鶴ー2

運動場に着くと、瑞穂は適当な木の棒を拾ってきて、運動場に大きな五芒星を描いた。

この五芒星を用いて、まずは翁が見せられている幻を現にする。


「爺さん。ここに座っててくれな」

瑞穂は翁を五芒星の中心に座らせ、自分は五芒星の外に出る。が翁も瑞穂と一緒に五芒星から出てきてしまった。

「え? なんじゃ? わしも手伝おうか」

再び翁を連れて五芒星の中に入るが、翁は指示がよく理解できないらしく、中々じっとしていてくれない。困り果てる瑞穂を見かねて、ゴンが翁の手を引いて五芒星の中心に連れて行く。

「ほらこれやるから、ここから絶対出ちゃだめだぞ。爺さんが出たら俺、あのお姉さんにしばかれちゃうんだ。だから協力してくれ」

爺さんはゴンからもらった飴玉を舐めながら、任しときな、と言って五芒星の中心に座った。


瑞穂は翁が大人しく座ったのを確認すると、指先に傷をつけそこから血を絞り出して五芒星の角にそれぞれ一滴ずつたらした。

そして、幻を表せ! と五芒星に向かって叫ぶ。

すると、翁の体が次第にゆらゆらと揺らめきだし、何かがぶわりと飛び出してきた。その何かは一直線に楓に向かってくる。

楓がひゃあ! と叫んだのと、ゴンが滅! と叫んだのがほぼ同時だった。

翁から飛び出した何かは、粉々に粉砕され楓の頭上に降り注いだ。

「うわ、うへえ。最悪」

「あ、ごめん。わざと」

ゴンは意地悪い笑みを浮かべて粉まみれの楓を見下ろしていた。

「ひっどい!」

楓は頭に被った粉を必死にはたきながらゴンを睨みつける。

「吸魂虫に魂吸われるよりマシだろ」

吸魂虫は卵を産むために妖や人間の魂を吸う魔物の類だ。

「よくあれが吸魂虫だってわかったな」

「俺、動体視力いいからな。そんなことより幻術解けたけど爺さんどうなんだよ」

瑞穂は五芒星の中で大人しく座っている翁の側に近寄った。

「爺さん、気分はどうだ?」

「うん? そういや肩こりが楽になったかのう」

翁は自分の肩をぐるんと回して見せた。


先ほどよりは体が軽そうに見えるものの、まだ呪いの臭いは消えておらず、翁が一体なんの妖なのか匂いで判別することもできなかった。翁にかけられた幻術はやはり一つではなかったのだ。


瑞穂は翁から離れて再度五芒星の角に血を垂らして周り、少し離れたところで見守っていた楓とゴンの側に戻る。

「また幻が現れたら頼む」

ゴンは伸びをしながら、はいはい、と答えた。


瑞穂が幻を表せ! と叫ぶと、辺りが徐々にぼんやりと明るくなり、吹きすさんでいた風が止んで、暖かな空気が瑞穂たちの体を包んだ。かじかんでいた手足の緊張が解けていく。

そして、どこからともなく桜の花びらが舞い落ちてきた。

「なんと可愛らしい奴らじゃ」

背後から耳をくすぐる甘い声が聞こえたかと思うと、背中に誰かが抱きついてきた。

後ろから首をのばして瑞穂の目を覗き込んできたのは、とろけるような瞳の美しい天女だった。

羽衣をなびかせ、流線形を描くその豊満な体を惜しげもなく瑞穂の体に密着させてくる。

暖かな空気とともに天女に抱きしめられ、瑞穂は段々と心まで解きほぐされていくような感覚にひたった。

となりにいるゴンの方を見れば、天女に囲まれ夢を見ているような表情である。

「二人とも! そんな幻にほだされてる場合じゃないでしょ!」

夢をぶち壊すような声が響いた。

楓が腰に手を当て、しかめ面で睨みつけてくる。どうして楓はそんなに怒っているのだろうか。

「楓もたまには息抜きしようぜ。別に悪い幻でもないし、すぐに祓わなくたって、いいよなあ、瑞穂」

ゴンはどこを見ているのか分からないような目つきで瑞穂に同意を求める。

(そうだ。ここ最近、大変なことばかりだったじゃないか)

この幻は害を与えるものではなさそうだ。しばし、この夢に揺蕩っていたところで問題あるまい。

微睡むように頷く瑞穂の頬を、柔らかな手が滑っていく。天女は瑞穂の首に腕をまわし、さらに体を寄せる。彼女の髪からはふわりと甘い花の香りがして、それは瑞穂の心の奥深くまで届いた。

