天狐ー1

師走。

瑞穂は障子の隙間から入ってくる冷気で目を覚ます。

障子を開けて外を覗くと、陽が昇ったばかりの空はよく晴れていたが、夜の間に降り積もったらしい真っ白な雪が、空と地の境界を曖昧にしていた。


瑞穂と楓、ゴンは提灯小僧の車に乗り込んで、ゴンの師匠である木蓮がいる寺に向かう。

途中、車は大きな湖の湖岸を走った。湖から吹きつける風は冷たいのに、きらきらと光る湖面のせいか、どこか清々しく感じられる。

見上げれば、雲が去った青い空には、うっすらと淡い月が出ていた。


「木蓮さんに会うのは久しぶり?」

「用事がなかったら帰んないしな」

ゴンは朝から不機嫌ぎみで、いつもより口数が少なかった。


湖に注ぐ川を辿って山道をゆくにつれ、段々と道は細くなる。瑞穂たちは寺へと続くなだらかな石段の手前で提灯小僧の車を降りた。


この辺りは診療所の辺りよりもずっと雪が深い。

まっさらな雪を踏みしめながら瑞穂たちは寺へと続く石段を登っていった。


石段を登ったさきには、朱色の古い楼門が立っていた。

門をくぐってさらに進むと、正面に本堂、そして右手には庫裡らしき建物と、左手に鐘楼があった。


「たぶん師匠は庫裡の方にいると思う」


ゴンはさっさと庫裡に行ってしまい、本堂前の広場に残された瑞穂と楓は、辺りの様子を伺いながら、ゴンが帰って来るのを待った。


「瑞穂さん、と楓さんでしょうか?」


後ろから声がして振り返ると、幼い狸を連れた男が、瑞穂たちを見つめていた。


瑞穂は一目見て、目の前にいる男が木蓮だと分かった。なぜなら彼が、まさに男でありながら傾国と言われるにふさわしい、妖麗な姿をしていたからである。


彼のわずかに茶を帯びた長い髪が陽に透けると、まるで黄玉のように輝き、非の打ち所のないその微笑みは、たとえそれがどれほど無理難題でも、対峙したものに諾と言わしめるような説得力があった。


呆けている瑞穂を不思議に思ったのか木蓮が首を傾げる。その姿を見て瑞穂は慌てて返事をする。


「そうです。今日は変なお願いをしてすみません」


瑞穂は自分で何と言っているかよく分からなかったが、木蓮は構いませんよ、といってにこりと笑った。

楓も自分同様呆けているのに気づいた瑞穂が楓の脇腹を小突く。


「あ、楓と言います。よろしくお願いします」


緊張している様子の楓に構わず、木蓮はその透き通った紺碧の瞳で、しげしげと楓を見つめていた。

そこへゴンが庫裡から戻って来た。


「なんだ外にいたのかよ」


裏まで探しに行ったのに、とゴンは少し不貞腐れ気味に言う。


「ああ、お帰り。元気にしてたかい?」


楓から視線を外してちらりと目を向けた木蓮に、ゴンはそっぽを向いたまま、うんと素っ気なく答える。

そんなゴンの態度を気にする様子もなく、というより楓が気になって仕方ないというふうで、木蓮は楓をじっくり観察し始めた。

楓は彼に見つめられて、ひどく居心地悪そうな様子でもじもじしている。


「そんなじろじろ見るなよ。失礼だろ」


ゴンが、そんな木蓮と楓の間に割って入った。

木蓮は邪魔をされて一瞬ムッとしたようだったが、ゴンを見降ろす表情はすぐに愉快そうな笑みに変わる。


「なにも取って食おうというわけではないよ」

「それでもちょっとは気つかえよな。こいつも一応女なんだから」


木蓮は、ほう、と感慨深げにゴンを見つめる。


「お前に女性のことを言われる日が来るとはね」

「なんだよ。常識を言っただけだだろ」


木蓮はふうんと意地悪そうに微笑んでから、楓に失礼しました、と頭を下げた。そして瑞穂の方に向き直る。


「立ち話もなんですから、どうぞ中へ」


案内された本堂の中には仏像はなく、一面畳を敷かれた広間のようになっていた。中二階はどうやら子どもたちの部屋として使われているようで、柵の隙間から玩具のようなものが覗いている。寺の子どもたちは瑞穂たちが堂内に入って来ると、手際よく座布団や茶を用意してくれた。


