契約ー2

狐夫婦と別れた瑞穂たちは、受付に向かった。

ひとごみの中からやっと「契約申請受付」と書かれた文字を見つける。

その受付台の上には、手乗りできるほど小さな茅鼠が乗っていて、「千二百五番」と書かれた札を瑞穂に渡してくれた。


「今何番まで呼ばれてるんだろう」


ゴンは瑞穂の肩をとんとんと叩いて、奥の壁にかけられている垂れ幕を指さした。

そこには、「只今、八百十番」という殴り書きのような文字が見えた。

しばらくすると、その文字がふっと消え、新たに「只今、八百十一番」という文字が現れた。


「呼び出された番号を教えてくれるのね」

楓はなるほど、といった顔で頷く。


垂れ幕の数字からすると順番が回ってくるのは、まだまだ先になりそうである。

瑞穂は肩をすくめ、楓とゴンを連れて空いた待合椅子を探した。


「ここの職員、鼠ばっかりだな」


開け放たれた一の間の扉の向こうには、ちょうど式典準備をしている最中の広場が見わたせた。職員札をぶら下げた鼠たちが駆けずり回っている。


「まあ元々役所には鼠が多いからな」


鼠の妖は霊力は高くないが、その割に知能が高く真面目な性格の者が多い。

そんな鼠は役所などでは昔から重宝されていた。


「それにしたって偏りすぎだろ。妖の雇用監督署なのに、これじゃ鼠の監督署だ。おまけに今度は署長まで鼠ときた。絶対えこひいきしてるだろ」

「妖の世界も大変そうだね」


ゴンは嘲笑うような笑みを浮かべる。


「妖なんてまだ可愛いもんだ。神様たちの世界はもっと恐ろしいぞ」


ゴンは隣に座る瑞穂に目線をむける。


「おれ、そういうの詳しくないんだ」


本当だった。興味もないし、下界に住んでいると天界の情報はほとんど入ってこない。


「千二百五番の方! 六の部屋へ!」

手元から声が聞こえた。

整理札を見ると、そこには千二百五番の文字が消え、代わりに六という文字が浮かび上がっていた。


指定された六の部屋に入ると、そこは几帳で仕切られた二畳ほどの狭い小部屋で、真ん中に文机が置いてあり、その向こうに半妖姿の若い女鼠が座っていた。


「今日は、契約の申請ですね」

「はい、非神使契約でお願いします」

「では、こちらの太枠に必要事項の記入と、神様、妖様、双方の拇印をお願いします」


瑞穂と楓、ゴンは言われたとおり書類に記入し、三人順番に拇印を押した。


「ではこれで手続き終了となります」

三人は若い鼠に礼を言って部屋を出た。


「あんな簡単でいいの?」


出口に向かいながら楓が瑞穂に言った。


「あんなもんなんじゃないか?」

瑞穂も初めてのことなのでよくは知らなかった。


「神使契約はもっと大変らしいけどな。お互い術をかけ合うことになるから、妖の方も術式覚えたりで時間もかかるらしい」


パンパカパッパーン

二の丸御殿の外に出ると、ちょうど監督署の三百周年記念式典が始まったところだった。

派手な銅鑼と鈴の音が鳴り響いている。野外舞台の前には大勢の人だかりができていた。


「ちょっとだけ見ていこうよ」


楓は瑞穂が止める暇もなく、人だかりの方へ走っていってしまった。


「俺も酒もらえるなら飲みたい」


ゴンも楓のあとを追う。


(だから式典が始まる前に帰りたかったのに…)

こうなっては仕方がない。溜息をつきながら瑞穂も二人のあとを追った。


人だかりに開いたわずかな空間に瑞穂が体をねじ込んだとき、司会と思しき半妖の女狸がちょうど署長を舞台に呼び込むところだった。


司会の大げさな紹介で舞台に上がった新署長は壮年の女鼠だった。署長は貼りつけたような笑顔を聴衆に向け、あいさつを始めた。


「このような記念すべき日に、署長を勤めさせて頂いていること、大変光栄に思います」

その声は集まった人々に語り掛けるような口調だったが、どこか冷たく厳しさが見え隠れするものだった。


「女性初の署長就任と言うことで、皆の注目も高いと思われますが、署長ご自身はこれまでの軌跡を振り返られて、今どのように感じていらっしゃいますか?」

「感極まる思いでおります。ここまで来るのはけっして、なだらかな道ではありませんでした。まだ、わたくしのような者が、このような大任を全うできるのか、不安もございますが、やるからには決死の覚悟で臨みたいと思っております」

