街ー1


天狗の診療記録を書き終えた瑞穂は、気だるい体を引きずりつつ外出着に着替えた。

「どこ行くの?」

居間では楓が炬燵に入って蜜柑を食べていた。

「昨日壊れた聴魂器を直してもらいに、街に行ってくる」

楓は私も行くと言って、持っていた蜜柑を口いっぱいに放り込み、すっくと立ち上がった。

「また天界?」

「いや聴魂器を直せる職人がいるのは下界だ」

聴魂器は、付喪神の里ノ重という工芸職人に依頼して作ってもらったものだ。彼女以外に聴魂器を直せるものはいない。


里ノ重の所有する工房兼販売所は、診療所から南に四里ほど行ったところにある繁華街の中にあった。

街まで歩いていくと日が暮れてしまうので、提灯小僧という妖がひく車に乗って行く。

提灯小僧とはその名のとおり、提灯から手足が生えたような恰好の妖で、道を照らす提灯としての性質を活かし、神や妖を車に乗せて望む場所へと連れて行ってくれるのだ。

「こんちは! いつもありがとうございやすう」

瑞穂は門の方から聞こえた威勢のいい声に返事をして、外套を羽織った。

「ゴンも行く?」

楓が炬燵の布団をめくって中を覗き込むと、獣姿のゴンが、のそのそと出てきた。前足と後ろ足をうんと伸ばしたのち、ふわりと煙に巻かれ人の姿に変化する。


三人を乗せた提灯小僧は軽やかに山道を駆けていった。道中、何人か人間とすれ違ったが瑞穂たちに気づくものは誰もいない。

「反言術で倒れたときのことって、覚えてるのか?」

ゴンはまだ眠そうに外の景色を眺めながら思い出したようにつぶやいた。

「刀根沼の神の心に入ってた」

と瑞穂も半分上の空で答える。昼まで寝ていた割にまだ頭も体も重かった。

「は? 心に入るってどういうことだよ」

ゴンは瑞穂の顔を見つめた。楓も首を傾げている。

「祟りの縁を辿っていくと、その祟りの根源である神の心の内に入ることができるんだ。それが反言術の本当の効力だったんだよ」

「おまえもしかして、とんでもない術成功させちまったんじゃないか」

瑞穂とてまさか反言術が神の心に入る術だとは思っていなかった。

「直接神様に会えたなら、沼を祟った理由も聞けた?」

瑞穂は刀根沼の神とその神使に起きたことを二人に話して聞かせた。

「確かに、変な話だな」

ゴンは考えこむように腕を組んだ。

「おれは刀根沼の神とその神使が、なにか良からぬことに巻き込まれたんじゃないかと思うんだ」

「良からぬことって例えば?」

誰かの恨みを買ったとか。瑞穂はぼそりと呟いた。


車は、すで山間の道を抜けて、繁華街近くまで来ていた。

街の中心を南北に流れる河沿いの道を南へと下る。


十月半ばの昼下がりは、ぽかぽかと陽ざしが暖かかった。河原には人間たちが等間隔に並んで日向ぼっこをしている。

その河にかかる大橋の手前で瑞穂たちは提灯小僧の車を降り、里ノ重の工房へと向かう。

橋を渡る際、ゴンは獣姿になって欄干の上を優雅に歩いていた。


里ノ重の工房のある商店街には、観光客向けの商店や、地元の若者が訪れる洋服店、ゲームセンター、古書店など雑多な店がごちゃ混ぜに立ち並んでいるような所である。

商店街の一角にある女性向けの下着店を曲がって細い路地に入ると、派手な看板のケバブ屋と古い銭湯の間に、萎びたスナックが一軒立っている。

これが里ノ重の工房の入り口だった。

「定休日って書いてあるよ?」

楓がドアノブにかけられた札を指さす。

「これはいつもだ。人間が間違えて入ってきたら、面倒なんだとさ」


瑞穂がドアノブを引くと、カランコロンと扉に取り付けてあった鐘が音を鳴らした。

里ノ重の工房はいつ来ても胸が躍る。

外から見れば古いスナックの様にしか見えないが、一歩中に入るとそこはまるで別世界。

二階まで吹き抜けになった建物の天井には大きな天窓が取り付けられており、まだ昼のはずだが、窓の外には満点の星空が広がっていた。

壁には棚が取り付けられており、その棚に所狭しと里ノ重が作成した妖術品の数々が並べられている。茶道具や器、壺など日常で使用するようなものから、使途不明の奇妙な物体までありとあらゆる作品たちで工房内は埋め尽くされている。

