天狐ー3

木蓮は水に溶かした顔料を筆に含ませると、楓を囲むように床に紋様を描き始めた。瑞穂は少し離れた所からその様子を見守る。雨戸が閉められたからか、外で遊んでいる子どもたちの声も聞こえなくなって、堂内は静まり返っていた。


木蓮が描いた、梵字の連なる紋様は、瑞穂は見たことのないものだった。


楓の正面に立った木蓮はまた両の手でパンと音を鳴らす。

すると梵字の連なりが、ぼうっと淡い青に光る。


「目をつぶって、三回深呼吸をしましょう」


楓は言われたとおりに目をつぶり、深く息を吸い込み、吐き出す。

楓が深呼吸を終えると、木蓮は梵字の周りをゆっくり歩きながら、楓への問いかけを始めた。


「楓さん、あなたはどうして妖になりたいのですか?」


「瑞穂の、診療所で働きたいから」


「なぜ診療所で働きたいのでしょう?」


木蓮の声は、まるで頭の中に直接語りかけてくるような不思議な響きをもっていた。


「瑞穂とゴンと一緒に働きたいから。あと妖の治療も、このままやっていきたいと思ってる、ので」


「どうして瑞穂さんとゴンと一緒に働きたいのです?」


「二人といるときは、自分が自然体でいられる。と思う。自分が、自分らしくいて、良いと思える」


楓は一言一言、確かめるように、言葉を紡ぐ。

梵字の周りを歩く木蓮が一歩踏み出すたびに、羽織がふわりと揺れていた。


「では、妖の治療を手伝いたいのはどうしてですか?」


「妖を助けることで、誰かに必要とされていると思える。誰かとの、つながりを感じられるから」


「それは『人と』でも良いのではないですか? なぜ人ではなく、妖なのでしょう?」


「最初は、偶然だったんです。偶然瑞穂の診療所に辿り着いて。瑞穂が妖を診ていたから、私も妖の治療を手伝いを始めた。でも、そうですね、なぜ人間じゃなく妖の治療を手伝いたいのかと言われたら、きっと私には人間より妖の方が身近だったから、だと思います」


「あなたは瑞穂さんの診療所で働き始めるまで、人の社会の中で、暮らしていたのでは?」


「そうです、普通に人間社会で生きてきました。でも…うちは母子家庭で、子どもの頃、お母さんが仕事のときはいつも独りだったんです。田舎だったから歳の近い子も少なくて。いつも寂しかった。そんな時に、一緒に遊んでくれた妖がいたの。お母さんが死んでしまったあとも、その妖が一緒にいてくれたから、私はあの日々を越えられた。今ここにいられるのは、彼らのおかげなんです」


楓は目をつぶったままだったが、涙が頬を静かに伝っていた。


「その妖は今どこに?」


「分かりません。就職して引っ越した時以来会ってないんです。でもいつも私が辛い時は人じゃなくて妖が側にいてくれた。職場の上司と喧嘩して、仕事を辞めたときも、また別の妖が瑞穂の診療所に導いてくれた」



「人であるあなたが妖を装うということは、言い方を変えれば妖を騙す。ともいえます。その点についてはどう思いますか?」


楓は険しい顔になった。

楓の患者への対応は瑞穂も認めるところだ。安心して彼女に妖の治療を任せられる。だがもし、診療所に来る妖たちが、実は楓は人間なのだと知ったら、どう思うだろう。楓に薬を飲ませている自分もまた、妖をだましている。瑞穂は時々後ろめたくなることがあった。


楓は険しい顔つきのまましばらく黙っていたが、躊躇いがちに話しはじめた。


「こんなこと言ったらいけないのかもしれないけど、それでも私はこにいたいんです。傷ついた妖の治療を手伝うようになって、今までずっと助けてもらうばかりだった妖に、今度は感謝してもらえるようになった。そうやって、与えて与えられてっていう、その輪の中に、私も入ることができた。それが嬉しいの。だから私は…ここにいたい。瑞穂とゴンと一緒に、妖の治療をやっていきたい」


木蓮は、楓の正面で足をとめて、彼女を見つめる。


「この術は擬態術です。あなたを妖に見せかける。でも時として、嘘が真になることもあります。妖を装ううちに、それが見せかけでは済まなくなるかもしれない。妖でも人でもない存在に、変わってしまうかもしれない。予測のつかない危険を背負い、それでもあなたは、妖に擬態することを望みますか?」


