天狗ー2

瑞穂と楓もゴンの後ろから外の様子をうかがった。

外は土を穿つような激しい雨になっていて視界が悪く、門の内側ですら霞んでよく見えない。

そんな豪雨の中、切迫した声が遠くの方から聞こえてくる。

門の向こうの道に、妖の集団が現れたかと思うと、そのまま門を通り過ぎ、またすぐに引き返して今度は診療所の敷地内に入って来た。数人で何か大きな荷を運んでいる。しかし荷には蓑が被せられていて中身は分からない。


瑞穂が傘を取り出して、豪雨の中その集団を迎えに行こうと一歩外に踏み出した瞬間、雨の匂いに混じって濃い腐臭のような刺激臭が鼻をついた。

「診療所ってのは、ここであってるか?」

瑞穂はじっと荷を見つめながら、ああ、と答えた。


これほど強い臭いは今まで嗅いだことがない。瑞穂は傘を握りしめる手に力が入る。

楓とゴンも瑞穂の側にやってきて同じく荷を見つめる。

「こいつ祟り沼に嵌っちまったんだ。なんとか助けてくれねえか」

荷を運んできた妖の一人が、被せていた蓑を少しばかりめくってみせた。

その瞬間強烈な刺激臭が鼻をつく。

蓑の下から現れたのは、逞しい体つきの天狗の上半身だった。ぐったりしていてひどく顔色が悪いが、臭いの発生源となるような異常個所はみられない。


瑞穂は、蓑をめくった妖が気まずそうな面持ちでいるのに気づいて、妖の手から蓑を奪って天狗の体を全て露わにした。

すると天狗の右足が、脛の真ん中あたりまで腐ってなくなっていた。

断面からは膿が流れ出し担架の端から滴り落ちそうなほど溢れていた。


「沼に浸かっちまったあと、すぐ引き上げたんだけどよ…」

「祟っている神は分かっているのか?」

瑞穂は天狗に目を向けたまま聞いた。

「刀根山にある沼の神さんだ。けんど、今どこにいるのか分かんねえんだよ」

「一刻も早く見つけてくれ。その神本人に祟りを静めてもらわなければ、この天狗は救えない」

「今仲間が探してるとこだ。居場所が分かればここに知らせが来る」


祟りは呪いと違って、例外を除き祟っている本人以外がその祟りを静めることはできない。

この天狗を救いたければ、その沼を祟った神に直接お願いし、祟りを静めてもらわなければいけないのだ。

でなければ、いくら天狗の足を清めたところで、祟りを完全に消し去ることはできず、やがて天狗はこの祟りに喰い殺される。

だから今瑞穂にできることは、この天狗を祟っている神が見つかるまで、時間稼ぎをすることだ。


「中へ運ぼう」

瑞穂の声掛けに妖たちが頷いて担架を持ち上げた時、門からさらに一人、妖が駆け込んできた。

「おっとう!」

駆けこんできたのは、雨と泥まみれになった子どもの天狗で、一直線に担架の上に横たわる天狗の側に駆け寄り、天狗の体にしがみついた。

「こら! お前、着いて来たら駄目だって言ったろ」

天狗を運んできた妖の一人が子天狗を天狗から引きはがそうとするが、子天狗は必死に天狗にしがみつき、手を離そうとしない。

妖たちが口々に子天狗を宥めるも、子天狗の耳には入っていないようで、おっとう! と何度も叫びながら天狗から離れなかった。


妖たちが途方に暮れるなか、突然ポンっと大きな破裂音が集まった妖たちの頭上で鳴り響いた。

みな驚いて頭上を見上げる。

子天狗もつられて顔を上げたその瞬間、ゴンが子天狗をひょいと抱き上げた。

「ちょっと辛抱しろ。この神様が父ちゃん助けてくれるから」

破裂音は、ゴンが子どもの気を逸らすために鳴らしたものだったらしい。

ゴンに抱きかかえられながらも、子天狗は父親の近くへ行こうと泣きながら暴れている。

そんな子天狗を目の端でとらえながら、瑞穂は運ばれていく天狗のあとを追った。


処置室に運ばれた天狗は、移動中蓑を被せられていたとはいえ、雨でびしょ濡れになっていた。

楓は天狗が処置室に着くなり、妖たちに手拭いを配り、彼らと一緒に天狗の濡れた体を手際よく拭いていった。雨と泥で汚れた服は鋏で切って剥ぎ取っていく。全く迷いのない手際の良さに、瑞穂は一瞬、楓が追剥ぎという妖に見えたくらいだった。