体の痛みや苦しみが消え、まるであたたかな海を漂うように、彼女に体をゆだね、思考を手放す。

(このまま、永遠に、この腕に抱かれていたい…)

ふと見上げた視線の先には、同じく幻に身をゆだねるゴンの姿があった。とろんととけきった瞳で天女を見つめている。ゴンの体に絡みつく天女は、彼の白い首を艶めかしい手つきでなぞった。そして、天女は力の抜けきったゴンの首すじに、自分の鋭い牙を突き立てる。柔らかそうな白い肌に牙が食い込むにつれ、真っ赤な血が首筋を伝っていく。

その光景を、瑞穂は遠い世界の出来事のように眺めていた。


目に映るものを何一つ解釈できない。


だが、そんなことはもうどうだっていいのだ。ただ、この快楽の中に溺れていたい。もっと、もっと強い、快感が欲しい――。


とそのとき、瑞穂の顔面に強烈な勢いの水が浴びせかけられた。

その水のあまりの冷たさに瑞穂ははっとする。と同時に首がずくりと痛むの感じた。自分の首筋に手を触れると生暖かい血がべたりと手のひらについた。気づかぬうちに瑞穂もまた天女に噛みつかれていたのだ。


「もう! いつまで寝ぼけてるのよ!」

暗い校庭に目を凝らすと、楓が花壇の側でホースを握りしめ、こちらに向かって叫んでいた。

「小癪な娘よ。女は好かぬが、おぬしから喰ろうてやろうか」


天女たちは瑞穂とゴンから離れ、楓の所へ向かった。瑞穂が慌ててその後を追いかけようとすると、天女たちの手が楓に触れる直前、彼女たちは青い炎に包まれた。

断末魔の叫びの中、美しい天女が醜い鬼に姿を変え、やがて燃え尽き塵となって風に消えた。

再び、冷たい夜風が瑞穂たちの足元に吹きぬける。

「あっぶね。完全にのまれるとこだった」

瑞穂が振り返ると、正気に戻ったらしいゴンが、痛ってー、と呟きながら首筋を押さえていた。


「何だったのあれ」

楓は握りしめていたホースをきちんと元に戻し瑞穂とゴンの側に戻って来た。

「あれは吸血姫だ。男を催眠にかけて血を吸う鬼。なかには女の方が好みってやつもいるみたいだが」

もし女好きな吸血姫がいたら、瑞穂たちは皆彼女らの餌食になって全滅していただろう。

「爺さんが変に元気だったのって、あいつらのせいだったんだな」

渦中の翁はというと、吸血姫から解放され体が楽になるどころか、むしろしょんぼりとしていた。吸血姫の催眠が解けたことで、一切の快楽を失い、一気に現実が押し寄せてきているのだろう。

「なんか覚せい剤みたいね」

楓の言うことは正しい。仮に幻術で一時的な快楽が与えられたとしても、術が解けてしまえば、現実の苦痛に耐えられずそのまま廃人と化すこともあるのだ。


「何でこんなさ、じわじわ命を削るような幻術ばっか、かけられたんだろうな」

吸魂虫も吸血姫もすぐに死に至るものではない。

術者がこれらの幻術をかけた理由として考えられるのは、深い恨みによって少しずつ彼を痛めつけたかったか、もしくは、この翁をすぐには殺したくなかった、ということである。

