天狗ー1

瑞穂は、しとしと降る、雨の音で目が覚めた。

昨日は一日、雲一つない晴天だったというのに、どうやら夜の間に雨雲が出て来たらしい。

雨の降る朝というのは、いつだって起きるのが辛い。

瑞穂は目をつむったまま、手探りで枕元に置いた懐中時計を探す。無慈悲な音を奏でる時計の針は、ちょうど七時を指していた。


瑞穂は重い体を起こすと、周りに積み上げられた書物をかき分け、押し入れから濃紺の作務衣を引っ張り出す。これを着ると自然に頭が仕事に切り替わるのだ。


着替えをすませ寝室を出ると、縁側から見える空には分厚い雲が垂れ込め、朝とは思えない薄暗い天気だった。

居間にはすでに明かりが灯っている。

居間の障子を開けて中に入ると、楓の姿は見当たらず、ゴンが船をこぎながら火鉢にあたっていた。

火鉢の中では火にかけられた鉄瓶がシュンシュンと音をたてている。


瑞穂は炬燵に入り、火鉢で顔面を炙りそうになっているゴンに声をかける。

「そんなとこで寝たら危ないぞ」

急に声をかけられて驚いたのか、ゴンはびくっと肩を震わせると、おもむろに瑞穂の方を振り返った。半開きの目のまま、おはよ、とくぐもった声を出す。


「瑞穂起きてきたー?」

楓が台所に通じる内廊下から居間に入って来た。握り飯を乗せた盆を持っている。

最近は、早起きな楓が朝食を担当し、夕食は瑞穂が作るという役割分担が自然とできあがっていた。

「瑞穂起きてくるの遅いから先に一個食べちゃった」

楓は溌溂とした声でそう言いながら、持ってきた盆を炬燵の上に置く。

今日の握り飯は、炒めた大根の葉を混ぜ込んだものと、海苔巻きの二種類だった。

こぼこぼ――。

けたたましい楓の登場をよそに、ゴンはまだぼーっとした様子で、熱い鉄瓶を持ち上げ茶碗に湯を注いでいる。

「何作ってるの?」

楓がゴンの手元を覗き込んだ。

湯が茶碗に注がれると、湯気とともに、ふわりと香りが立つ。微睡みのような甘さのなかに、生姜のようにぴりりとした香ばしさが混じる。

この飲み物は――。

香嘉かかだよ」

ゴンはめんどくさそうに答えた。


寝起きのゴンは機嫌が悪い。特に今日は普段より起床時間が早かったから、なおさらである。

そんなゴンの態度にめげず、楓は香嘉ってなに? と聞き返す。

「香嘉は、香嘉だ」

香嘉というのは、天界に生えるよしという名の木の実を主原料とした飲み物で、妖が好んで飲むものだ。

嘉の木の実は、人の拳ほどの大きさがあり、中には栗のような実が詰まっている。

実はそのまま食べると渋くて食べられないが、すり潰して乾燥させると渋みが抜け甘味だけが残る。

その乾燥させた嘉の実の粉末に、数種類の香辛料を混ぜて作るのが香嘉なのだ。

混ぜる香辛料の種類や配合量は地域によって微妙に違うので、その妖が作る香嘉を飲めば、作り手の出身がそれとなく分かるのだった。


ゴンは昨日、楓が寝てから、いそいそと香嘉の調合をしていた。

この辺りでもよく使われる香辛料の調合に加えて、ゴンは一つ珍しい香辛料を使っていた。陳皮というみかんの皮を乾燥させたものだ。陳皮には苦みがあるので、通常香嘉には入れない。妖は苦みのあるものをあまり好まないのだ。

一体どこの地域で陳皮を香嘉に入れるのかとゴンに聞くと、これは地域的な特色ではなく師匠の影響なのだと答えた。

ゴンが師匠と一緒に暮らしていたのは、ここから東の山を越え、海のように大きな湖のほとりだった。基本的な香嘉の調合は、この辺りのものとそう変わらないが、そこに陳皮を入れるという独特の飲み方をするのは、師匠が人間の飲み物や食べ物を好むひとだったことからだという。人間は古くから陳皮をお茶に混ぜて飲むなど、生薬として用いてきたと聞く。

