天狗ー4

祟りとはそもそも、祟った神との縁によって永続的に苦しみを受けるものである。

今回の天狗は祟り沼にはまったことで、刀根沼の神との縁ができてしまった。

たとえ沼にはまっただけという偶然にすぎない理由であっても、一度できた縁は非常に強固なものとなり、人や妖では決して断ち切ることはできない。


神のみが、祟りに反言し縁を断ち切ることができるのだ。


つまり反言術とは、祟りそのものを静めるというよりも、縁を断ち切ることを主とするものである。

本来臭いでしか感知することのできない祟りを可視化し、祟る神との縁を捉え断ち切ることを可能とする。


祟りを可視化するうえで大切なのは、反言術を行う術者の心を静めることだ。他人の祟りを断ち切るというのに、己の心が静まっていないのであれば、祟りを見、捉えることなど叶わない。

曇りない心で、その祟りの本質を見極める必要があるのだ。


瑞穂は必要物品を整えると、天狗の横に鎮座した。

楓は天狗の頭下に座り、ゴンは処置室の入り口から瑞穂の様子を見つめる。


瑞穂は姿勢を正し、長い息を吐き終わると、持鈴を目の高さに構えた。


りーん。鈴の音が響き渡る。


その音が、漂う霊気にとけたのち、瑞穂は瓶子に入れた神水を一口含んだ。

神水が喉を伝っていく感覚に意識を集中する。

そして再び持鈴を鳴らし、ここまでの流れを三度繰り返す。

三度目の神水が喉を伝ったあと、瑞穂は桝に入った塩を一掴みし天狗の体に振りかけた。

今度は切麻を手に取り刷毛のように用いて、その塩を払っていく。

まずは額、次に胴、右手、左手、右足、左足と丁寧に切麻を滑らせる。最後に胸の上で円をを描くとその中に切麻を置いて、上から神水を五滴たらした。

すると切麻は天狗の胸の上でぽっと青白い炎をあげ、消えた。


瑞穂は、鉾鈴を手に取り、鈴の音を天狗に振りかけるように鳴らす。

シャン、シャン、という子気味よい音が部屋の中に鳴り響いた。


鈴というのは心を静め邪気を祓う効果があるため、神術では鈴がたびたび用いられる。

人間が厄払いをするときに、鈴や切麻などを用いるようになったのも、元は神が神術で使用していた物がいつの時代かに人間に伝わったからなのである。


鈴の音が部屋いっぱいに満たされたころ、瑞穂は手を止めて鉾鈴を傍らに置いた。

これで天狗の準備は終わった。


古代の術は作法が細かく定められているものが多い。

作法とはつまり型である。古代術式を執り行う上では、型を極めることが特に重要視される。

現代の術式には型を省略したものも多いが、本来は型がその術式を構成する中核をなしていた。

神術というのは型を習得した先にしか見えない世界というものがあるのだ。


瑞穂はその世界を見たくて、この反言術の型を習得した。だがその先の世界に進めたことはない。

型を習得してなお、足りぬものがあるのだ。


瑞穂は榊を手に取って天狗にかざすように構えた。

そして目をつぶり、祟りに意識を集中する。

瑞穂の心内にはあやゆるものが浮かんでは消えていく。

天狗の苦しみに満ちた顔、子天狗の慟哭、妖たちの怯えた目。それらに重なるように、夢で見た瑞穂の過去の情景がまでもが現れる。


瑞穂は束の間、眉間をぐっと寄せたが、すぐにその力をやわらげた。

浮かび上がる情景に意味を与えず、青空を流れる雲を見るように、ただ過ぎ去っていくのを眺めた。


天狗が受けた祟りに注意を戻す。すると徐々に、雑念が現れなくなってきた。

天狗の足下から伸びる一筋の黒煙のようなものが瑞穂の瞼の裏に現れる。瞼の裏で瑞穂は手を伸ばしその黒煙を掴んだ。


術詞を唱え、縁を断ち切る。


が、黒煙は瑞穂の手の中でゆらゆらと揺らめくばかりで、断ち切ることができない。

以前反言術を試みた時と同じだ。


「祟り神為る縁を捉え、手繰らば、反言し、断ち切らん」


これが文献に記されていた反言術作法の跋文である。