楓は目を開いて、木蓮をまっすぐに見据えた。


「はい。私は瑞穂とゴンと、妖を癒す道を選びます」


まるで楓の意思に呼応するように、青く光る紋様がぱっと蛍の様に小さな光の粒となって舞い上がった。

その光が消えると同時に、堂内の窓から陽の光が差し込んできた。

木蓮が床に描いた紋様は跡形もなく消えている。


「楓さん、お疲れさまでした。よく頑張りましたね」

木蓮が優しく楓に笑いかける。

「これで私、妖に見えるようになったんですか?」

「はい。これで、もうあなたが人間だと分かるものはいません」


そして木蓮は瑞穂の方に向き直る。

「瑞穂さんもお疲れさまでした。ただ見守るだけ、というのも辛かったでしょう」


その時、本堂の扉が開いてゴンと子どもたちが入って来た。

ゴンは涙を拭う楓に気づいて、木蓮を睨みつけた。

「なんで楓、泣いてんだよ」

「擬態術が成功したからだよ」

「なんで術をかけるだけで! 泣くことがあんだって聞いてんだ!」


ゴンの周りにはぼっと火の玉が点いた。


瑞穂はゴンに駆け寄ろうとした瞬間、身動きが取れなくなった。

足がすくむほどの霊気が、堂内に満ちたのだ。あまりに強い霊気で肌がちりちりと痛い。

木蓮は先ほどまでとは、まるで別人のような冷たい眼差しでゴンを見つめ返していた。

「お前は、なぜ私が術中お前を外へ出したか考えたかい?」

「何でって、それは…」

「お前が未熟すぎて、最後まで見届けられないからだよ」

「なんだよそれ! いい加減子ども扱いすんな。それに、楓が泣いてるのとは関係ないだろ」

「楓さんを泣かせたものより、彼女が泣いてでも手に入れたかったものを、考えなさい。見守る勇気が必要な時もあると、教えたでしょう」

ゴンは苦虫を嚙み潰したような顔をして、立ち尽くしていた。

楓が、ゴン、と呼んだ。

「心配してくれてありがとう。でも木蓮さんが悪いわけじゃないの。ただちょっと昔のことを思い出しちゃって、涙が出ただけだから」

ゴンの周りでくすぶっていた火の玉が、消えていく。


「ゴン兄、また怒られた」

瑞穂と一緒に二人の喧嘩を見ていた子どもたちが、口々にゴンを囃したてた。

「うっさいなお前ら」

ゴンはふてくされたように、ふんと鼻をならして本堂の裏口から出て行った。

木蓮はその背中を眺めながら溜息をつく。堂内に満ちていた強い霊気が、ひいていくのが分かった。

「すみませんね。まだまだ、子どもっぽい所があるでしょう、あの子。診療所ではちゃんとやってますか?」

「おれはとても頼りにしてます」

木蓮は安堵した様子で肩を落とした。

差し出がましいことを言うようですが。瑞穂は少し躊躇いがちに木蓮に話しかけた。「ゴンも擬態術に立ち会わせた方がよかったんじゃないですか?」

ゴンは楓が泣きだしたら、術を中断させようとしたかもしれない。だが、例えそうだとしても、実際に経験させてみなければ身にならないこともある。

木蓮は少し困ったような顔をした。

「まあ、術の対象が楓さんでなければ、よかったんですけどね」

言葉の意味が分からず逡巡している瑞穂の様子を察してか、木蓮が説明を加える。

「擬態術は自己暗示が鍵だと説明しましたが、そのためには彼女の『妖になりたい』という思いを確認する必要がありました。となると、どうしても彼女の過去やそれらにまつわる感情を確認することになりますから。そういったことは、私が聞き出した答えを聞くより、ゴンは彼女から直接聞きたいかな、と思ったんです」

(そんなことにまで気をまわしていたのか)

