天狗ー3

騒がしい声とともに幾人かの足音が診療所に入って来るのが聞こえた。

瑞穂は立ち上がって処置室から外の板間に出る。先ほどは見なかった顔が着物の露をはらいながら待合の長椅子に荷物を置くところだった。

診療所で待機していた妖たちが、新たにやってきたものたちをとり囲む。

「刀根沼の神さんは…?」

やって来た妖たちは険しい表情で首を横に振った。

「駄目だ。どこにも見つからねえ」

「神社はもぬけの殻だ」

瑞穂はそれを聞くと、人だかりの中に割って入った。

「天界も探したのか?」

やって来た妖が怪訝そうな顔で返答を躊躇したので、他の妖が瑞穂のことを説明した。

「こりゃ失礼した。ここの神さんだったんだな」

「それで祟っている神は、天界にもいなかったのか?」

下界にある神社は天界と下界の通用口であって、神がいるところではない。基本的に神というのは天界に居て、必要時に下界の神社に降りてくるのだ。

「知り合いの神さんに聞いてみたんだけんど、刀根沼の神さんのことは、最近天界でも姿を見かけてねえって」

「社の中は荒れ放題だし、神さんも神使の妖もいなかった」

「刀根沼の神に何があったんだ?」

そもそもどうして自分の沼を祟り沼になんかしたのだろう。

「近くに住んでる妖の話じゃ、雇用監督署に目をつけられて、神社をお取り潰しにされちまったらしいんだ」

「んでよ、怒り狂った神さんが沼を祟り沼に変えちまったんだと。しかも神さん、どうやら神堕ちになったって話も聞いたぞ」

「雇われてた妖の方も行方不明みたいだし、その神堕ちに喰われたんじゃねえかな」


瑞穂は妖の話を聞きながら、腹の辺りをぎゅっと掴まれるような感覚を味わっていた。

もし本当にその神が神堕ちしていたら、もう祟りを静めることは不可能だ。

神堕ちと会話などできないし、そもそも神出鬼没の神堕ちを見つけることは難しい。

「どうするよ、瑞穂」

ゴンも後ろで妖たちの話を聞いていたようで、不安そうな顔で瑞穂の側にやってきた。

「どうするもこうするも、祟った神を探すしかない。祟りは本人に静めてもらうしかないんだ」

例外を除いては。

本当は一つだけ、祟った本人以外でも祟りを静める方法が存在していた。

だが、その方法が成功する見込みは極めて低く、失敗すればむしろ天狗を傷つける可能性があった。

だから瑞穂は、なんとしても祟った神を探し出したかったのだ。


瑞穂は妖たちにもう一度、刀根沼の神を探すように頼むと、自分は雨音たちに文を書いて刀根沼の神捜索に協力してくれるよう頼むことにした。

診察室の文机に向かい、ことの次第を文にしたためる。

診察室に戻った瑞穂のあとについて、ゴンも診察室に入って来た。

「他に天狗を救う方法はないのか? 今の話じゃ、すぐには神様見つかりそうにないだろ」

「それでも探してもらうしかない」

瑞穂はゴンの方を見ず、低い声で答える。

そんな瑞穂の後ろでゴンの溜息が聞こえた直後、左肩を掴まれ勢いよく後ろに引っ張られた。瑞穂の体は左回りに捻るような恰好になり、筆が意図せず紙の上をすべってしまった。

驚いた瑞穂が顔を上げると、そこには楓が立っていた。瑞穂の顔にぐいと自分の顔を近づけてくる。

「瑞穂、なにか隠してるでしょ」

「なんだよいきなり」

瑞穂は楓を睨み返した。

「こういうときの瑞穂は、なんか隠してるときだ。本当は他に方法があるんじゃないの」

瑞穂は図星を突かれて一瞬言葉が出てこなかった。楓から目線を外してそのまま押し黙る。

「言ってみてよ。独りで抱え込まないで私たちにも教えて」

ゴンも楓の隣で瑞穂を見つめていた。

瑞穂は目を閉じ、ふうと息を吐いた。

「反言術なら、祟りを静められる可能性はある」

「反言術?」

ゴンが首を傾げた。

「反言術というのは祟りを無効化できる唯一の方法だ。だが成功率は極めて低いし危険も伴う」

反言術は、古代には盛んに使われていた記録があるのだが、術式の難解さとその成功率の低さゆえに、今では知っている者もほとんどいないくらい廃れた術式となっていた。

「瑞穂はやったことあるの?」

楓は瑞穂の前に座り込んだ。

「ああ。だけど成功したことは一度もないし、祟られてたのは妖じゃなくて物ばかりだった」

瑞穂が反言術の修練をしていたのは、まだ水神の屋敷にいた頃のことだ。

最初は単なる興味からだった。瑞穂は書物にしろ術式にしろ、古くて複雑なものが好きなのだ。古代に廃れた術式というのはそれだけでも瑞穂の興味をひくには十分だった。それに反言術は高い霊力を必要としない術式である。その割に、成功すれば祟りを静めるという強力な効果を得られるので、高い霊力に恵まれなかった瑞穂にとっては、うってつけの術式だった。