「お爺ちゃん、体大丈夫?」

楓が五芒星の中でぐったりしている翁に声をかけた。

「大丈夫だよ。お嬢さん。ありがとう」

翁はぐったりしているというものの、意識は随分はっきりしてきたようで、先ほどまでとは言葉遣いが変わってきている。

「あと一回くらいで全部解けるんじゃねーか?」

瑞穂は三回目の解術の儀式を行った。

しかし、待てども翁に変化は現れず、辺りにも異常はない。

「おかしいな。何か間違えたか」

瑞穂は五芒星に近づいて確かめてみたが、特に異常はなく術は正常に作動しているようだった。

五芒星の中でうつむいている翁に近づいて、その顔をのぞきこんでみる。

すっかり元気をなくした翁が顔をあげ、瑞穂と目が合った途端、翁が瑞穂に覆いかぶさって来た。

大きく口を開く翁の犬歯が、先ほどの吸血姫と同じくらい鋭く大きくなっている。翁はその牙を瑞穂の首に突き立てんと、まるで狼のごとく食らいつく。


慌てて駆けつけたゴンと楓がなんとか翁を引きはがしてくれたが、翁はその見た目とは裏腹な俊敏さで二人を振り払い、距離をとった。

ゴンは青い火の玉を掌の上にぼうっと作り出す。

「やめろゴン! 彼を殺すな。幻に憑りつかれてるんだ!」

「言ってる場合かよ」

「駄目だ! 絶対!」

ゴンは翁を睨んだまま、炎を消した。


「楓、瑞穂を押さえてろ」

ゴンはそう言うなリ翁の元に走り出し、ゴンと翁は取っ組み合いになった。

「ちょっとゴン! なにする気?」

ゴンは翁に噛みつかれそうになりながら、なんとか彼の後ろ手を取って地面に押さえつけた。

「殺さねーから、二人ともそこで黙って見てろ!」

叫ぶと同時に、ゴンと翁は青い炎に包まれる。

猛烈な勢いで揺らめく炎の中で、ゴンは不敵な笑みを浮かべていた。

やがて、二人を包んでいた炎は翁の体に吸い込まれるように収束したかと思うと、ひゅうという音とともに青白い光が天高く昇り、まるで打ち上げ花火のように、紺青の夜空にぱっと火花を散らした。

空を見上げる楓が瑞穂の隣で、わあ! と声をあげる。

ゴンと翁に視線を戻すと、ゴンの尻に敷かれている翁は、もう翁の姿ではなかった。うつ伏せに寝ているので顔はよく見えないが、銀髪の青年のようである。


「おーい、起きろ。いつまで寝てんだ」

ゴンはそんな彼の頭をバシッと叩いた。青年はわずかに頭をあげる。

「ひとの頭叩かないでください。というかそこを退いてもらわないと、僕起きれないんですけど」

ゴンがよっこらしょと銀髪の青年から降りて立ち上がると、彼もゆっくり体を起こした。瑞穂たちの方に向き直った彼は、人のよさそうな顔つきの小綺麗な青年だった。


「僕は鶴の雪峯と申します。この度は呪いを解いて頂き、ありがとうございました」

雪峯と名乗った青年は深々とお辞儀をする。その所作は洗練されていて、おそらく天界に住む神のもとに仕えているのではないかと思われた。


「差し支えなければ、呪いを受けた経緯を聞かせてもらえますか?」

青年は困ったような表情で瑞穂を見つめた。

「実は僕にもよく分からないのです。急に幻覚が見えるようになって、気がついたらもう幻と現の境も分からなくなっていました」

「誰に幻術をかけられたかも分かんないのか?」

「はい…。これといって思い当たることがないのです。でもきっと知らぬ間に誰かから恨まれるようなこと、していたんですね」

青年は今にも泣き出しそうな顔だった。

「雪峯さんが落ち込むことないよ。ひとを呪うやつなんか、きっとろくでもない奴なんだから」

「魔物にならなかっただけ、すごいよあんたは」

見当識を失っていたとはいえ、幾重にも幻術をかけられて魔物に転じてしまわなかったのは立派なものである。

「いやあ、綺麗なお姉さんたちに囲まれてたんで、ある意味良い夢見させてもらったようなものです」

「ちなみに、あなたは刀根沼の神やその神使とは面識はなかったですか?」

「刀根沼の神様ですか。名前は知っておりますが、直接お会いしたことはないですね。どうしてです?」

「いや知らないならいいんです。ちょっと気になったことがあっただけで」

鶴の青年は不思議そうに首を傾げたが、また今度必ず礼をしに伺うと言い残し、鶴の姿になって夜の空に消えていった。


「刀根沼の神様たちのことと関係ありそうなの?」

刀根沼の一件も、今回の鶴の青年も、二人とも身に覚えのない呪いを受け、片方は魔物に転じ、片方は人格が変容してしまった。

瑞穂はこの二つの件に、何か共通点があるような気がしていた。

「さっきの鶴、怨恨で呪われるような奴には見えなかったろ。刀根沼のときと同じで何かに巻き込まれたんじゃないかと思ったんだ」

「出たよ瑞穂の良いひと節。おまえ誰でもいい奴に見えてるだろ」

ゴンは診療所へと向かう暗い畦道を、火の玉で照らしてくれていた。

「じゃあゴンはあの鶴が、ひとから恨みを買う奴に見えたか?」

「分かんないけど。仮に鶴が何か事件に巻き込まれたのだとして、犯人の目的は何だ? 怨恨以外で、あいつらを呪って得する奴がいるのか?」


瑞穂はその問いに答えられなかった。


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