天狐ー2

擬態術を記した書物があるという経蔵に向かう途中、回廊を歩きながら瑞穂は違和感を覚えた。本堂を出てから随分歩いているが、この寺はこんなに広かったのだろうか。境内に入った時はそれほど広い寺には見えなかった。


「妖術で空間を広げているのです。だから外から見た時より随分広く感じるでしょう」

心を見透かされたようで、瑞穂はなんだか落ち着かない気分になった。

「空間を広げるというのは、幻覚を見せるようなことでしょうか?」

「いえ幻覚ではなく、別々に存在する場所を妖術で繋げているのです。もうすでに、今歩いているこの回廊は、本堂があった場所からは遠く離れた場所なのですよ」


空間を操る妖術や神術というのは非常に高度な術式とされるいる。

離れた場所を移動する際、術式を発動させた者の力量によっては、移動するときに激しい乗り物酔いのような感覚を味わうこともある。


だが今、瑞穂は空間を移動していたことに全く気づかなかった。

こんなところからも木蓮の妖術がいかに優れているか、ということが知れてしまう。


回廊を歩いていると、庭の池に反射した陽の光が、回廊の壁と天井に、池の水面を映しだしていた。その、ゆらめく光の中を歩いていく木蓮は、どこか妖しげで少し恐ろしくも見えた。


経蔵に着くと、木蓮は柱にそっと手を触れる。かちゃり、と鍵の開く音がする。


経蔵の中に足を踏み入れた瑞穂は、蔵の中央に鎮座するように佇む大きな転輪蔵に圧倒された。さらにその転輪蔵を取り囲むように壁に取り付けられた書棚にもぎっしりと書物が並ぶ。


経蔵といっても中には経が収められているわけではなく、瑞穂の寝室に負けず劣らず、多岐にわたる分野の書物が収められていた。ただ瑞穂の書棚と違うところは、妖術に関する本が多いこと、そして人間が書いたものが多数含まれていることだった。