「楓さんにかけられた術は、瑞穂さんのものですか?」

木蓮から茶を受け取りながら瑞穂が頷く。

「変わった術をお使いですね。匂いを消すのと、付加するのは別々にしているのかな」

「そうです。白香草を中核成分とした匂い消し薬を作りました。木の香りは、香木そのものと、霊気から妖香への変換酵素をつくる酵母を混ぜてます」

木蓮は驚いたように目を見開いたあと、ずいと瑞穂に近寄る。

「素晴らしい。噂に聞いていた通りのお方ですね」


彼は、お会いできて嬉しいです、と言って瑞穂の手を取った。瑞穂はどう返していいものやら悩んだ末、笑ってみた。


「私がみる限り上手く人間の匂いを誤魔化せていると思うのですが、何を心配されているのでしょう?」

「おれが新しく作った薬なので、効果の持続時間も不明確だし、このまま楓に飲ませ続けて、副作用が出ないかも心配なんです」

「なるほど。新薬の効果や副作用について楓さんの体で試すのは忍びない。だから、私がもっと安全な方法を知っていたら教えてほしい、ということですね」

「はい。その通りです」

「確かに私は、人を妖に擬態させる方法を知っています」

「ならぜひ、その方法を教えてください」


瑞穂の胸は期待に膨らんだが、木蓮は中々首を縦に振ろうとしない。


「楓さんに術を施して差し上げてもいいですが、『タダ』でというわけにはいきません」


瑞穂は自分の浅はかさに、はっとした。ゴンの師匠ということで少し甘えてしまっていた。もし高額な費用を請求されたりしたら、瑞穂に支払う余裕はない。診療所が軌道に乗ってきたとはいえ、まだそれほど余裕があるわけではないのだ。


「なんだよ師匠。ケチだな。そんくらい、やってくれたっていいじゃ――」


まくし立てるゴンに、木蓮が手を挙げて制する。


「代金はいりません。その代わり瑞穂さん、あなたに一つ『貸し』ということで、どうでしょう?」


「それなら私が…」

楓が、おずと口を開いた。


「いえ。これは雇用主である瑞穂さんにお願いしましょう」


瑞穂は木蓮が何を考えているのか分からなかった。木蓮ほどの妖が、神といえど大した力もない瑞穂に「貸し」をつくったところで彼に利はあるのだろうか。


「お役に立てるかわかりませんが…それでいいのなら」

「神様に『貸し』をつくれるだけで、ありがたいことです」


朗らかに微笑む木蓮を、ゴンは訝し気な表情で見つめる。


契約成立ということでいいですね、と木蓮が念押しするので、瑞穂はぎこちなく頷いた。


「ではさっそく術の準備に取りかかりましょう」

と言って立ち上がろうとする木蓮を瑞穂は引きとめた。術に入る前に、詳細を聞いておきたい。


「どのような術をするつもりなんですか?」


木蓮は座布団の上に座り直した。


「擬態術、という術をかけようと思います。私の妻にかけていた術です」


瑞穂は驚いた。だから蘭は”木蓮なら人間に詳しい”と言っていたのだ。


「てことは、木蓮さんの奥さんって、人間だったんですか?」

瑞穂同様、驚いた様子の楓が聞いた。


「ええ、環という人間の女性でした。もう随分前に亡くなりましたが、術による副作用が出たことは一度もありませんでしたね。ただ彼女の場合は、という条件はつきますから、楓さんにも必ずしも安全とは限りません」

「どれくらいの間、術をかけて生活されてたんですか?」

「ちょうど百年です」


それだけの間、安全に暮らせていたのなら十分だろう。少なくとも瑞穂の作った薬よりは安全性が保障されている。

瑞穂は楓の様子をちらりとうかがった。楓は瑞穂の視線に気づき、真剣な表情で頷く。


「お願いします」

「わかりました。では瑞穂さん、一緒に準備を手伝っていただけますか?」


瑞穂は木蓮に連れられ本堂を出た。本堂を出るとき、残った楓とゴンの姿を振り返ると、少し不安そうにしている楓をゴンが励ましているのが見えた。

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