鶴ー1

今日は珍しく、診療所から遠く離れたところに住む妖から診察の依頼があり、瑞穂たちは提灯小僧の車に乗って往診にでかけた。


その帰り、もうすっかり夜もふけたころ、提灯小僧の車が山を越えて下りにさしかかったとき、道端から現れた人影が手を振って瑞穂たちが乗る車を止めた。


「お客さん、知り合いですかい?」

車を止めた人影は、瑞穂たちの元へ近づいてくる。

提灯小僧の灯りに照らされた人影は、ひょろりと背が高く、長い白髭をはやした翁だった。

「知らない顔だな」

楓とゴンも怪訝そうな顔で車に近づいてくる翁を見つめている。

「こんにちは」

そう言いながら翁が車のすぐ近くまで来ると、強烈な悪臭が鼻をついた。

「もしかしてこれって」

呪いの臭いである。だがおかしい。

天狗の時ほどではないが、これだけの悪臭を放つ呪いを受けていれば、もっと苦しむはずだが、この翁が苦しんでいる様子はみられず、むしろ朗らかに微笑んでいるくらいである。


瑞穂はこの翁のことがどうも気になって、車を降りた。

ここからであれば歩いて診療所に帰ったとしてもそう時間はかからない。

提灯小僧にはここまでの運賃を払い帰ってもらった。

翁は走り去っていく提灯小僧の背中に、おつかれさーん、と手を振っている。

「呪いまみれのくせに楽しそうだな」

ゴンは呆れたような顔で、手を振る翁を見つめていた。

「お爺ちゃん、何で私たちを止めたの?」

そう聞かれて翁は困ったような顔で、瑞穂たち三人の顔を見つめた。

「わし何かしたかいな。もう頭がパーになってるもんで、分かりませんわ」

どうやら翁は、瑞穂たちの車をとめたことを覚えていないらしい。それどころか自分が呪いを受けていることすら分かっていない様子である。

ゴンが瑞穂の方に向き直った。

「車降りたのは良いけどさ。瑞穂もしかして、この爺さん診てやるつもりなのか?」

「ああ、だって変だろこの爺さん。結構な呪いを受けてそうなのに、なんでこんなに元気なんだ」

ゴンは溜息をついて首を横に振った。

「そうじゃない。俺が言いたいのは、この爺さんが診察を望んでんのかってことだよ。それに診察代だって払えるのか?」

瑞穂は返答に窮した。

翁は車を呼び留めたとはいうものの、診察を依頼してきたわけではない。自分が呪いを受けていることすら分かっていないのだ。おそらく診察を望むかどうか確認することもできないだろう。

「瑞穂さ、いい加減、仕事と慈善活動をごっちゃにするのやめろよ。天狗の診察代だってまだもらってないんだろ」

「天狗の診察代は今度払ってもらうことになってる」

「にしたって、瑞穂はどれだけ自分の体に負担かけて診察してるか全然分かってないだろ。この前も反言術のあと、ふらふらだったじゃねーか。神術使うのだってある意味、お前の命削ってんだ。だったらちゃんとその分の金は取れって、俺前にも言ったよな」

「ちょっとゴン。そんな言い方しなくてもいいでしょ。天狗のおっちゃんからは、ちゃんとお金払ってもらう約束してるんだし」

「違う。態度の問題だ。瑞穂の、まあ金が払えなくても仕方ないか、っていう態度が問題だって言ってんだよ。金が払えるか分かんない奴まで手当たり次第診察してたらこっちが破産するだろ」

「だったらゴンは、このお爺ちゃん見て可哀そうだなって思わないの? 自分が呪いにかかってることも分かんなくなってるんだよ。本当は助けてほしくても、もう助けてって言えないんだよ!」

「そんななあ、可哀そう可哀そうって、何でもかんでも診てやってたら、きりねーんだよ。皆は救えないんだ。目に見えるもの全部救おうとしてたら、こっちが身を滅ぼすことになるぞ。自己犠牲なんてな、美しくもなんともないんだからな!」

どつき合いの喧嘩になりそうな楓とゴンを瑞穂が手を挙げて制した。

「おれが悪かった。さすがに金がいらないとまでは思ってないが、つい診察のことで頭がいっぱいになってるのは認める。そのせいで他のことがおろそかになってるのも、すまないと思ってる」

