天狗ー5

瑞穂は誰かに強く肩を揺さぶられ、目を覚ました。

「瑞穂! 大丈夫?」

天井を仰ぐと楓とゴンが心配そうな顔で覗き込んでいた。

瑞穂はぼんやりした頭で、自分が何をしていたのか思い出す。

「天狗!」

叫びながら飛び起きて辺りを見回した。すぐ横に天狗が横たわっている。

瑞穂はゴンを押しのけて、右足が良く見える位置に回り込んだ。


天狗の足に巻き付けた組紐はもう効力を失っていたが、断面から出ていた浸出液は止まり、刺激臭も消えている。

刀根沼の神は瑞穂との約束を守ったのだ。


瑞穂は全身から力が抜けるのを感じた。と同時に、汗を吸った着物の重みに気づく。

「これでもう祟りは消えたんだよな」

ゴンは天狗の足と、瑞穂の顔を交互に見やった。

「足の浸食は止まったし、臭いも薄らいできてるから、祟りは静められたとみていいだろう」

瑞穂は天狗の足に付着していた膿を綺麗に洗い流し、清めの軟膏を傷口に塗って包帯を巻きつける。

瑞穂が処置を終えたのを見届けると、ゴンは立ち上がって待合に妖たちを呼びに行った。


ほどなくして妖たちが処置室に押しかけて来る。

「助かったのか?」

妖たちは天狗の側に駆け寄って口々に瑞穂に問いかけた。

「正直なところ彼がどれくらい回復するかわからないが、祟りは消えたし、ひとまず命の危機は去ったと思ってくれていい」

「そうかありがとう。神さん。ありがとう」

瑞穂は楓とゴンを促し診察室へ移動して、妖たちがみな処置室に入れるようにしてやった。

子天狗も処置室にやって来て、父の体にしがみついていた。


「お疲れ様でした」

瑞穂は楓が入れてくれた水を一口含んだ。喉を伝うその水は、これまで飲んだどんな水よりおいしく感じられた。

「途中で倒れたときは本当に心配したのよ。もうゴンなんか、すっごいおろおろしちゃって大変だったんだからね」

「なっ! 俺は別におろおろなんかしてない! びっくりしただけだ。楓だって、倒れた瑞穂の服脱がそうとしてただろ」

「ちょっと! あれは瑞穂がすごい汗かいてたから拭いてあげようと思ったのよ! ひとをそんな変態みたいに言わないでよね」

瑞穂は楓が追剥ぎの様に天狗の体を拭いてやっていた光景を思い出して、自分の着物を確認した。だがそれ以上は怖くて聞けなかった。


「おーい神さん。天狗が目を覚ました!」

診察室にいた三人はその声を聞いて、すぐさま処置室に向かった。

妖たちは体を寄せ、瑞穂たちが天狗の側に座れるようにしてくれた。

「わかるか?」

「あ、あんたは…」

「おれは稲の神だ。君は祟られて、危うく死ぬところだったんだ」

天狗はまだ意識がはっきりしない様子で、天井をぼんやり眺めている。

子天狗がそんな天狗の顔を覗き込むと、天狗は子天狗と目が合った瞬間、表情をやわらげた。

「相当霊気を消耗しているだろうから、まずはゆっくり休め。それにしてもよく耐えたな」

瑞穂は立ち上がると、仲間のまとめ役と思われる狸を呼んで処置室の外に出た。天狗に聞こえないように声を落とす。

「右足のことはまだ言わないほうがいいだろう。もう少し霊気が回復してから話しをするよ」

「いや、それは俺から話す。神さんはもう休んでくれ。今度はあんたが倒れそうな顔色しとる。もう十分ようしてもらった。あとは俺たちに任せてくれ」

「そうだよ、あとは私とゴンが引き受けるから、瑞穂は寝てきなよ」

時計を見るとすでに午前二時を過ぎていた。

「ありがとう。じゃあ何かあったらすぐ起こしてくれ。診察室の物は適当に使って構わないし、妖たちも…」

「わーかったって。俺たちがちゃんとやっとくから」

ゴンは無理やり瑞穂を廊下に追いやって、しっしっと追い払うように手を振った。


よろよろと寝室についた瑞穂の体は自分で思っているよりずっと疲労していたようで、着替えをするのもやっとだった。

そして布団に潜り込むと寝返りをうつ暇もなく、深い眠りに落ちていった。


再び、誰かに肩を揺さぶられ目が覚める。

目を開けると、傍らに座って瑞穂をゆさぶっていたのは楓だった。辺りはもうすっかり明るくなっている。

「おはよう。よく眠れた?」

懐中時計を見ると、時計の針は午前十一時を指している。

「え、昼?」

反射的に起き上がろうとするも、一瞬頭がくらりとして肩肘をついて体を支える格好となってしまった。

「もうちょっと寝てる?」

楓が心配そうな顔で瑞穂の顔を覗き込む。

「いや大丈夫だ。それより天狗は」

誰も起こしに来なかったということは、きっと異変はなかったのだろうが、自分の目で確かめるまで安心できない。

瑞穂はゆっくりと立ち上がり、浴衣の姿のままふらふらと廊下に向かった。