それにしても、普通なら妖が嫌う苦みの香辛料をわざわざ使うなんて、ゴンの師匠も物好きなやつである。


「私もそれ飲んでみたい」

ゴンは香嘉を飲みながら、空いた手で香嘉の粉末が入った箱を楓の方へ押しやった。

楓はさっそく自分の湯呑みに香嘉の粉末を入れ、湯を入れてゆっくり匙でかき回す。

かちゃかちゃという甲高い音とともに再び香嘉の香りが立ち昇る。

粉末が溶けてわずかにとろみが出たところで、楓はおずおずと湯呑みに口をつけた。

「ん? これはコーヒーとも違うし、ミルクティーでもないし。…チャイティーに近いかな。甘いのに、ちょっと苦い」

「目覚ましにいいだろ、この苦み」

ゴンはすでに湯呑みを空にして、大根葉の握り飯を頬張っていた。


ちりん、ちりん

楓が立ち上がろうとするが、ゴンが手を挙げそれをとめた。

「俺が行ってきてやるよ」

すっと立ち上がって、診療所の方へ向かう。

ゴンなりに仕事に前向きに取り組もうと思っているのだろう。おそらく急に香嘉を作りだしたのも、朝の苦手な彼が気合を入れるためだ。


診療所の方から、しわがれた女の声が聞こえてきた。この声は常連患者の山姥だ。

瑞穂は握り飯を飲み込むと自分も診療所の方へ向かった。

「あんた、いつからあんな可愛い子を飼いだしたんだい?」

診察室に入って来た山姥は、入って来るなりゴンのことを根掘り葉掘り瑞穂に聞いてきた。

どこで拾ってきたんだ。ここに住んでいるのか。神堕ちを祓った妖というのは、あの猫のことか。あんな美少年がいるだなんて聞いてない。

いつもしかめっ面で奉公先の愚痴ばかり言いにくる山姥が、今日は大そうご機嫌な様子である。

「おれが知ってるのはここまでだ。あとは本人に聞いてくれ」

瑞穂は山姥に「鎮痛の護符」を渡すと、まだペラペラと話し続ける山姥の肩を掴んでくるりと反転させ、そのまま診察室の外に連れ出した。

番台ではゴンが香嘉を片手に漫画を読んでいるところだった。山姥と瑞穂が診察室から出てきたことに気づいて顔を上げた彼は、山姥と目が合った瞬間、瑞穂が見たことのない爽やかな笑みを向けた。山姥はその微笑みに、まるで少女のように頬を赤く染める。

ゴンは山姥が会計を終えて帰るまで、その爽やかな笑みを絶やさなかった。


山姥が帰ってから一時間もしないうちに、診療所は急に込み合ってきた。

ただ、なぜかやってくるのは婆さんの妖ばかりだ。しわしわの狐や狸。腰の曲がったろくろ首。白髪まじりの一つ目女。

みんな口をそろえて腰が痛いと言ってやってくるが、どの妖も大して腰が痛そうには見えない。中には診察室に入ってから、受診に来た理由を考えるものまで現れる始末だった。


「みんなゴンを目当てに来てるみたいね」

診察室と待合を行ったり来たりしている楓は悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。

診察室から襖を少し開けて待合を覗くと、番台に座るゴンが婆さんの妖たちに取り囲まれているのが見えた。

ゴンは嫌な顔一つせず、先ほど瑞穂が見た、あの爽やかな笑顔で婆さんたちに対応している。

ふと待合の窓に目をやると、窓の外からも入れ替わり立ち代わり、ゴンの姿を見にやってきているものまでいる。

「いったいなんなんだこれ」

「ゴンって綺麗な顔してるからさ、お婆ちゃんたちから受けがいいのよ。普段は死んだ魚みたいな目してるのにね。ほら見てよ、ゴンがあんな営業スマイルできるなんてびっくり」

先ほどきた山姥がゴンのことを言いふらしたに違いない。

お陰で診療所は大盛況だったが、俄かに増えたものというのは、やはり減るのも早く、俄か患者たちは正午をまわる頃には潮が引いていくようにいなくなった。

「あー、疲れた。俺ちょっと昼寝するわ」

ゴンは獣姿になると診察室の座布団の上で丸まり眠ってしまった。

瑞穂はその横でずいぶん減ってしまった「鎮痛の護符」を作る。

「わたし考えたんだけどさ。護符を渡すだけじゃなくて、お灸とか腰の揉みほぐしもしてあげたらどうかな。人間の接骨院はそういうのするんだよね」

「灸はやったことないなあ」

「わたしがやる。実はわたし接骨院で働いてたの」

「そうなのか?」

「だから揉みほぐしとか得意なんだ」

人間の身体の知識が妖に通用するのかは分からないが、一度やらせてみてもいいかもしれないな。と瑞穂は護符に筆を滑らせながら思った。


診療所は午前中の喧騒が嘘のように、静まり返っていた。

診察室には、窓の桟に滴る雨音と、時々パチッと爆ぜる火鉢の炭の音だけが響いていた。

「雨、やまないね」

朝から降り続く雨は、夕方になっても降りやむ気配はなく、むしろ徐々に雨足を強めているようだった。

瑞穂と楓が窓の外をぼんやり見上げていると、ゴンがむくりと起きてきた。人の姿に戻ったゴンは、眉をひそめ険しい表情をしている。

「なんか近づいてきてる」

瑞穂と楓には何も聞こえなかったが、ゴンは診察室から出ていき、診療所の玄関の扉から外を覗いた。診察時間中、開け放っている門の向こうを睨みながら耳をすませている。


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