楓とゴンはそっぽを向いて、しかし耳だけは瑞穂に傾けている様子だった。

翁はそんな二人の間で相変わらず、にたにたと笑みを浮かべている。

「おれゴンに言われるまで、自分が金に無頓着だって気づいてなかったんだ。だから、こうやって指摘してくれるのは素直にありがたいよ」

ゴンは口をへの字に曲げたまま目を伏せた。

「だけど、やっぱりおれはこの爺さんを助けてやりたい。確かに爺さんが金を払える保証はないが、妖の診療をしている者として、おれはこの爺さんを見殺しにはできない。これは、自己犠牲じゃなくて、おれの妖医としての矜持だ」

黙って瑞穂の話を聞いていたゴンは、目をつぶり大きな溜め息を吐きだすと、頭をかき乱しながら、ああもう! と叫んだ。

「分かってる。瑞穂はどうせ俺が何言ったって、爺さんの診察をするだろうってことくらい、分かってんだ。だけど、一回ガツンと言っとかないと、ほんとにおまえ、自分の命投げ出してでもさ、他人を助けようとしそうで心配なんだよ。あのときだって…」

ゴンはふいに思いつめたような表情になる。

あの時のこととは、おそらく瑞穂が反言術中に倒れた時のことだろう。楓は茶化していたが、ゴンは本当に瑞穂のことを心配してくれていたのだ。

ゴンがこんな風に仲間の危機に動揺するのは意外だった。何にも執着せず、仲間意識も薄い奴だろうと瑞穂は思っていたのだ。

「大丈夫よゴン。もし瑞穂が危ないことしようとしたら、私がぶん殴ってでも瑞穂をとめてあげるから」

楓がうつむくゴンの肩を力強く抱きしめた。

「あの、まずは殴る前に口で言ってもらえるとありがたいな」

楓とゴンが噴き出す。

「ほんとゴンって、意外と肝が小さいよね」

ゴンは楓の腕を振り払って、きっと睨めつける。

「俺は弱っちい瑞穂のことを心配してやってんだ。一応命の恩人なんだし」

「ふーん。瑞穂がいなくなっちゃうのが怖いんだ?」

「べっ別に怖いとか言ってないだろ!」

「ほらもう二人ともその辺にして。なんだかおれが恥ずかしくなってきた」


そのとき、翁の大きな笑い声が響いた。

翁は何がそんなに楽しいのか、この世の果てまで聞こえそうなくらい盛大に笑っている。

ゴンがそんな翁を見て、はあ、と溜息をつく。

「まったく。爺さん何でそんなに元気なんだよ」

「お爺ちゃん。何の呪いかけられたか、ほんとに覚えてない?」

翁は、ひょお? と首を傾げるだけで、やはり何のことかさっぱり分かっていないようだった。

「爺さんさ、かけられてる呪い、一つじゃないんじゃねーか? 何かすっごい複雑な臭いがすんだけど」

翁は何の妖か分からないくらい、呪い臭に包まれている。

「おれも複数の呪いがかけられてるんじゃないかと思う。幻術のような気がするんだ。この変な元気の良さも、幻覚が原因だとすると納得できる」


幻術とは、相手に幻視、幻聴、幻臭などの幻覚を植えつけるものである。

幻術も呪いの一種ではあるが、その他多くの呪いが妖の体に影響を与える一方、幻術は妖の心に影響を与える。

幻術をかけられた者は、体を虫が這ったり、耳元で誰かのささやきが聞こえたり、恐ろしい魔物が見えたりと、心理的な苦痛を味わうことになる。

そして、あまりの苦痛に気がふれてしまったものは、一時的に興奮状態に陥ることもあるのだ。


「一体何の幻を見てたら、こんなヘラヘラ笑ってられんだよ」

ゴンは腕を組みながら翁の様子をうかがっていた。

「なんにしてもお爺ちゃん診療所に連れていかないとね」

「いや、幻術がかけられてるなら、むしろ診療所よりどこか広い場所の方が対処しやすいな」


翁を助けるには、まず彼に植えつけられた幻を、現実世界に引っ張り出してくる必要がある。そうして現になった幻を祓い、幻術を解くのである。


「あそこの運動場なんかどう?」

楓が指さす先には、暗くなって誰も居なくなった小学校があった。小学校の運動場ならば、幻術を解くには十分な広さである。

瑞穂たちは翁を連れて小学校に向かった。


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