母ー1
楓が木蓮に擬態術をかけてもらってから数週間がたった。
あれから、楓は特になんの副作用もでていない。擬態の方も完璧で、人間の匂いは完全に消え、清々しい木の香りに包まれている。
「完全に、黒字化した」
母屋の居間で昼休憩を取っていた瑞穂と楓のところへゴンが出納簿を持って現れた。
「やったじゃん瑞穂」
楓が瑞穂の背中をばしん、と叩いたので、瑞穂は食べかけの握り飯を落っことす羽目になった。
「売り上げが伸びた要因は?」
瑞穂が落っことした握り飯を拾っている隣で、ゴンが炬燵の中に足を滑り込ませ、鮭の握り飯を手に取る。
「特に祭り以降毎週、新規患者数の最高記録を更新してるから、あれで診療所のことが広まったんだろうな」
「口コミ効果ね」
「あとは、回転率がよくなってるのも大きい」
「どういうこと?」
「楓が揉みほぐしと灸を始めて、腰痛や肩こりの患者を診るようになっただろ。んで、瑞穂が診られる患者が増えたんだよ」
「楓の売り上げも三分の一くらいあるな」
瑞穂はゴンの持ってきた出納簿をめくった。
「そう、瑞穂の新規患者獲得と、楓の患者の再診率の高さが、黒字化に貢献したんだ」
ちりんちりーん。
まだ休診中の札を下げていたはずだが、患者が来てしまったようだ。最近は、こうやって休診中であっても診て欲しいと言ってやってくる患者がちらほらいるのだ。腰痛程度ならば待ってもらうこともあるが、時には急患の場合もあるため、瑞穂は鈴が鳴ったら一応患者を確認しにいくようにしていた。
待合にいたのは、まだ幼い狐の妖だった。半妖の姿をした彼の三角の耳は、左側だけお辞儀をしてしまっている。
「あの、診療所と、いうのはこっ、ここであってますか」
幼い狐は目を彷徨わせ、おどおどした様子である。
「ここであってるよ」
楓はそう言うと、目で瑞穂に確認した。緊急の対応が必要そうには思えないが、通してと合図する。
「今日はどうしたのかな?」
座布団の上にちょこんと座った狐は、瑞穂とは目を合わせようとせず、うつむいたまま、もじもじしている。
「どこか痛い所があるのかい?」
瑞穂が狐の顔を覗き込むと、狐はわずかに目線を上げてちらりと瑞穂の顔を見たあと、着物の裾をいじりながらぼそぼそと口を開いた。
「お、お揚げが美味しくないんです」
瑞穂はすぐには、彼の言葉の意味が理解できなかった。狐の隣に座る楓を見やるが、楓も首を傾げている。
「ええっとそれは、つまり、以前は美味しく感じられたけど、今は美味しいと思えない。ってことかな?」
狐はまたちらっと瑞穂を見、頷いた。垂れ下がった左の耳が反動で上下に揺れる。
「そうか。じゃあ一度、体に悪い所がないか診てみよう」
瑞穂は聴魂器を取り出して狐の胸にあてた。気の巡りは問題ない。口腔内や舌にも異常はみられなかった。
体に異常がないとすれば、考えられるのは心因性の味覚異常である。
「最近、なにか嫌なことや、大変な出来事はなかったかい?」
狐はきゅっと着物の裾を握りしめた。
「ぼ、ぼくは、きつね、なんですけど。その、化けるのがうまくできなくて。できそこないの、きつねなんです」
瑞穂と楓は顔を見合わせた。
「化けられないからって出来損ないなんてことないよ」
楓は狐の背中をさすってやった。
「だって、化けられなかったら、妖狐じゃないもん。た、ただの狐、になっちゃう」
狐の目から大粒の涙がぼたぼたと膝の上に落ちた。
「誰かにそう言われたのか?」
瑞穂が手拭いを狐に渡してやると、狐はその手拭いで盛大に鼻をかんだ。
「うん。周りの狐に言われる。母さんや父さんも、たぶん…そう思ってる」
この狐の葛藤は瑞穂にもよく分かった。
瑞穂もまた、神でありながら神様らしいことは何一つできない自分を責め続けてきた。
自分の存在意義をどこにも見つけられない不安に苛まれ、焦燥感だけが募ってゆく。
一度その感情にのまれれば、触れるものすべてが自分を拒絶しているような気分になる。そんな不快な感情を何度味わったかしれない。
だが瑞穂はここ最近、自分の心情が変わりつつあるのに気づいていた。
稲の神としては役立たずであっても、妖の診療というものの中に、自分の居場所を見つけた。
一時、それも頭打ちの状態だったが、最近は一歩ずつ前に進むことができている気がするのだ。いつまた赤字になるか分からないし、課題だってまだたくさんある。でも、それもなんとか乗り越こえていける、そう思えるようになってきていた。
「君は何か好きなことはあるかい?」
唐突に聞かれ、狐は困惑したような顔を瑞穂に向ける。
「そ、そんなの、ありません。何をやっても上手にで、できないし」
「上手じゃなくてもいいんだ。ひととも比べなくていい。ただ自分が好きだな、と思えることだよ」
狐は視線を彷徨わせた。長い時間、考え込んだ後ついにぽそりと呟く。
「歌う、ことかな」
