんでしょ? それでどうやって暮らしていくの?」
「そんなん言われたって俺は分かんねーよ」
ゴンは困り果てた様子で瑞穂を見た。
「楓、別に診察代はなくてもよかったんだが、定期的に様子をみるために――」
「そんなの分かってる! けど、その親子そのまま帰して、また旦那さんに殴られたらどうするの? それで痣を診て軟膏を塗って、また殴られる。そんなの意味ないでしょ」
楓は自分でも収集がつかなくなっているのか、怒りで震えていた。
「どうしたんだよおまえ。一体、瑞穂にどうして欲しいんだ」
「どして欲しいいって…。もういいよ! 二人とも分かんないなら、私が行ってくる」
楓は急に立ち上がると、足早に玄関の方へ向かう。
「おい、こんな時間にどこ行くんだよ!」
ゴンも慌てて立ち上がり楓のあとを追った。その背中を瑞穂が呼びとめる。
「ゴン。楓の話、聞いてやれ」
「は? え、うん。聞くけど。っておい楓、一人で行くなってば!」
楓は母子家庭で育ったのだ。もしかすると、自分の幼いころのことを思い出してしまったのかもしれない。
ゴンは楓の生い立ちを知らない。
瑞穂は今になってようやく、なぜ木蓮が楓の擬態術にゴンを参加させなかったのか、本当の意味で理解できた気がした。
瑞穂はひとり、家で二人の帰りを待った。
だが二人は中々帰ってこなかった。雪は降っていないが、年末の山間の夜は冷える。この寒空の下、まだ二人で話をしているのだろうか。
時計を見ると、すでに午後十時を回っていた。
瑞穂が、さすがに二人を探しに行った方がいいかと思い始めた頃、カラカラと玄関の引き戸が開く音とともに足音が聞こえてきた。
「ただいま」
ゴンが疲れた様子で居間に入ってきた。
「楓は?」
「もう寝るってさ」
ゴンは、さぶさぶ、と呟きながら炬燵に潜り込む。
「ずっと外で話してたのか?」
「いや、鼠の家に行ってきた」
「鼠って、今日受診に来たあの親子か?」
「そう。で、ずーっとあの母親の話を聞いてた」
ゴンはまだ食べかけだった夕飯を火の玉で温めなおす。
「母親とは何の話してきたんだ?」
「まあ旦那とのあれやこれやだな。鼠の女で母子家庭は、確かにキツイだろうけどさ」
瑞穂はゴンに茶を淹れてやった。
「楓の親の話は聞いたか?」
「うん、聞いた」
ゴンは瑞穂が淹れてやった熱い茶をすする。
「なんであいつが怒り出したのか、なんとなく分かった。けど、この先はもう俺たちの領域じゃねーよな」
ゴンは瑞穂に言っているというより、自分に言い聞かせているようだった。
楓に言われたように、あの親子が診察に通ってくるとしても、瑞穂は傷を治したり痛みを取ったりすることしかできない。
結局、旦那から守ってやれるわけではないのだ。
次の日、診療所を閉めた後、楓が木蓮のところに行きたいと言い出した。
「なんで師匠のとこに行くんだよ」
「追跡されないようにする術をかけて欲しいの」
「もしかして、あの鼠親子にか?」
「そう。じゃないとずっと元旦那さんに苦しめられ続けるでしょ」
ゴンは呆れた様子で天を仰ぐ。
「でも楓、対価はどうするんだ?」
きっと木蓮はまた「タダ」では依頼を受けてくれないだろう。
「それは、木蓮さんと相談する。とにかく駄目でも一回頼んでみたい」
これは木蓮に直接聞いてみるまで納得しない顔だ。
「ゴン、連れてってやってくれ」
「やだね! 瑞穂が行ってやれよ」
「おれはまだ診察記録を書かないといけないし、内職もたまってる」
瑞穂は診療所がこんなに忙しくなるとは思っていなかったので、正月向けのお守りや護符の作成を、稲荷神社の宇迦之御魂神から請け負ってしまっていたのだ。
「じゃ一人で行ってくる。提灯小僧に頼めば連れってくれるでしょ」
「だーかーら! 夜にひとりで出歩いたらあぶねーって言っただろ」
「大丈夫だってば。もうほっといてよ」
「ほっとけねーから言ってんだろ!」
と言ってからゴンは、はっとしたような顔をした。楓は訝し気な表情で首を傾げる。
「楓が…何か、に喰われでもしたら、瑞穂が責任を問われんだ。だから、困るよな瑞穂?」
「あ、ああ困る。だからゴン、一緒に行ってやりな」
ゴンはしばらくもごもごと口を動かしていたが、とうとう観念した顔で肩をすくめ、玄関に向かった。
楓はまだ不思議そうな表情を浮かべて瑞穂を見つめている。