「はて、どこにしまったかな」

木蓮は転輪蔵を回して擬態術の記帳を探し始める。瑞穂は彼と一緒に記帳を探しながらも好奇心が抑えられず、ついつい関係なさそうな書物にも手が伸びてしまう。


ちょうど『沼の生態系』という書物を開きかけたとき、木蓮が唐突に話しかけた。

「ゴンを助けてくださって、ありがとうございました」

瑞穂は手をとめて木蓮の方に顔を向ける。一瞬、何のことだか分からなかったが、おそらくゴンに初めて会った時のことだろう。

「楓がたまたま傷ついたゴンを見つけて、診療所に連れて来たんです。それにおれも、ゴンに神堕ちから救ってもらいました」

木蓮はそうでしたか、と言って微笑んだ。その表情が誰かの顔を彷彿とさせる。

「ゴンは、あなたによく似てますよね」

木蓮はその言葉を聞いて心底驚いた様子だった。

「ゴンが私に…似てますか?」

「ええ。笑い方がそっくりだな、と」

「そんな風に言われたのは――初めてです」

流れるように朗々とした口調だった木蓮が珍しく言いよどんだ。そんなに意外なことだったのだろうか。


木蓮とゴンは血がつながっていないとはいえ、仕草や振る舞いというものは似るものだ。ゴンがお婆たちに見せる笑顔など、木蓮にそっくりである。

ここに来て瑞穂は、いつも木蓮のことを肯定的に話さないゴンが、それでもやはり、彼は木蓮の影響を受けて育ってきたのだな、と感じていた。


擬態術に関する記帳を見つけた瑞穂と木蓮は、また同じ回廊を戻り、今度は庫裡へと向かう。

「楓さんが人だと、公に知られなくて幸いでしたね」

蘭なんか血相を変えて私の所にやってきましたよ、と言って木蓮はくすくすと笑い声をもらす。

「危ない所でした」

薬の効果が切れたのが天幕の中だったのは、不幸中の幸いだった。

「監督署の署長も来ていたみたいですし、もし彼女たちに知られていたら、あなたの命も危ないところでしたね」

瑞穂は笑った。

「さすがにそれは大げさだろう」

木蓮は驚いた表情で首を傾げる。

「刀根沼の神がお隠れになったのを、ご存じないですか?」

瑞穂は驚きで歩みを止める。

「刀根沼の神…が?」

「噂では神堕ちに喰われたとか。ただ、神堕ちが頻繁に自然発生するとは考えにくい。おそらく誰かが差し向けたのでしょう」

木蓮は明言しなかったが、『誰か』とは監督署の署長のことだろうと察した。


木蓮が庫裡で必要なものを探している間、瑞穂は書院の縁側に腰かけて浄土庭園をぼんやり眺めながら、先ほどの木蓮の言葉を反芻していた。

もし本当に、監督署の署長が刀根沼の神に神堕ちを差し向けたとすれば、神使を魔物に転じさせたのも署長が疑わしい。

でもなぜ署長は、神堕ちを用いてまで刀根沼の神と神使を葬ったのか。

「監督署の検挙率がうなぎ登りなのよ」

雨音の言葉が頭の中をよぎった。署長は検挙率をあげるために、神使を魔物にし、刀根沼の神社を取り潰させ、さらに神まで滅したのだろうか。

(いったい、どうやって?) 

まず神使を魔物に転じさせた方法が分からない。誰にも知られず、常に神の側にいる神使にそんなことができるだろうか。

それに神堕ちを操るという話も聞いたことがない。神堕ちというのは魔物の中では霊力的にも凶暴性という点でも最上である。そんなものを、はたしてあの署長が意のままに操れるものか。

瑞穂は、やはり署長が神堕ちを差し向け、刀根沼の神を滅したという話は、俄かには信じられなかった。


「お待たせしました」

木蓮は両腕に大きな筆や顔料の入った篭、桶を抱えて戻って来た。瑞穂が荷を半分請け負い、二人で本堂に戻ると、残っていた楓とゴンは子どもたちと一緒に花札をして遊んでいるところだった。


「さあさあ、このお姉さんは大事な用事があるからね。お前たちはゴンと外で遊んでもらいなさい」

その言葉を聞いた子どもたちは顔を輝かせてゴンに飛びつく。

「は? なんでだよ! 俺もここに残るに決まって――」

「お前は、外」

木蓮がにっこりと笑うと、表の扉がひとりでに、ばたん、と音を立てて開いた。子どもたちは、納得のいかない顔をしているゴンの手を引いて外へ連れだしていった。


「静かになったところで、始めましょうか」

楓は少し心細そうな表情で瑞穂をちらりと見てから、はい、と返事をする。


木蓮は取ってきた顔料を桶に入れ、水を足して溶かしていく。

「この術は対象物を変化させる術の応用です。変化の術とは、そもそも本質的に対象物を変化させる術ではありません。ただ変化させたいものに見せかけるだけです。例えていうなら、役者と同じです。役者は役になりきって見た目や振る舞いを変化させますよね。でも本物になってしまうわけではない。変化の術で雪女になれば吹雪などの術を使えるようになりますが、それは雪女に変化することで、自分も吹雪が使えると自分自身に暗示をかけているのです。だから仮に変化したとしても暗示がうまくいっていなければ、変化した者の術は使えません」

瑞穂は、この前の祭りで龍に変化したものの龍の術を一つも使えなかった狐のことを思い出した。

「つまり、変化の術もこの擬態術も、その暗示の部分が重要だということです。術をかけるのは私ですが、楓さんが妖になりきる、そう自分に暗示をかけることが、術を成功させるためには必要となます」

楓はこくりと頷く。

「術中、私はあなたのことを色々と質問します。私に説明するというよりは、自分の気持ちを整理するつもりで答えてください。矛盾していたり、つじつまが合わなくても気にせず、思いつくままに答えてもらえれば結構です」

「おの、おれは何か手伝えること、ありますか?」

「瑞穂さんは証人として術の立ち合いをお願いします」


では、と木蓮は手をパンと鳴らす。すると、本堂の明かり窓が全て閉まり、堂内には蝋燭の明かりだけがぼうっと揺らめくのみとなった。

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