鎌鼬ー1

ある爽やかな晴れの日。

「さあ! 働くわよ」

楓が居間の障子を勢いよく開け放った。

「なにすんだ寒いだろ! 閉めろバ楓」

ゴンが炬燵から抗議の声をあげる。

「そろそろゴンも起きなよ。患者さん来ちゃうよ?」

「こんな早くに誰も来ねーよ。俺には睡眠が必要なんだ。誰かさんと違って頭使ってるからな」

楓は冷ややかな目でゴンを見降ろす。

「あんた、しっぽの先まで毛むしってあげようか。そしたら目覚めるでしょ」

「なっ。そんなことしたら楓の髪も全部燃やしてやるかんな!」


瑞穂は朝の恒例行事となりつつある二人の喧嘩を聞きながら、火鉢の横で香嘉を飲んでいた。

居間から見える空をぼんやり眺める。時折吹く風に乗って舞い散る紅葉が、どこまでも続く青い空を彩っていた。


ちりんちりん。

離れの方から、来訪者の訪れを報せる鈴が鳴った。

ほらやっぱり患者さん来たじゃない。楓はぶつぶつと文句を言いながら診療所の方へ向かった。瑞穂も飲みかけの香嘉を盆の上に置いて楓のあとを追う。


瑞穂が待合を覗くと、まだ朝早い時間だというのに、すでに四、五人の患者が長椅子に座って待っているのが見えた。

「一番目の患者さんは、もみほぐし希望だから私がみるね」

最近、楓は腰痛や肩こりの患者がくると、体のもみほぐしや灸、湿布薬の処方をやってくれていた。

楓のもみほぐしは評判がよく、それを目当てに診療所にやってくる患者も増えてきている。

「この小娘、中々やりおるわい」

常連の山姥もすっかり楓の揉みほぐしが気に入ったらしい。

楓が山姥の愚痴を聞いやるようになり、瑞穂は山姥の話で長い間拘束されることもなくなった。

これは、とてもありがたいことだった。瑞穂の患者もまた増えてきていたからである。

「やっぱり天狗のおっちゃんたちが広めてくれたのかな」

束の間の昼休憩。楓は火鉢で焼いておいた焼き芋を頬張っていた。

「忙しくなってきたよな。さっきも俺、漫画読む暇なかったし」


午後からは午前中よりもさらに患者が増えてきた。楓は患者の揉みほぐしと瑞穂の診療所の手伝いをせわしなくこなしていた。


「次の患者通すぞー」

ゴンに案内され診察室に現れた河童の緑の腹は、まるで妊婦のように大きく膨らんでいた。

「先生、腹がこんなになってしまって、もう重いわだるいわで、川を泳げないんだよ」

河童は今にも泣き出しそうな切実な顔で瑞穂に訴えた。

瑞穂が河童の腹に聴魂器を当てると、腹の中から、こぽこぽっと水が動く音がする。

「これは腹の中に水が溜まってるな」

「水でこんなに膨れてるんですか?」

河童は信じられないという表情で自分の腹を見つめた。

「そうだ。河童は元々腹や胸に水が溜まりやすいんだよ。最近あまりきゅうり食べてなかったんじゃないか?」

「あ、はい。今年の夏は、うちの畑のきゅうり不作だったんで。何で分かったんです? 先生」

「河童の体に水が溜まる時ってのは、たいていきゅうり不足なんだよ。きゅうりは体の水分を外に出す働きがあるからね」

「へええ。そうだったんですか。じゃ、きゅうり頑張って食べます」

「いや、ここまで水が溜まってしまってると、きゅうりだけでは時間がかかる。今抜いてしまおう」

河童はぎょっとした顔になる。

「ど、どうやって抜くんです?」

「痛み止めを塗ってそこから針を刺すんだ。聞くと恐いかもしれないけど、そんなに痛くないしすぐ終わるよ」

「腹に針を刺すなんて怖いですよ! 何か他に方法はないんですか?」

「あとは、きゅうりを食べることだけだ。でも、きゅうりで水が抜けるのを待っていたら、君は川で溺れてしまうかもしれないよ」

河童は頭を抱えて、しばし悩んでいた。瑞穂は河童が思案している間、診察記録を書きながら静かに待ってやる。

「分かった。先生。やってください」

河童は意を決したという表情で瑞穂をまっすぐに見つめていた。

「よし。じゃあ準備をするから少し待っていて」

瑞穂は処置室で、一つ目女の体を揉みほぐしている楓に声をかけた。

「終わったら、そっちに行くわ」


瑞穂は楓が来るまでの間に、河童の腹に溜まった水を抜く準備を整えた。

「それじゃあ上向きに寝てもらえるかな」

河童は診察室の畳の上に横たわった。

先ずは針を刺す場所を確認する。瑞穂は河童の臍から三横指分、足の方向へずれた箇所に筆で印を点ける。

「少し冷たいですよ」

印をつけた場所に、鎮痛軟膏を塗る。河童は軟膏が冷たかったようで、わずかに体を震わせたが何も言わず、ぎゅっと目をつぶっている。

瑞穂は、軟膏の鎮痛効果が表れるまで少し待ったのち、針を手にした。

「じゃあ今から、腹に針を刺します。痛み止めを塗ってるから痛くないと思うけど、もし耐えられないほど痛いようなら教えてください」

河童は目をつぶったまま黙って頷いた。

瑞穂は持っている針を、先ほど印を点けた所に直角に突き刺し、腹の中にたまっていた水がじわじわと、針の中からあふれ出てくるのを確認したのち、楓が瑞穂に代わって腹に刺さった針を指でつまんで支えた。河童は静かに黙って、目をつぶったままだった。

瑞穂は楓が支えている針に、蕗で作った管を接続し、さらにその管の先に風船を取り付けた。

瑞穂が管の先端に取り付けた風船に手を当てると、風船は徐々に膨らんでいく。風船が膨らむ際にかかる陰圧を利用して、腹の水を引くのである。

「今、順調に腹の水が抜けていってます。気分は悪くないですか?」

河童は相変わらず目をぎゅっとつぶったまま、蚊の鳴くような声ではいと答えた。

静かな診察室には、待合の患者たちの声が聞こえてくる。何を言っているのかまでは聞き取れなかったが、急に大きな男の声が聞こえてきた。断片的にしか聞こえないが、どこかが痛いと言って喚いているようだ。

少しお待ちください。という声のすぐあと診察室の襖が開いて、ゴンが中に入ってきた。

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