「あるじゃないか、好きなこと。ならそれを極めていきなさい。そうすればきっと、今度は周りの方が、君のことを羨ましいと思うようになるよ」
狐は半信半疑という顔で瑞穂の顔を見つめている。
「苦手なものがあってもいいのよ」
楓が狐の手を握る。
「この先生だって、稲の神様なのにお酒が飲めないんだから」
「そうなの?」
「そう。でもこうやって、妖たちに頼りにされてる」
そっか、と少し表情が和らいだ狐を連れて、楓は待合に出て行った。入れ替わりに、ゴンが襖を開けて顔をのぞかせる。
「薬とか出さなくていいのか?」
瑞穂は頷いた。
「じゃ次通すけど、楓は腰痛の婆ちゃん診てもらうから。手必要なら俺呼んで」
そう言ってゴンが案内してきたのは、ぐったりした子どもを抱いた半妖の女鼠と、母親の影に隠れる元気そうな子どもの鼠たちだった。
「せんせい、うちの子、どうしちまったのか。急に元気なくなって、赤いぶつぶつも出来て、さっぱり分からねくて…」
「落ち着いてください」
瑞穂はそう言いながら、自分も困惑しているのに気づいた。ぐったりした子どもだけでなく、その子を抱える母親もまた、体中、痣だらけだったのである。
(母親も気になるが、子どもが先だな)
瑞穂は心の中でつぶやきながら、ぐったりした子どもの着物をめくって発疹の具合を確認する。
「最近この子を、強い霊気に触れさせたり、食べさせたりしませんでしたか?」
「ええ? 強い霊気…だめだ、思いつかねえ」
「普段食べさせないものとか、行かないところに行ったとかは?」
動揺して口をぱくぱくさせている母親の代わりに、背中に隠れていた子どもが口を開いた。
「おいら知ってる。木霊さんに会った」
「ほう。木霊さんに何かもらった?」
「うん! 木の蜜舐めさせてくれた。こいついっぱいもらってた」
それだ。おそらくこの子は木霊が守っている霊木の樹液にまけたのである。
木霊は好意でしたことなのだろうが、子どもの妖に霊木の樹液は強すぎる。
瑞穂は薬棚から、炭粉を取り出して、神水に溶かし、子どもの発疹部分に塗りつけた。そして内服用の炭粉を母親に渡す。
「お母さん、これで少し楽になると思うから、水が飲めるようになったらこれを飲ませて。それで元気になりますよ」
「ああよかった。ありがとう、せんせい。ありがとう」
「次はお母さんの方を診ましょうか。それにしても酷い痣ですね、いったい――」
すると母親はさっと体を背けた。
「お、おらはいいんだ。慣れとるけ」
「え? でも痛いでしょう。骨に問題がないかだけでも――」
「大丈夫じゃ! 大げさなことせんでええ」
瑞穂はどうして彼女が診察を拒むのか不思議に思ったが、深追いしないことにした。体を診られるのが嫌なものもいるのだ。無理強いはできない。
「わかりました。それじゃあ待合に戻って、受付に声をかけてください」
鼠の親子は深々とお辞儀をして、診察室から出て行った。
ほどなくしてゴンが眉を寄せて診察室に入って来た。
「さっきの鼠、診察代払えないって言うんだけど」
「なんでだ?」
「分かんないけど、財布を忘れたわけじゃなさそうだ」
瑞穂はしばし考える。
「もう一度こっちに通してくれ」
ゴンに連れられ診察室に戻ってきた鼠の母親は、瑞穂が口を開く前に頭を下げた。
「すまねえ、せんせい。おらこの子が死んじまうんじゃないかと思って。でも今ちょっと金がなくて、そんで…」
「診察代は、また今度でもいい。ただ、金を払えない理由を聞かせてもらえるかな」
瑞穂は金が払えないことは正直どうでもよかった。そんなことより、やはり彼女の痣が気になるのだ。そしておそらく、あの痣は金が払えないことと、関係している――。
「おら最近、旦那と別れたんだ。昔から乱暴なひとだったけど、この前、こどもらに手をあげたから、おら家とびだして。でもすぐ居場所がみつかって、手当なんかも全部もってかれちまったんだ」
母親が語る内容は瑞穂が予想していた通りだった。鼠の妖社会は男尊女卑の文化が色濃く残っている。そのせいか、この母親のように男鼠から暴力を振るわれたり、金銭的に困窮している女性も多いのだ。
「言いにくいんだけんど、まだ仕事も見つかってなくて。その…おら字も読めねえから、すぐに仕事が見つかるか――」
「わかった。今日の診察代は分割払いにしておこう。そうだな、十二回に分けて、毎月一回払いに来る。払えない月があってもいい。ただその際も必ずここには来ること。いいね?」
「わかった。毎月必ず、返しにくる」
母親は再び深々とお辞儀をして帰って行った。
瑞穂は壁にもたれながら話を聞いていたゴンと目が合う。
「甘いと思うか」
「いや?」
ゴンはそれ以上何も言わずに番台に戻った。
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