だが世の中そう、うまくいくものではない。

祟られた物や家があると聞けばそこに馳せ参じ反言術を試したが、終ぞ成功させることはできなかった。

「前にやったことあるなら、試しにやってみればいいじゃねーか」

瑞穂は首を横に振った。

「反言術は失敗したら逆に祟りの効力を強めてしまうんだよ。以前やった時は物が相手だったからまだよかったが、今回祟られてるのは妖だ。もし失敗すれば、天狗をさらに苦しめることになる」

「でもさ成功したら祟りは消えるんでしょ。なら危険でも…」

「駄目だ。失敗する確率の方がはるかに高いんだぞ。それを分かってやるなんて、そんなの治療じゃない」

そのとき誰かがとなりの処置室から叫ぶ声が聞こえた。

「おい神さん! こっち来てくれ」


瑞穂は反射的に立ち上がり処置室に駆け込んだ。

妖たちに見守られている天狗の足からは、鼻をつく臭いとともに、再び膿性の浸出液が溢れてきていた。

組紐の結界が破られたのだ。

瑞穂はすぐに新しい組紐を引き出しから引っ張り出し、天狗の足に巻き付ける。

結界が破られたことで痛みが増強したのか穏やかに眠っていた天狗の顔が、また険しくなっていた。楓がそれに気づいてすぐさま枕元に移動し、鎮眠華を天狗に吸わせる。

瑞穂の首筋を嫌な汗が伝った。

(思っていたより結界が破られるのが早い)

これはのんきに刀根沼の神を探している時間はないかもしれない。結界を織り込んだ組紐はすぐに作ることはできないし、組紐がなくなればもう祟りの浸食を食い止めることはできなくなる。たとえ危険が伴い成功する可能性が限りなく低いとしても、楓やゴンが勧めるように反言術を試してみるべきなのか――。

「みんなに聞いてみようよ。このまま待つか、それとも反言術をやるのか」

処置室で天狗を見守っていた妖たちが楓の言葉を聞いて顔を上げ、瑞穂と楓の顔を交互に見つめた。

「なんか助ける方法があるのか?」

外にいた妖たちも先ほどの叫び声を聞いて再び処置室に集まって来ていた。

「何かあるなら話してくれ。あんたらのこと信用してないわけじゃないが、俺たちには今こいつがどうなってんのか全くわかんねえんだ」

瑞穂は妖たちのすがるような目に見つめられ、覚悟を決めた。

集まった妖たちに、今の天狗の状態、反言術の効果とその危険性について説明した。

妖たちは瑞穂の説明を聞いて、困った表情を浮かべ互いの顔を見合わせていた。


重い決断である。


実施するのは瑞穂だとしても、反言術をしてもらうか否か決断する者たちもまた、同じく天狗の命を背負うことになるのだ。

「おっとうは助かるんだろ?」

待合で待っていた子天狗が妖に連れられ処置室にやってきた。みながその子天狗を見つめる。そして、妖の一人が口を開いた。

「やってもらおう。天狗はもう長く持ちそうにねぇんだろ。だったら助かる可能性にかけよう」

「そうだな。おらもその方がええと思う。刀根沼の神さんは散々探し回って、結局足取りすら分かんねかったんだ。たぶん今探しに行ってる奴らも、きっとすぐには見つけらんねえ。それまでにこいつが死んじまったら悔やんでも悔やみきれねえよ」


彼らの中でまとめ役と思われる狸が皆の意見をまとめ、その総意として瑞穂に反言術実施を依頼してきた。

瑞穂は彼らの決断を重苦しい気持ちで受け止めた。

恐ろしかった。

自分の行いが目の前にいる天狗の運命を左右するのだ。


「大丈夫だよ、瑞穂。瑞穂はできる」

瑞穂を見つめる楓の目は何の迷いもなく、目の前にいる神のことを信頼しているという目だった。

ゴンも処置室の入り口から瑞穂に言う。

「そんな気負わなくてもさ、瑞穂だけの責任じゃないから。今からやる術は、おれたちみんなでやるんだ」

瑞穂は喉の辺りが熱くなるのを感じた。

ひとりじゃないということは、これほど心強いものなのだ。


「楓はそのまま鎮痛管理を続けてくれ。ゴンは引き続き霊気の循環を頼む」

二人にそう告げると瑞穂は反言術の準備に取りかかった。


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