ならそうゴンに言ってやればいいのに。瑞穂は、木蓮が少しゴンに厳しすぎるような気がした。

だが親子というものは、そういうものなのかもしれない。近しいからこそ、言葉が足りなかったり、強すぎたりする。


その時、外で大きな物音がした。

木蓮が入り口の扉を開けると、表の広場には、寺の鐘を一飲みにできるくらい巨大な蛇がいた。だがその蛇はただの妖ではない。体の至る所に人の目や口、耳がついている。

「ほう、神堕ちがやってきましたね」

木蓮は鳥が止まり木にやってきたかのような気安さで言う。子どもたちも木蓮が開けた扉の隙間から外を覗く。

「どうやって結界の中に入って来たんだろう」

木蓮は不思議そうな顔をする。

結界の中に入って来たとすれば、それは恐らく――。

「楓のせいかもしれません。楓は結界を中和してしまうので」

「なんと。それは元々の体質ですか?」

「たぶんそうだと思います。瑞穂の結界もぼろぼろにしちゃって」

「それは興味深いですね。神の結界を破る人とは」

ねえねえ。狸の子が木蓮の袖を引っ張る。

「神堕ち、こっちくるよ」

「ああほんとだね。私が見に行ってくるから、お前たちはここから出てはいけないよ」

子どもたちは慣れた様子ではあい、と元気よく返事をする。

木蓮が表の扉から出ていくのと入れ替わりに、裏口からゴンが戻って来た。

「おい、表に神堕ちが来てるぞ!」

「ゴン兄遅いよ、もう先生行っちゃった」


瑞穂は子どもたちと一緒に外の様子をうかがった。

現れた神堕ちは、瑞穂がこの前出会ったものの倍ほどもある巨体だった。だがそんな神堕ちを怖れる様子もなく木蓮は軽い足取りで近づいていく。喰らいつこうとする神堕ちを巧みに避けながら、初めて楓に会った時のように、神堕ちの体を興味深げに隅々まで観察している。

「始まったよ」

瑞穂が振り返るとゴンがあきれ顔で外の様子を見ていた。

「何がだ?」

「師匠の神堕ち観察。いっつもああやって祓う前に観察すんだ。ほんと物好きだよなあ」


ただ木蓮は単に神堕ちを観察しているだけというわけでもないらしく、明らかに神堕ちの動きが鈍くなっていくのが分かる。

「木蓮さん何か術を使ってるの?」

「呪文とか唱えないから分かりにくいけど、観察しながら陣を描いてるんだと思う」


神堕ちは、ついにその首をもたげたまま完全に動きを止めた。そして徐々に神堕ちの体が透き通った水に変化していく。神堕ちの体がしっぽの先まで全て水になると、木蓮はその姿を見上げ、パンと手を鳴らした。と同時に、水になった神堕ちの体が一気に蒸発し霧となる。

霧はこの寒さのなか、霧散していく間に氷晶とななり、陽の光を浴び妖しげな光を放ちながら、木蓮の頭上を舞った。その光景は美しく恐ろしく、それでいて、なぜか慈愛に満ちているように感じられた。


すっかり霧が晴れると、こちらを振り返った木蓮の笑顔を合図に、子どもたちが一斉に本堂から飛びだし木蓮の元へ駆け寄っていく。


「さすがですね。思わず魅入ってしまった」

「私は祓うことしかできませんから」

木蓮は力なく笑った。

神堕ちはすでに神であった時の記憶や意識はないと言われている。そんなものに、木蓮は情けをかけているのだろうか。瑞穂はそんな彼が、少し意外だった。


「きらきらしてて綺麗だったよね。夢の中みたいだった!」

「別にただ神堕ちを祓っただけだろ。俺だってあれくらい――」

遅れて本堂から出てきた楓とゴンの話声が聞こえてくる。ゴンは、楓に今の木蓮の妖術について解説していた。

そんな二人を眺めながら、木蓮がふふっと嬉しそうに笑う。

「どうしました?」

「いや、確かに私とゴンは、似てるのかもしれないなあと」

木蓮は、凪のように穏やかな瞳で二人を見つめていた。

その隣で、瑞穂もこちらに歩いてくる二人の姿に目を向ける。


瑞穂は擬態術で初めて楓の診療所に対する思いを聞いた。楓が妖の診療に対してあんな風に思っていたとは知らなかった。

瑞穂は時々、楓は人間社会に帰るべきではと考えることがあった。瑞穂にとってはかけがえない仲間であるが、彼女にとっても同じとは限らない。人間である楓をこれ以上、この世界にとどめて置くことが果たして彼女にとって良いことなのか、という不安があった。

だが今日、楓の思いを聞いて、そんな不安を持つこと自体間違っている気がした。楓はこの世界に留まること、妖に擬態することの危険も承知で、自ら進む道を選んだ。その覚悟を誰が踏みにじれよう。

楓の人生を決めるのは、楓自身である。

『大切な人を見守る勇気も必要』

木蓮の言う通りだ。


そうだ、と木蓮は急に何か思い出した様子で庫裡に入っていった。

ほどなくして戻って来た彼は、手に小さな桐の箱を持っていた。

木蓮はその桐の箱を楓に手渡す。楓が箱の蓋を開けると、中には螺鈿の首飾りが入っていた。

「これ…、私がもらっていいんですか?」

楓は恐縮した様子で木蓮を見上げる。

「それは、人を守るために作られたものなんです。私が持っていても仕方ありませんから」

楓は恐る恐る首飾りを取り出して、身につけた。

「ありがとうございます。大事にします」

「その代わりと言ってはなんですが、これからもゴンのことを、よろしくお願いしますね」

朗らかに微笑む木蓮に、楓はわずかに首を傾げながら、はいと答える。

ゴンは瑞穂の隣で、何やらぶつぶつと小言を言っているようだった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る