「先月の着任からすでにその才覚を見せていらっしゃる署長を、『神に』と期待しているものも多いとか」

「恐れ多いことでございます。しかし万が一にも、わたくしが神になれた暁には、神と妖のさらなる発展に寄与できればと、そんなことを夢想しております」


署長は夢見る少女のような笑顔を聴衆に向ける。


「ねえ瑞穂、妖って天界で出世したら神様になれるの?」

楓がゴンに聞こえないように小さな声で聞いた。


「それはない。妖から神になる者もいるが、どういう理由で神になるのかは分かっていないんだ」

「でも、あのおばさん神様になれるかもって言ってなかった?」

「妖にとって神になることは一種の夢なんだ」


瑞穂の説明を聞いても、楓はまだ首を傾げたままだった。


人間の楓には、その感覚は分からないかもしれないが、妖にとって神になるということは、希望であり、目指すべき目標として語られることがあるのだ。


署長はその後も、司会の質問にすらすらと答えていた。

あらかじめ答えは用意してきているのだろうが、群衆の前で堂々と語る署長の姿は、さすが女性初の署長に選ばれるだけのことはある、と思わせるものだった。


だが群衆のなかには彼女に対して否定的な者も少なからずいるようで、至る所からひそひそと噂話が聞こえてきた。


『あの鼠、神様になりたくてたまらないって顔してるな』

『あら、いいじゃないのさ。私は甲子様のような方が神様になってくれたら嬉しいねえ』

『バカいえ。あんなのが神様になったら、天界は終わりだ。おまえ、あの腹黒鼠の噂、知らないのか? 署長の椅子だって、そうとう無茶して得たものらしいぞ』

『あんた、そんな噂信じてるのかい。甲子様はそんな悪いことするような方じゃないよ』

『悪事の一つもしないで、女鼠が署長なんてなれるわけないだろ』


「では、只今より、お集りの皆々様へ、署長自ら祝い酒を振舞われます。どうぞ、盃を受け取った方から前へお進みください」


野外舞台の前に集まった人だかりの中を、鼠たちが駆けまわり一人ひとりに盃を配りはじめた。


「俺たちも並びに行こう」

ゴンがそわそわしながら瑞穂に言った。


「二人で行って来てくれ」

「なんで瑞穂も一緒に行こうよ」

「おれは、酒飲めないんだ」


楓とゴンは豆鉄砲をくらったような顔になった。


「ええ? 瑞穂って稲の神様でしょ。お酒って、米からできてるよね?」

「そうだけど、駄目なんだ」


楓が哀れみの目で瑞穂を見る。


「そんな神様もいるんだ」

「だからかあ。瑞穂ん家、全然酒ないなぁって思ってたんだよ」


楓とゴンは二人で署長に酒をもらいに行き、盃に並々と注がれた酒をこぼさないようにと慎重に歩きながら瑞穂のもとに戻ってきた。

すると急に楓が、盃を瑞穂の口元に持っていく。

酒の香りがふわりと瑞穂の鼻をくすぐり、それだけでもう、瑞穂は頭がくらりとした。


「あ、ほんとに駄目なんだお酒」


瑞穂は楓を睨んだ。


「だから言ってるだろ」


楓はごめんごめんと悪戯っぽく笑った。


「楓は大丈夫なのかよ。人間が妖の作った酒飲んでもいいのか?」


瑞穂と楓はぎょっとしてゴンを見つめた。

ゴンは二人の様子に首を傾げる。


「…おまえ、人間って。もしかして楓のこと」

「え? 楓は人間なんだろ?」


楓がとっさにゴンの口を手で押さえた。そのはずみで、せっかく並んでもらってきた酒が全部こぼれる。


「なんにむむっ」


ゴンはこぼれてしまった酒を悲しそうに見つめた。


「おまえ、楓のこといつから知ってたんだ?」

「いつからって…たぶん最初から。俺があんたらの話聞いてないと思ってたのか?」

ゴンは獣姿でいた時も、ずっと瑞穂と楓の会話を聞いていたのだ。

「猫だと思って油断してた」


楓は頭を抱える。


「まあいいじゃん、これから一緒にやってくんだしさ。これでお互い隠しごとはなくなったってことで」


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