「誰だ」

工房の奥から鋭い声が聞こえた。だが声の主は見あたらない。

というより、瑞穂の背より高い妖術品たちのせいで、店の中は全く見通せないのだ。

「おれだよ。瑞穂だ。直してほしいものがあるんだ。出てきてくれ里ノ重」

瑞穂はどこにいるか分からない里ノ重に向かって声を張り上げた。

「またか!」

見上げるほど大きな象の足の間から、白黒まだらの髪を三つ編みにし、ひどく汚れた割烹を着た女が姿を現した。里ノ重である。

彼女は丸眼鏡を外して瑞穂たちを睨むように見つめた。


「なんだ久しぶりに顔を見せたと思ったら、あんた弟子をとったのか」

「この二人は弟子ではないよ。最近うちの診療所で働いてもらってるんだ」

里ノ重はふうん。と言って楓とゴンに一瞥をくべたのち、瑞穂に視線を戻した。

「今日は聴魂器を直してもらいにきたんだ。さすがにこれは、おれ一人では直せないから…」

「何で壊したんだ! 大事に使えって言ってるだろ。あんたこれで何度目だ?」

里ノ重は、ただでさえ鋭いその眼光の光をさらに強めた。

瑞穂の腹の辺りがきゅっと縮こまる。

「今回は神堕ちに襲われて、仕方なかったんだよ」

里ノ重は神堕ち、という言葉を聞いて少し目の光を弱めた。

「そうか。そうだったな。あんた神堕ちに襲われたんだったな、聞いたよ」


里ノ重は右手を差し出して、手招きした。この手招きは修理してやるという合図なのである。

瑞穂はほっと胸をなでおろし、懐から聴魂器を取り出した。


里ノ重が修理してくれている間。瑞穂たちは店内で待つことにした。

楓とゴンは絶対に妖術品に触らないという条件で、工房内を見て回っている。

瑞穂は里ノ重が向かう作業台の横に丸椅子を置き、そこに座って修理の様子を眺めていた。

「あんたは同じ人種だと思ってたんだけどな」

里ノ重は聴聴器に目を向けたまま呟くように言った。

「同じって?」

「弟子はとらない主義ってことだ」

ああ、と瑞穂は壁に並ぶ妖術品を見るともなく見つめた。

「おれも一人で働くのがいいって、ずっと思ってたんけどな」

里ノ重はちらりと瑞穂の顔を見たが、何も言わずにまた聴魂器に目を戻した。

「おれさ。昨日、反言術を成功させたんだ。今まで何度やってもできなかったのに」

里ノ重はやはり何も言わず作業に没頭していた。

瑞穂は壁に向かって話すように続ける。

「あのとき、俺一人だったら途中で諦めてたかもなって、思うんだよ」

里ノ重は引き出しから白い粘土のようなものが入った壺と小刀を取り出し、「ん」と言って瑞穂に渡した。


瑞穂は小刀を受け取ると鞘を抜き中指の腹に刃を当てた。つうと赤い血が滴り落ち、壺の中に吸い込まれる。里ノ重は瑞穂の血を吸った白い粘土のようなものをよくこねてから、聴魂器のひび割れ部分に塗りつけていく。


「里ノ重はどうして弟子をとらないんだ?」

彼女は相変わらず瑞穂のことはちらとも見ず、手元を見つめたままだった。

今度は聴魂器に塗りつけた粘土のようなものを布巾で綺麗にふき取っっていく。

「わたしゃ職人だからね。自分の技を極めるのに人の手は借りない。ひたすら自分との対話を繰り返して、煮詰めて、作品ってのは育つんだ」

確かに里ノ重のような職人は、人と協力して行うような仕事ではないのかもしれない。


「でも教えを請いにくる奴はいるだろう?」

「そういうやつらも皆追い返してる。他人が近くにいると、作品の声が聞こえなくなるんだ。孤独から生まれる感情のうねりってものを、あたしゃ愛しているからね」

瑞穂は曖昧に相槌を打った。

瑞穂も、どちらかといえば意識が内に向く性質だが、それでもやはり職人の精神性というものは測りかねる。

「だけどあんただって、元は私と同じような考えだったんじゃないのか? 独り黙々と技を極めようとしてたろ」

瑞穂は苦笑いした。

「おれは、里ノ重みたいに崇高な考えがあって一人でいたわけじゃないよ。正直怖かったんだ。おれのせいで、仲間を不幸にしちゃう気がしてさ」

里ノ重は嘲笑うように、ふんと鼻を鳴らした。

「けったいな奴だな。何が怖いんだ」

「まあ神の中でも、底辺を彷徨ってる者は色々と大変なんだよ」

底辺ついでに申し訳ないんだが、と瑞穂は両ひざに手をついて頭を下げた。

「この修理代、つけにしといてもらいないだろうか」

里ノ重は驚く様子もなく瑞穂の方に向き直ると、顔を上げた瑞穂の目をじっと見つめた。眼鏡越しでも里ノ重に見つめられると刃で貫かれるような落ち着かない心地になる。

「当てはあるんだろうな」

昨日の天狗の治療費は、次回の往診時にもらう約束になっていた。

「来月には診察代を払ってもらえることになってる」

修理を終えた聴魂器をずいと瑞穂に押しつけた里ノ重は、唸り声のような溜息をもらした。

「まあそんなこったろうと思ってたよ。あの二人を見た時にな」


里ノ重に嘘はつけない。

その鋭い眼差しで何でも見通してしまうのだ。瑞穂はそれをよく心得ていて、変に取り繕ったりしないことにしていた。

それから、とすでに次の作品の制作に取りかかろうとしていた里ノ重に話しかけた。

里ノ重はまだ何かあるのかというような呆れ顔ながらも、瑞穂の言葉を待った。

「刀根沼の神って知ってるか?」

「最近噂になってるな。それがどうした」

「さっき話した反言術を使った相手は、刀根沼の神なんだ。おれ、その神使が魔物になった経緯がどうも引っかかるんだよ。里ノ重は、二人に会ったことあるか?」

里ノ重は首を横に振る。

「私はちらっと見かけたことがあくらいだ。詳しく知りたいなら、粉舐め婆に聞いてみろ。あいつは毎年、刀根沼の茶会に菓子を納品してたはずだ」

粉舐め婆というのは下界で菓子屋を営んでいる妖である。彼女の店には、妖はもちろん天界の神々もお忍びで菓子を買いに来る。

「じゃあ帰りに寄ってみるよ。それから…」

里ノ重はまだあるのか! と少々声を荒げたが、天狗の義足作成の話をするとすんなり諾した。

彼女は物作りのこととなると、貪欲な好奇心をとめられないのである。


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