この作法に正しく則っているはずなのに、祟りの縁を断ち切ることができない。


瑞穂の心に、焦りの影がちらつきはじめた。そうなると祟りへの意識が途切れ始める。せっかく捉えた縁までもが瑞穂の手から滑り落ちていく。


やはり失敗してしまった。


こうなってはもう祟りの力を抑えることはできない。中途半端に縁に触れてしまったことで、祟りの力はあふれ出し、天狗はさらなる苦痛を味わうことになるだろう。

瑞穂はいたたまれない気持ちでいっぱいになった。


そのとき、どこからともなく澄んだ霊気が瑞穂の体を包んだ。

ゴンが霊気を送ってくれたのだろうか。

瑞穂は目を閉じたまま、その霊気の感触を感じていた。

その霊気に混じって、鎮眠華のかすかな香りが漂ってくる。

楓が天狗に鎮眠華を吸わせているのだ。


二人ともまだ諦めていない。


瑞穂は再び、祟りに意識を集中させる。

そして祟りの縁を手繰って、祟っている神のことを思った。

すると今度は黒煙が霊気に乗って流れていく先がぼんやり見えてきた。

その先に意識を向けると、どこからともなく琵琶の音色が聞こえてくる。

その音が聞こえてくる方向へ、進む――。


瑞穂は目を開いた。

そこは、どこまでも続く、椿と枝垂梅の園だった。

足下には苔の緑が広がり、その上にぽつりぽつりと深紅の椿が落ちている。


瑞穂は、琵琶の音色を頼りに、その梅園の中を進んだ。

枝垂れ梅はどの木も今まさに満開を迎えている。風にそよぐ枝が揺れる度に、薄紅色の花びらが舞い散る。


遠くに見える大きな梅の木の下に誰か座っている。

どうやらその者が琵琶を奏でているようだ。

瑞穂は苔を踏みしめ、琵琶の主の側に近寄った。


その者は、長い濡れ羽色の髪を腰まで垂らした男神だった。

瑞穂が近づいてもこちらを見ようともせず、虚ろに宙を見つめたまま、琵琶の響きに揺蕩っているようだ。


「あなたが、祟りの主ですか」

男神は瑞穂の方を目だけで見やった。

その目にはおよそ生気と呼べるものはなく、もはや瑞穂を映しているのかも疑わしい。

「そなたは…。反言者か」

瑞穂は返答に困った。

「そなたが答えずとも分かっている。ここに来られるのは反言者だけだ」

「ここは、一体どこなんです?」

男神は皮肉な笑みをうかべた。

「おかしなことを言う。我が心内に決まっておるだろう。そなた、そんなことも知らずに反言術を使ったのか」

「ここまで来たのは初めてなんです」

「なんにせよ、早く終わらせてくれ。我はもう覚悟はできている」

瑞穂は困惑した。彼が何を求めているのか分からない。

「あなたはどうして、自分の沼を祟り沼に変えてしまったのですか?」

どうすればよいかわからず、瑞穂は率直な疑問をぶつけた。

男神は少し面食らったような表情になったのち、くっくと声を押し殺して笑った。

「これはまた、珍妙な神が来たものだ。祟りの理由が知りたいのか」

男神は穏やかな顔で瑞穂を見上げる。

「我は己の神使を殺したのだ」

瑞穂は背筋がぞっとした。

「なぜ自分の神使を――」

「彼女は乱心して魔物に転じてしまったのだよ。そうなるまで気づいてやれなかった。まさか魔物になるほどのものを抱えていたとは…突然のことだったゆえ、我も正気を失ってしまった」

「魔物になった自分の神使を祓った。ということですか?」

「そうだ」

妖たちから聞いていた話とは少し食い違っている。

刀根沼の神は、神社を取りつぶされて乱心したのではない。

自分の神使が魔物になり、それを自らの手で祓ったことで乱心し、祟りをひきおこしたのだ。


「彼女は、美しい梅の精だった。朗らかで、それでいて芯の強い女性だった。我はそんな彼女のことを心から愛していたのだよ。なによりも大切に…大切にしているつもりだった。だが、気づいたときにはもう手遅れで、彼女は見る影もない姿になっていた」