瑞穂は、楓や妖たちが天狗の体を拭いてくれている間にも、体の異常個所をつぶさに観察していく。

まずは祟り沼にはまったという右足。

よく見ると足の断面に付着している浸出液は、漿液性のものと膿性のものが混じっているが、血液の付着はなかった。

「沼にはまったのはいつだ?」

天狗の体を拭いていた妖たちは顔を見合わせる。

「ありゃ確か、昨日の夕方六時くらいだったか」

「沼にはまったあと、すぐ引き上げて、そんときは足もなんともなかったし、話しだって普通にできた」

「沼から引き揚げた直後は、足に異常はなかったのか?」

狸の妖が頷く。

「ああ見た目にはなんともなく見えたな」

「そのあと家まで自分で歩いて帰ってたもんな。祟り沼だから、やべえって言ったのに、こちつが大丈夫だって言うから…祟ってる神さんもそんな急いで探さなくていいかと思ったんだ」

一つ目小僧は申し訳なさそうにうつむいた。

「足の異変に気づいたのはいつだ?」

「ちょうど日付を越えたくらいだ。こいつの坊が、俺の家におっとうが大変だって駆け込んできやがったんだ。俺が急いで見に行った時には、右足が紫っつうか、どす黒い色になっちまってて、痛みでもがいとった」

「そこから仲間集めて、祟り沼の神さん探しに行ったんだが、なかなか見つからなくて、でもそうこうしてるうちに、こいつの足は段々腐り始めちまうし、困まり果ててたときに吾郎の嫁さんが、ここのこと噂で聞いたって言いだして。一か八か担いできたんだ」

妖たちの話から考えると、天狗の足は沼にはまった瞬間に切断されたのではなく、徐々に腐り落ちていったということである。この祟りは、体を浸食していく類のものなのだ。

そして足が腐り始めて、ここまで侵食するのに約十八時間。それほど侵食は速くないというものの、できるだけ足は失わせたくない。一度侵食されてしまえば、たとえ命が助かったとしても、再び足が再生することはないのだ。


「俺もなんか手伝おうか?」

ゴンが清拭を終えた妖たちと入れ替わりに処置室に入って来た。

瑞穂は顔を上げると少し奥に詰めてゴンが座れるようにした。

楓も天狗に薄かけをかぶせてやりながら瑞穂の言葉を待っているようだ。


「まずはこの足だが、天狗は、体をゆっくり浸食していく祟りを受けている。祟っている神が見つかるまで、なんとかこれ以上の浸食を食い止めたい」

「どうするんだ?」

瑞穂は処置室の棚の引き出しから組紐を取り出した。

「この組紐は結界を編みこんであるんだ。だからこうやって――」

瑞穂は組紐を適当な長さに切ると、天狗の右足に巻きつけ、きつめに縛った。

「患部近くに巻いておけば、組紐が発する結界の力である程度は祟りの浸食を遅らせることができる」


この組紐は結界術の得意な瑞穂が考案したもので、長い時間をかけて編みこまれた組紐は強力な結界効果を生む。

瑞穂が組紐を巻くと、天狗の足から出ていた浸出液の量が減りはじめた。

部屋の外から瑞穂の診察を覗き込んでいた妖たちが感嘆の声を漏らす。

「じゃこれで安心てことよね?」

「時間稼ぎはできるが、これで祟りがなくなるわけじゃないし、この結界もいつまでもつかは分からない。早く祟っている神を見つけないと、この天狗が危険な状態だってことは変わらないよ」

瑞穂は、連絡はあったか、と処置室を覗き込んでいる妖たちに聞いてみるが皆一様に首を振るだけだった。

「なあ瑞穂、この部屋霊気の入れ替えした方がよくないか。こんな祟りの臭いが充満してる部屋にいたら頭おかしくなりそうだ」

「そんなことできるのか?」

「部屋の霊気入れ替えくらい朝飯前だ」


ゴンは懐から葉っぱを一枚取り出して、その葉に向かってなにやらブツブツと唱えた。そしてその葉を部屋の入口付近に置く。するとどこからともなく新鮮な霊気が部屋の中に流れ込んできた。

「なんか空気が良くなった気がする」

楓は顔を上げて深呼吸した。

部屋の中には、いつの間にか祟られた足から発せられる瘴気が充満していたようだ。


足の浸食がとまり、すっかり処置室の霊気が入れ替わっても、天狗はまだ眉頭を寄せ苦悶表情を浮かべていた。

時折思い出したように獣のような呻き声をあげたかと思うと、手を伸ばしてせわしなく宙を掴もうとする。目は薄っすら開いているが、目線を合わせることはできず一体どこを見ているのか瞳はひどく虚ろだ。