楓がそんな瑞穂の腕を掴んで支える。

「天狗のおじさん、今の瑞穂より元気そうだよ。朝ご飯もしっかり食べてたし」

瑞穂は驚いて楓の顔を見つめた。

「そんなに回復してるのか?」

あれだけ重症だった天狗が、まさか一晩で食事ができるほど回復しているとは信じられなかった。

「うんびっくりだよね。なんなら私やゴンより元気なくらいよ」

元気な天狗の様子というものが上手く想像できなかった。


処置室の襖を開けると、そこには布団の上で胡坐をかいて座る天狗がいた。その横にまとめ役の狸、そして子天狗を膝の上に乗せたゴンもいる。

「おっ! あんたがわしを助けてくれた神さんだな」

天狗は楓の言う通り劇的に回復していた。血色のよさそうな顔、腹の底に響くような太い声、昨日見た姿とはまるで別人である。

「体はどうだ? 足はまだ痛むか?」

瑞穂は楓に支えられながら天狗の側に座った。

「目覚めた時はちと痛んだが、その嬢ちゃんに薬をもらってからは随分楽だ」

天狗は自分の太ももをバシッと叩いてみせた。

「昨日のことは、こいつから聞かせてもらったよ。危ないところを助けてくれたんだってな」

天狗は布団の上で四つん這いになって、頭を布団に着くほど低くした。

「やめてくれ。正直、君を救えるか一か八かだったんだ。それに一人でやったわけじゃない。この二人も手伝ってくれたし、妖たちもおれに託すことを決断してくれたからできたんだ」

天狗は顔を上げて瑞穂の顔をじっと見つめる。

「本当にさっき聞いたとおりの神さんだ」

天狗は、ガハハと愉快そうに笑った。

「治療してくれてるところ、お前にも見せてやりたかったわい。まさにこれこそ神業と思ったもんよ」

瑞穂はどう返していいものやら困って曖昧に微笑んだ。

楓はそんな瑞穂のとなりで、ここぞとばかりにふんぞり返る。

「そうでしょ! うちの瑞穂はほんっとうに、すごい神様なんですよ」

「なんで楓が偉そうなんだよ」

ゴンの膝に乗る子天狗が、えらそう! とゴンの真似をした。

「ばかなのゴン。今アピールしとかないでいつすんのよ。診療所を売り込む絶好のチャンスでしょうが」

「いや今のは絶対楓が言いたかっただけだろ」

「そんなわけないでしょう。ほんとゴンはおこちゃなんだから」

「だ、誰がおこちゃまだ!」

「やめろ二人とも」

天狗と狸が笑った。子天狗もゴンの膝の上できゃっきゃと楽しそうにはしゃいでいる。

「大丈夫だ嬢ちゃん。先に帰った奴らが、もうとっくに言いふらしちょる」


瑞穂は天狗の右足に巻かれた包帯をほどいて、傷口を観察した。

もう傷口は塞がっていて、すでに薄い皮がはっている。驚くべき回復力である。

「あとは、義足を作らないといけないな」

傷が治ったとしても足が再び生えてくることはない。歩くためには義足が必要になってくる。

「そんなものどこでこしらえたらええんだ」

「当てはある。知り合いの妖術工芸家に頼めば作ってくれるだろう。おれもちょうど彼女に用事があるから頼んでみるよ」


天狗は瑞穂に借りた荷車に乗せられて帰って行った。


瑞穂は天狗を見送り、軽めの朝食兼昼食をすませると、診察室の文机に向かう。

なぜ今回は反言術を成功させることができたのか診療記録として残しておきたかったのだ。


反言術の跋文に綴られていた「祟り神為る縁を捉え、手繰らば、反言し、断ち切らん」の内容を瑞穂は勘違いしていた。

縁を捉えたのちに手繰り寄せるのは「祟る神の心」、反言するのは祟りの縁ではなく「神そのもの」、そして断ち切るとは「神の存在を消し去ること」だった。

最後だけ作法通りに行わなかったが、それでも瑞穂は反言術を成功させ、天狗を祟りから解放してやることができた。


反言術とはそもそも、祟りを断ち切る術でも、祟り神を滅する術でもなく、深く傷ついた神の心内に入り、癒すためのものだったのではないだろうか。

今まで瑞穂が反言術を成功させられなかったのは、祟りにばかり意識を向けていたからだ。

本当は祟っている神の心のほうへ、意識を向ける必要があったのだ。


刀根沼の神を癒せたのかは分からない。

いや、他人の心を癒すことなど不可能だ。きっかけをつくるのである。相手が自分の心を癒せるように――。

刀根沼の神は、瑞穂に出会ったことで、自らの祟りを静めようと思った。

瑞穂が妖を想う気持ちに触れて、刀根沼の神は変わったのである。


古代の術は伝えられる過程で、様々な要素が加わり変化する。

反言術もまた、そうやって当初の目的から姿を変え、伝わってきた術なのかもしれない。

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