男神は苔の上に落ちていた梅の花を拾い上げ弄びながら言った。

「彼女が魔物になるほど苦しんでいたというのに、我は気づきもしなかった。彼女はさぞつらかったろう」

「あなたの苦しみはもっともです。だけど、祟り沼のせいで関係ないものまで苦しんでいる」

男神は押し黙り。しばらくして口を開いた。

「愛する者を己の手で殺め、気がふれずにおれるものか?」

彼の心にはもう他人を憐れむ余裕はないのだ。瑞穂はそれ以上彼を責める気にはなれなかった。

「そなた、反言術がどういうものか分かっておらぬようだが、反言術とは祟る神を滅するためのものだ」

「え?」

瑞穂は驚いた。

「そなた誰かをを救いたいのだろう? なら、祟りの元凶である我を滅するしかない」

「おれは、あなたを滅するつもりはありません。ただ祟りを静めてもらいたいだけです」

男神の顔が険しくなった。

「ならぬ。そなたは我を滅するためにここに来たのだ。反言者となったそなたには、そうする権利がある」

権利? 瑞穂はその言葉がどうも引っかかった。

「いいえ。あなたは消えたがっているだけだ。自分の行いを本当に悔やんでいるのなら、まだ救える命をあなた自身の手で救ってください」

男神は険しい表情のまま、瑞穂から顔をそらした。

「あなたはまだ神堕ちしていない。なら祟りも自分で静められるはずだ」

男神は聞きたくないと言わんばかりに眉間にしわを寄せ、目を固くつぶった。

それでも瑞穂はやめなかった。

「きっとあなたの神使が魔物に転じてしまったのは、あなたのせいじゃない。そんなに大切にされていた妖が、ちょっとやそっとのことで魔物になってしまうなどありえない。きっと他に理由があったんです」

「何があったというのだ」

「分かりません。でも、あなたの神使が魔物になってしまったのは、急なことだったんですよね。強烈な苦痛や、命の危機にさらされたとか、そんなこともなかった」

男神はしばし考え込む。

「我の知る限りではない。普段と同じように過ごしていたように見えた。来年の花見では聞香もしてみようと、そんなことを話していたくらいだ」

「もちろん匂いに変化もなかったんですよね? 時々魔物特有の臭いがしたとか」

男神は嫌悪感をむき出しにする。

「彼女が纏う梅の香りには、穢れた臭いは微塵も混じってはおらなかった」

「となると、誰かの手によって魔物に転じさせられた可能性があります」

男神は驚いた顔をした。

「なぜそんなことが分かる?」

「通常、妖が魔物化する転機は二つです。一つは突発的な苦痛によって、彼らの肉体的・精神的耐容を超えて魔物化する場合。もう一つは、長い時間をかけて苦痛が蓄積し耐容量を超えてしまう場合。今回あなたの神使は突発的に苦痛を与えられるような出来事はなかった。また時間をかけて苦痛が蓄積していったのなら、彼女の匂いに変化があったはずです。言動は誤魔化せても、匂いを誤魔化すには特殊な薬品等が必要ですし、そんなものを花の精が自分で作ったとは考えにくい。またあなたの目を盗んで他者から入手するのも難しいでしょう。となると、自然発生的に魔物に転じたのではなく、何者かの手によって彼女が魔物にさせられた可能性が考えられます」


男神は驚きを越えて訝しむような表情で瑞穂を見つめた。

「そなた一体何者なのだ? なぜそんなに妖や魔物についての見識がある」

「おれは一応稲の神なのですが、その…稲の神としてあまりに非力なもので。妖相手の診療所を開いて、生計を立てているのです」

瑞穂は苦笑した。

「もちろん確証はありません。それにあなたが嘘を言っている可能性もある。でも、おれはあなたの心内に来て、この景色を見て、あなたがその花の精のことを大切にしていたんだと感じたんです。だから、あなたの神使が自ずから魔物に転じたとは思えない」

男神は肩をすくめた。

「負けたよ。確かに、罪のないものまで祟ってしまったのは、我の不徳の致すところだ。落とし前は己でつけるべきだな」

瑞穂はほっと胸をなでおろした。これで、天狗を救える。

「そなた、まだ名を聞いていなかったな」

「おれは瑞穂です。まだ神になって日が浅く社もありませんが」

「瑞穂か。稲の神らしい、良い名ではないか」

瑞穂はなんだか照れくさい気分になって曖昧に微笑んだ。

「ありがとう瑞穂よ。見事な反言であった。陰ながらそなたの活躍を願っている」

そう言う男神の姿が滲みはじめ、周りの景色も段々と薄らいでいく。

瑞穂は強い眠気に襲われ、そのまま気を失った。

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