「ほら、何してんだ行くんだろ。早く行って、ちゃっちゃと帰って来る!」
楓とゴンは二人で木蓮のもとに向かった。
瑞穂はその間に今日の診療記録に取り掛かる。本来なら患者の診察をしたときに書いたほうがいいのだが、最近は患者の数が多くこうやって記録が溜まってしまうこともしばしばだった
瑞穂は診察記録を書き終えたのち、台所で夕飯の用意を始めた。大根の皮を剥きながら、鼠親子のことを考える。
彼女は字も読めないと言っていた。
鼠の女は子どもを産むことが己の存在意義だと教え込まれる。勉学は必要ないとされ、字の読み書きすら教わらないことも珍しくない。そういう者が良い縁談に恵まれなかった場合、その末路は悲惨なものと聞く。
奴隷のようにこき使われるならまだいい方で、実験動物のように妖術の実験台にされたり、闇市で売られることになれば、買ってきた女を魔物に喰わせて愉しむような妖もいるという。
(まだ、おれにできることがあるだろうか)
楓は、あの親子のために木蓮の力を借りに行った。彼が協力してくれるかは分からないが、それでも、その姿はなんだか頼もしく、眩しく見えた。
瑞穂には人の手を借りるという発想がなかった。むしろ今までは、できるだけ他人の手を借りないようにして生きてきたのだ。
そんな生き方を、変えられるだろうか――。
考えごとをしながら包丁を動かしていると、いつのまにか大根は一反木綿に化けていた。
楓とゴンが帰って来たのは日付を超える少し前だった。
「どうだった?」
「木蓮さん、鼠さんたちに術をかけてくれた。すごかったよ!」
瑞穂も来たらよかったのに、と楓は顔を輝かせて、木蓮が鼠親子にかけたという術の詳細を話してくれた。
木蓮は今回、術の対価はいらないと言ったそうだが、瑞穂はまた彼に借りを作ってしまったようで少々気が重かった。
だが、これであの親子が、旦那から暴力を受ける心配がなくなったことは、素直に喜ばしい。
「俺もう限界。寝る」
明日は絶対起こすなよ、とゴンは釘を刺して炬燵にもぐりこんだ。
楓に振り回されて、ゴンは寝不足なのだ。
「あとは彼女の就職先ね」
「それなら、おれもちょっと考えてみたことがある」
楓は内廊下に置いてあった箱から蜜柑を取ってきて皮を剥きながら、瑞穂の話を聞いていた。
「山姥の奉公先が、向町の旅館だったと思うから、一度聞いてみようと思うんだ」
山姥は元遊女だったそうで、彼女も読み書きができない。山姥の職場の仲間もそういった者が多いと聞いたことがあった。
「ありがとう瑞穂」
楓は蜜柑を頬張りながら嬉しそうに微笑んでみせた。
数日後、あの鼠親子が再び診療所にやってきた。
「せんせい、ありがとございました。せんせが紹介してくれた旅館でやとってもらえることになっただ」
瑞穂は山姥に奉公先を確認して、直接その旅館に文を送ってみたのだ。
「よかったね」
楓も彼女の報告を嬉しそうに聞いていた。
「お姉さんもありがと。ほんとにおら、何てお礼を言ったらいいか」
鼠の母親は袖で涙を拭う。そして、袖の中から巾着を取り出して瑞穂に渡した。
「診察代はまだいい。しばらくの生活費がいるだろう」
「大丈夫だ。今月の手当が入ったから、少しは返せる」
「その手当というのは、どこからもらってるんだ?」
「ああ、せんせは男だから知らねえんだな。監督署の新しい署長さんが、母子家庭に毎月手当を出すってきまりを作ってくれたんだ。そのおかげで、なんとかおいらたちも生活していけるんだ」
瑞穂は監督署が母子家庭への手当を給付していたとは知らなかった。
「ほんと神様みてえなひとだ。とても同じ鼠とは思えねえ」
女鼠の憧れじゃ、と言って母親は微笑んだ。
『誰かが、神堕ちを差し向けたのでしょう』
瑞穂の頭の中に、木蓮の言葉が蘇った。
瑞穂には、署長の素顔が分からない。
手段を選ばず野心のままに行動する獣。
はたまた、
弱きものを救わんとする救世主。
対極に存在するこの二つの顔が同居することなどあるだろうか。
「せんせい」
瑞穂は母鼠の声にはっとする。
「このあざ、消してくんねえかな。職場にこれじゃあ、かっこわるいけ」
今は見えないものより、目の前にいるものに心血を注ごう。
「ああもちろん、診てみよう」
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