瑞穂は天狗の目の前で筆を動かしてみたが追視する様子もない。

「これって祟りのせい?」

楓は宙を彷徨う天狗の手を握ってやった。

「祟りが頭を侵して意識を混濁させてるんだろう。それにおそらく足の痛みの影響もある」

「そりゃ足が腐っていくんだもんな、生き地獄だろ」

ゴンが顔をしかめた。

「魂が穢れる前に、痛みにも対処しないといけないな」

「へ? 痛みで魂が穢れるの?」

楓が驚いた顔で瑞穂を見る。

「そうだ。あまりに強い苦痛を与え続けられると、魂が穢れて魔物に転じることもあるんだ。痛みは危険を避けるために重要な感情だが、強すぎる痛みは魂を蝕む」

「なんとなく、わかる気がする」

「だから痛みや苦痛を取ってやることは、患部を治すことと同じくらい大切なんだよ」

瑞穂は立ち上がって診察室に行き、薬棚から薬草の束と一升瓶に入った神水を取ってきた。

「これは鎮眠華ちんみんかといって、痛みを和らげ眠りを誘う効果のある薬草だ。霊力の低い妖に使うと過鎮静になって二度と目覚めないこともあるが…天狗なら使える」

「でもどうやって薬飲ませようか? おっちゃん、口に薬流し込んでも飲めそうにないよね」

「口からは無理だな。噴霧器を使おう。鎮眠華は吸入でも効果があるから」

瑞穂は処置室の棚の上に置いてあった噴霧器を取って楓とゴンに見せた。

「わたし、それやるわ。やり方教えて」

楓は処置室の真ん中に横たわる天狗を回り込んで瑞穂の隣にやってきた。

瑞穂は噴霧器、鎮眠華の束、一升瓶、そして薬研を楓の前に並べる。

「まずは鎮眠華を薬研ですり潰して、その粉を匙に一杯、一合の神水に溶かすんだ。しっかり溶けたのを確認したら噴霧器に入れて天狗に吸わせてやってくれ。様子を見ながら、少しずつ追加して。一合分くらいなら全部吸い切っても問題ない。けど楓は吸わないように注意するんだ」


瑞穂は楓に鎮眠華の準備を任せ、自分は天狗の診察に戻る。

懐から聴魂器をとりだし、気の巡りを確認しようと天狗の胸にあてると、聴魂器がパキと嫌な音を立てた。

耳を離して聴魂器を確かめると、側面に亀裂が入っている。

「うーわ。こんなときに不吉だな」

「いやまあ、これはもともと壊れてたんだ。接着糊でくっつけてんだけど、やっぱり素人修理じゃ駄目だな」

この聴魂器は、以前神堕ちに襲われたときに投げ捨てた衝撃で亀裂が入ってしまっていたのだ。

本当は専門家のところへ持って行って直してもらわないといけなかったのだが、最近なんだかんだと忙しくしていたのと、なんとか瑞穂の修理でも使えていたので、ついつい後回しになってしまっていたのだ。

瑞穂は亀裂の入った聴魂器を脇に置いて、天狗の手首に手を触れて気の巡りを確かめた。

聴魂器で聞くほどはっきりとは分からないが、気の巡り方が不規則で滞っているのが指から伝わって来る。

(これだけ重症なら無理もない…)

祟りによる苦痛が、意識と同じく気の巡りもおかしくしてしまっているのだ。

瑞穂がちらと楓の方に目をやると、楓はちょうどすり潰した鎮眠華を神水に溶かすところだった。

瑞穂が伝えた通り充分に粉末が溶け切ったことを確認して噴霧器に移し替える。

そして自分の顔の鼻から下に布巾を巻き付け、天狗にも同様に鼻から下に布巾をかぶせた。その布巾の下に噴霧器を潜り込ませ、鎮眠華を天狗の鼻に吹きかける。

ゴンは相変わらず宙に彷徨わせている天狗の手を抑えて楓の邪魔にならないようにしてやっていた。

天狗の様子は、鎮眠華を一回噴霧しただけでは変わらなかったが、さらに二回追加したところで体動が落ち着いてきた。顔の力が抜けて表情が穏やかになっていく。

「眠った…のよね」

「一旦これで鎮眠華を追加するのはやめておこう。また痛そうな表情や体動が出始めたら吸わせてやってくれ」

瑞穂たちが天狗にしてやれることは全てやり終えた。あとは、祟り沼をつくった神様が祟りを静めてくれるのを待つだけだ。


瑞穂が処置室を覗き込む妖たちを振り返ったとき、来訪者を知らせる鈴が鳴った。

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